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88.未来の話
(……馬車の音?)
ゆっくりと意識が浮上する。
かすかな揺らぎが鼓膜をくすぐり、ハルは瞬きをした。
部屋の中はまだ薄暗く、窓の外では木立ちが風に揺れているだけに見える。
「……いまの、馬車……?」
かすれた声でつぶやくと、傍らで本を読んでいたユキが顔を上げた。
楽な部屋着に着替えていた。
「あ、起きた? 窓、少し開けるね」
ぎい、と木枠が鳴り、朝の空気が流れ込んでくる。
どこか懐かしいスープの匂いが、ふわりと部屋に満ちた。
「……いい匂いする……」
ハルが眉を寄せると、ユキは頬をゆるませる。
「うん。セバスチャンが来て、朝の食事を置いていってくれたんだ。さっきの馬車の音、多分それ」
「ああ……」
胸の奥にじわりと温かさが広がる。
セバスチャンは決して部屋を覗かなかったそうだ。ノックも必要最低限で、そっと食事だけ置き、ユキの気配を確認すると馬車を走らせて帰っていったらしい。
その控えめな気遣いが、今はひどく沁みた。
ユキがスープの器を手に取る。
ハルは体を起こして受け取ろうとしたが――
「いてててて……!」
全身にじんと痛みが走る。
数日の無茶が祟り、どこもかしこも力が入らない。
それに、ヒートがようやく落ち着き、どっと疲れが押し寄せていた。
ハルは自分の身体に散ったキスマークを見て、ここ数日間の“盛り上がり”を思い出し、顔が熱くなる。
ユキはスープの器を持ち直し、ベッドの端に、ハルと膝を寄せ合うように腰掛けた。
「無理しなくていいよ。起きるの、ゆっくりで」
「……寝すぎて、逆にぼーっとする……」
「うん。少し食べよう。ほら、スープ。温かいよ。セバスチャン、ハルの好み覚えてくれてるから、きっと優しい味」
ゆっくり上体を起こし、スープをひと口。
柔らかな野菜と肉の旨味が胃に広がり、じんわり体が温まる。
暖炉には鍋がかけてあり、火がくべてあった。
セバスチャンが届けたスープを、ユキがそこで温めてくれたのだろう。
パンを浸して食べると、体力が少しずつ戻っていくのを感じた。
ヒートの後は、毎回こうだ。
身体が食事を受け付けなくなり、快楽ばかり追って数日が過ぎる。
体重も落ちがちで、オメガは小柄で痩せ型が多いのもそのせいだ。
スープを飲み終えたころ、ユキがふと思い出したように言った。
「城の方は落ち着いてるし、しばらく戻らなくていいって。『今は殿下とハル様の回復を最優先されよ』ってさ」
「……そんなに?」
「うん。……まあ、おれが“数日ほど不在にする”って言ったら、セバスチャンも全部察したみたいで」
(……察しなくていいところまで察してそうだな……)
ハルは心の中でそっとため息をついた。
ユキはそっとハルの腹に頬を寄せた。
モフモフの犬耳がハルの肌に触れて、くすぐったい。
「……できてるかな、赤ちゃん」
真剣そのものの声に、ハルは声を立てて笑った。
「あはは、バカだなぁ!そんなすぐ分かるかよ」
「えっ、そうなの?じゃあ、明日?」
「いや、もっとだろ」
「じゃあ、来週には妊娠が分かる?」
「うーん、一ヶ月くらいじゃねえ?」
「そんなに待てないよ」
「それくらい待てよ(笑)妊娠してたとしても、しばらく腹ン中で育つんだから、生まれるのはもっと先だと思うぞ」
「ええ…」
気だるい朝、二人で温かな『未来』を語る時間に、ハルはユキの髪を撫でる手を止められなかった。
お腹に頬を当ててじっと耳をすますユキの姿が、どうしようもなく愛おしかった。
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