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89.今ここにある幸せ
数日が過ぎ、ハルの身体が回復した頃。
そろそろ城へ戻ろう、ということになった。
名残惜しさはあるが、いつまでも休んではいられない。やらなければならない公務がある。
ハルが森の新居で休んでいる間にも、ユキは王子の公務を果たすべく何度か城に戻っていたので、既に道は熟知しているらしい。
「城までちょっと遠いから、乗せていくよ」
「…お前の言う『ちょっと』って、時間で言うとどれくらいだ?」
「うーん…今から行けば、昼過ぎに着くかな」
「そんなに!?お前、身体は大丈夫なのか?」
「へーき」
高齢の執事セバスチャンが馬車で来ていたことで察せられたが、森の新居から城までは、よほどの健脚か、四つ足でなければ踏破できない距離のようだ。
新居の、素朴な柵に囲まれた広い庭。
木漏れ日と、愛らしい鳥の声の響く庭だ。日の当たる場所には、ささやかに野生の小花が咲いていた。
「…じゃあ、行こうか」
芝生を踏み締めたユキはそう言うと、意識を集中させるように軽く目を瞑った。
肩まで届く癖毛がふわりと風にそよぎ、空気がかすかに震える。
ユキの影が一回り大きく揺らぎーー次の瞬間、
濃茶色の艶のある毛並みを持つ巨大な獣へと姿を変えた。
しなやかな筋肉は盛り上がり、怪我していた箇所はほとんど跡形もない。ワーウルフ特有の驚異的な回復力だ。
獣の姿のユキは、その場でくるりと回ってから、地面に伏せた。
『乗って』と言っているのだ。
「頼む」と、ハルはその背にまたがる。
獣の姿になったユキの背中の毛は、太くて硬い。
ここ数日、ベッドで昼夜もなく抱き合っていたせいで、柔らかな腹の方の毛の印象が強かったが…
ハルが獣の頭を撫でると、柔らかな三角の耳を伏せて、ユキが気持ちよさそうに目を瞑る。
「ワォン!」
ユキが吠えた。駆け足から、一気にスピードを上げていく。
木々の合間を縫って駆け抜けるたび、光が幾筋も流れ、影が揺れた。
耳元で風が鋭く鳴る。ワーウルフの四肢が大地を蹴る速さは、人間では到底真似できない。
(もし、こどもができたら、こうやってパパと一緒に風になって走っていくんだろう。おれは笑いながら、美しい光景を見守るんだろうな)
ーー未来の、あたたかい家族の姿。
ハルはそんな自分の想像に、思わず胸がじんと暖かくなるのを感じた。
***
城へ戻る前に、ふたりはワーウルフの街へ立ち寄った。
ここは自然が身近で、しかし「未開」という言葉は似合わない。
木材と石を組んだ家々はどこか温かく、獣人たちの文化に根ざした文様が施されている。家ごとに守り神を象徴する印が掲げられ、道端には薬草を干す棚が並んでいた。
「あれっ?王子ー!」
「ユキ王子!見ていってください!新しい品ができてますよ!」
「お城にひとつどうですか?」
城下町にユキが来たのを見て、大通りに屋台を出していた獣人たちが方々から声を掛ける。
粘土を練って手びねりで作られたらしい壺や皿が並び、色とりどりの陶器には細かな装飾が彫り込まれている。干した魚や薬草、ビーズのような珠のネックレスや、指輪の形に紐を通したもの。
ビーズには牛や兎、鳥、魚、貝を思わせる小さな紋様が彫られていて、ハルは目を見張った。
「日本にも似た技術はあるけど…これは見事だな。こんな細かい模様、どうやって彫ってるんだ?」
「あそこの匠の家で作ってるよ。見に行く?」
ユキが指差したのは道の外れ。窯の煙が、青空へ細く立ち上っている。
「欲しいものがあったら、オヤジに頼んでみるから」
「……!」
ハルの目がぱっと輝いた。
