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第32話

十二年ぶりに訪れた博美の実家は、相変わらず威圧感だけは立派な洋館だが、驚くほどあっさりと通された。 もうちょっと抵抗されると思っていたので、博美は逆に怖くなる。中に案内した中年の女性は知らない人で、博美がいたころのお手伝いさんはもうおらず、恒昭が来た時に入れ替えたのだと聞いた。 客間で待つように言われて、博美は部屋を見渡す。洋風のアンティークが並ぶこの部屋は、こちらも記憶にはない景色だった。 すると、部屋の外から男性の声が聞こえた。その声に、びくりと体を震わす。 「勝手に出て行って勝手に戻って。ワシらをなんだと思ってるんだ!」 どうやら恒昭のことを言っているらしい。その人物はそのまま喚きながら客間のドアを開く。 「恒昭! 貴様、許さんぞ!」 開口一番そう言った父親は、博美の記憶通りだった。博美の来訪は知っているはずだから、無視をするつもりらしい。 部屋に入るなり恒昭につかつかと近づき、手を挙げる。 しかし、この中で誰よりも体格が良い幸太に止められた。腕を掴まれた父親は、ぎろりと幸太を睨む。 「何だ貴様は。家に呼んだ覚えはないぞ、さっさと帰れ」 記憶と少し違うのは、少し衰えた体と、白髪交じりになった髪の毛だ。そして、幼い頃にはあんなに大きく感じた父親が、今は小さく見えた。 「お父さん……」 博美は声を掛けると、父親──(ひろし)は、博美も睨む。 しかし、敵意をむき出しにされているのに、何故か全然恐怖を感じなかった。 「お前、帰ってくるなと言ったはずだ。それに、お前の父親ではない」 「……うん、そうだね」 何でこんな小さな人間に、あんなに怯えていたのだろう。不思議と心に落ちた感情は憐みだった。 何年か会わないうちに博美の心が成長したのか、それとも博が人間的に落ちたのか。 博美は静かに博の言葉を受け止めると、言葉を続ける。 「でも、血は繋がっているから一応報告。俺、この人と生きてく」 そう言って幸太の腕に触れると、彼は博の腕を掴んだ手を放した。衝撃が大きかったのか、博の抵抗はなくなる。 「俺、男の人しか愛せないけど、今はもう、幸太しか愛せないんだ。だから、ここへは本当にもう来ない。今までありがとう」 卑屈なことは言わないと、幸太とここへ来る途中で約束した。 これは最後の一言まで博美の本音だ。ろくな思い出はないけれど、今生きていられるのは両親のおかげだということは、忘れてはいけない。 すると、博は呆然としたまま、膝を付いた。その姿を見て幸太が、やはり何かを見通していたのか、呆れたため息をつく。 「これが、あなたのやった結果だ。あなたは博美を追い詰め過ぎた」 「そ、そんな……」 その一言で、博美は博の真の心境を垣間見ることができた。想像とは違う結末に、博美もどうしていいか分からない。 (厳しくすれば、もうだめだとすがってくると思ったのかな) あくまで推測にしか過ぎないけれど、一種の愛情の裏返しではないかと感じた瞬間、幸太の一言がよみがえる。 (もう十分傷ついてきたんだから、そろそろ思い通りに生きても良いんじゃないか) 素直に親の言うことだけを聞くことを期待され、がんじがらめにされた幼少時代。 親なしでは生きられないだろうと放り出してみれば、博美の場合は計算違いだったのだ。予想以上に強かった博美は、親の庇護を求めず、険しい道を行くことに決めた。 「博美さんは俺が絶対に幸せにする。だから……子供を二度も捨てるなよ」 幸太はそう言うと、博美の腕を引っ張って部屋を出ていく。すれ違いざまに恒昭と目配せし、後を頼む、と去った。 廊下を進みながら、博美は振り返る気分にはならなかった。あまりにもあっけなく終わってしまった面会。諸手を上げて喜ぶ心境でもないけれど、これで終わりだと言うよりは、これからが本番なんだ、と何故か感じた。 それは幸太も同じだったらしい、掴んでいた腕を一度放すと、手を握ってきた。 「このまま博美さんのうちへ行く。良いよな?」 「うん……」 博美は手を握り返した。しっかりとした感触がたくましく思えて、ドキドキしたのは内緒だ。 (何だろう……武者震いみたいな、感じかな) 思えば性的な接触も二ヶ月はしていないのだ、緊張した興奮と、それの興奮とごっちゃになってしまっているのかもしれない。 博美の無駄に大きな実家を出ても、二人はずっと手を握ったまま歩いた。 誰かに見られたらとか、見られて指を指されたら、とかどうでも良かったのだ。 「博美さん、俺が正社員になったら同棲して」 幸太もいつもと違う雰囲気だ。まっすぐ前を向いて、否定の言葉を許さないような口調で言い切る。 「うん」 博美は素直にうなずいた。 「で、俺の収入が安定したら、籍入れて。頑張って稼ぐから」 「うん」 「じゃ、帰ったらしよ」 「……うん」 幸太の隠さない言葉に、博美は恥ずかしくなって俯いた。手のひらの体温が上がったのを感じ、幸太がこれに気付きませんように、と願う。

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