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第30話
「お前を谷 から出してやろう。無論、人間 の姿で、だ」
「なんだって……?」
グルゥっと軽く唸って、牙を剥き出す。
「どうした? 嬉しくはないか? 弟──今は、あんな幼子の姿だが」
くくっと嗤う。
「傍にいられるんだぞ。そうだ──父親として、なんていうのはどうだ? お前もそれが望みだったのでは……?」
酷薄そうな薄い唇が、にたりと弧を描く。
「それがあの男を見捨てた理由だとでも……っ!」
怒りに身体が震える。
しかし。
全くなかったかと言われれば、どうなのか。心の片隅にあったのではないかという己への不信感に、黙り込んだ。
宙に浮くその神の、冷たく美し過ぎる顔を見つめる。
神は地に足をつけた。
ゆったりと獅子に近づいてくる。
それだけなのに、萎縮して身体が動かない。
「人の世に生きるには、お前の力は強すぎる。封じておこう」
神は獅子の右の──銀の瞳に掌を当てた。
そこから白い光が広がり、二人を覆いつくす。
その光りは徐々に消えていき、そこにはもう、獅子の姿はなかった。
男は──自分の手を見た。もう忘れてしまうくらい永いこと見ていない人間 の手だ。
彼は後ろを振り返り、水鏡に自分の顔を映す。
「これは……」
金色の髪。青い瞳。
しかし、右眼はくっついたように開 かない。
その顔は、前世のものに似ている気もするが、もう余りよく覚えていなかったし、眼前の神の顔にも何処か似ているような気がした。
「どうして……?」
「どうしてとは?」
「貴方が親切心でこんなことをするとは思えない」
訝しげに神を見る。
「──生まれ変わった弟といるのは、果たして幸せかな? ──いつまでその姿でいられるだろう。それまでに弟の記憶は甦るのか……」
ふふっと楽しげに笑う。
「なるべく長く私を楽しませておくれよ」
謎めいた言葉を残し、神は消えた。
★ ★
「お前の真実 の父親は、この谷で眠っている」
その場所がその方向にあるのか、遠くを見つめる。
「すまない、トール」
トールは何も言えず、ゆっくりと頭 を振った。
「──お前の父親として、お前の成長を見守ってきた。成長してくるとお前は何故かあの頃のお前に似てきたような気がして、少し苦しかった……。記憶はないのに……。その名を呼ぶのも……。トールとイオは、今のお前の名でもお前の父親の名でもなく、あの頃の私たちの名だ」
「そうですね。兄さん……」
その口調は、過去のトールのものだった。
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