***
陶芸の店は、薄暗く、ゴザが敷き詰められていた。棚には所狭しと作品が並べられていて、先ほど見たアクセサリーや、実用的なものから、家庭的な食器も取り揃えているようだった。
「王子!」
店の奥から現れたのは、モップのように毛むくじゃらの、職人気質の獣人オヤジだった。毎日何時間も陶芸をこねた成果で、腕っぷしは相当だ。コモンドールや、プーリーという、モップのような被毛が特徴の犬種がいるが、それに近い血が流れているのだろう。
「あぁ、オヤジさん久しぶり。元気だった?」
「元気だった?じゃねえよ!このまえ盗賊か何かが出たとかで、騎士団の奴らが出払ったっていうじゃねえか!俺はお前さんのこと心配してたんだよ!」
「大丈夫だよ。すぐ沈静化させたし」
「おーおー!やってくれてんなあ!」
ユキはオヤジと、拳と二の腕を何度もぶつけ合うという特殊な挨拶を交わす。
親しい間柄が知れるユキとオヤジのやりとりを受けて、ハルはぺこりと小さく会釈をした。
「こんにちは」
「お?んん…!?」
ワーウルフの文化にはない方式の挨拶をされたオヤジは一瞬怪訝そうにしたが…
はっと何かに思い至ったような顔をして、唐突にハルの匂いを嗅ぎ始める。
「な、なに…!?」
驚くハルに向けて、オヤジはニヤリと笑った。
「そういえばこのまえ王子ご結婚のお達しがお城から来たと思ったら…王子様もなかなかやるじゃねえか!」
それで、ようやくハルは気付いた。
ここ数日、ユキと文字通り一心同体になっていたから、鼻のいい獣人オヤジには全てバレてしまったのだろう。
「オヤジ」とユキが嗜めるが、
「はっはっは」とオヤジは豪快に笑った。
「あんたさ、この王子様をよろしく頼むよ!ちょっと頭の部品が壊れてる所があるけどよ、根はいい奴だからな!」
オヤジは続けて、
「昔はな、王子様はお勉強の先生方に折檻されるのが怖くて、よくここまで逃げて来てなぁ。泣きべそかいてる王子様にウチの嫁さんがオヤツをやったら、しばらく居着かれちまってさぁ…!」
「そうなのか?」
ユキを見上げると、面白いくらい仏頂面をしている。
「そんとき王子様は十歳だってのに、魚の取り方も知らなくてよぉ!うちの息子たちが教えてやるっつって裏の川に連れてったら、溺れて風邪引かせちまってなぁ!」
そこから、オヤジの話は止まらなかった。
ユキの幼少期の失敗談が、次から次へと飛び出し、そのたびに本人の仏頂面が深まっていく。
「……オヤジ、もういいから」
「ええ?裏山の木のウロに王子様が鼻面突っ込んで、蜂に刺されてこーんなにでっかく腫れた話してねぇけど!?」
「だからさぁ…」
疲れ切ったユキのセリフに、ハルは思わず口元を押さえた。
「……今日は、ありがとう」
ハルが短く頭を下げると、オヤジは満足そうに腕を組んだ。
「いいってことよ。何かあったら、また寄りな」
店を出ると、外の空気が少しひんやりして感じられた。
歩き出してからも、ハルの肩は小刻みに揺れている。
「……笑うな」
「だって……」
言いかけて、ハルはまた吹き出した。
「……ユキ、かわいいとこあるんだな」
その一言に、ユキは耳まで赤くして、何も言い返せなくなった。
それからもふたりは、土産屋を覗くような気持ちで街を散策した。
風に混じるのは、懐かしい“土”の匂い。
獲物を捌くための短刀。干し肉を燻す香り。木彫りの護符を削る音。
ユキは歩きながらそれぞれの由来を説明する。
ふたりは屋台で貰った、リンゴに似た果実を甘く揚げた菓子を分け合っていた。
「…ユキ」
「ん?」
「おれ、この街好きだな」
「うん。静かで、素朴で、でもすごく強い。ハルにも、ちゃんと見てほしかった」
ユキは少し笑みを含ませ、一呼吸置いた。
「俺たちの守った街だよ」
ハルは少し照れ、視線をそらす。
「そうだな…」
せっかく街に来た記念に、何か素敵なものを――とは思うのに、迷ってばかりで手が出ない。
迷っているうちに、ふと足元に小さな影が落ちた。
「ねえ」
いつの間にか、何人かの子供が集まってきていた。
獣人の子供たちだ。まだ幼く、耳や尻尾の動きも落ち着きがない。
「それ、買わないの?」
指差されたのは、先ほどから何度も視線を向けていた、青いビーズの連なったブレスレットだ。
「あ……うん。どれも素敵で、決めきれなくて」
そう答えると、子供たちは顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「ねえ、ねえ」
じっとハルの腹のあたりを見ていた一人が、そう話しかけてくる。
「赤ちゃん、いつ生まれるの?」
思わず、ハルは瞬きをした。
「え?」
驚きすぎて、声が裏返る。
「ま、まだ分からないけど……」
子供たちは、否定されても気にした様子もなく、今度は顔を見合わせて、満足そうにうなずいた。
「やっぱり」
「精霊様、喜んでるよ」
「今日、なんだかキラキラしてるもん」
無邪気な声。
断定でも予言でもない、ただの感覚の共有のような言葉。
ハルは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「……そっか」
それだけ答えると、子供たちはもう興味を失ったように、別の店へ駆けていく。
振り返りもせず、街のざわめきの中に溶けていった。
残されたハルは、無意識のうちに、自分の腹へそっと手を当てていた。
「……信じる?」
隣で、ユキが静かに聞く。
「うーん……」
少し考えてから、ハルは小さく笑った。
「信じる、っていうより……悪くない気分」
「俺は早く赤ちゃん欲しいけど…」
「待ってろってば」
「うん、そんなにすぐはできないって言ってたもんね。今はハルと一緒にいられるだけで幸せだから、それで十分なのかも」
ユキは何気なくそう言って、ハルが気になっていた青いビーズのブレスレットを二つ手に取った。
「これちょうだい」
「いいよ、持っていきな、王子様!」
ユキは、屋台のスタッフにそう声を掛けた。店主は快く見送ってくれた。
「手ぇ出して」
「ん」
ユキが、顔パスで貰ったばかりのブレスレットを、ハルの腕に通してくれた。
ハルもまた、ユキの腕にブレスレットを通す。紐はよく伸びるゴムでできているようで、ユキが獣の姿になっても、圧迫することはなさそうだ。
「綺麗だ…」
ハルが手首を太陽に翳すと、透明感のある青いビーズが透けて、魚を模したメダイがキラキラと輝いた。
「お守りだよ」
「…ありがと」
「これで、お揃いは二個目だね」
とユキは嬉しそうに言って、犬耳に付けた結婚指輪のフープリングを示した。
(…ああ、好きだ)
指先が絡まり、自然と歩幅が揃う。
街の石畳を踏みしめながら、ふたりは並んで歩き出す。
「あっ!これってもしかして、食べ歩きデートってやつ?」
「まあ、そうだな…」
リンゴ菓子を口に放り込んだユキが頰を上気させて、ハルを見た。
その無垢な瞳に映し出されるのが恥ずかしくて、ハルは口を尖らせてぶっきらぼうに答えた。
土の匂い、遠くの窯の煙、子供たちの笑い声。
まだ形のない未来と日常が、確かにここにある。
ハルはその温度を確かめるように、そっと指に力を込めた。
ユキの手が、応えるように握り返してくる。
——それだけで、今は十分だった。
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