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第38話 予想外の事態からの新生活の開幕
――このようにして春休みが流れていき、ついに映画が公開される季節が訪れた。
初めての映画の舞台挨拶に、俺はド緊張していた。
控室で、思わずほうじ茶を無駄に飲んでしまった。トイレに行きたくなったら困るというのに……! 喉が兎に角乾く。緊張がひどすぎる。そうは思いつつも、俺は深呼吸をして、必死に時間に備えた。そして、舞台裏で、他のキャスト達と合流した。
兼貞は俺と目が合うと、口角を持ち上げた。
「おはよ」
いつも通りにしか見えない。やはりこういう時は、場慣れしていると感じる。しかしその相手と共に、俺はきちんと主演を務めた自信がある。自負がある。だから、兼貞が隣にいるんだから、大丈夫だと思う。負けてやるつもりもない。
「ああ、おはよう」
俺は敬語をやめて、自信たっぷりに笑った。映画のキャラの方向に振り切った。より、俺の自然体に近い方に。すると虚を突かれたような顔をしてから、楽しそうな眼をして、兼貞が頷いた。
こうして、舞台挨拶が始まった。
結論から言うと、これは成功した。そして、もっと言うと――その後公開された俺達の主演映画は、大ヒットした。嬉しくて泣いた。
……ただ、ちょっと予想外の出来事があった。
この映画の脚本家である黒苺先生も驚いたそうなのだが、本来このお話は、吸血鬼と少女(妹役)の恋の話として描かれたのだという。確かにW主演とは銘打っているが、あくまで俺の役の刑事は、キャラが薄かったはずらしい。だというのに、蓋を開けてみたら、吸血鬼(兼貞)と刑事(俺)のバディものとして大ヒットしてしまったのである。
以後、俺と兼貞は何かとセットで各地の番組に呼ばれた。ちょっとしたブームが到来してしまった。俺単独の役も爆増したし、それが主役級のものもかなりの数になったが、今もなお、セットでの出演依頼が後を絶たない。MCを務める心霊番組なんて、ゴールデンタイムに進出してしまった。これは誤算過ぎる……。
「すごいね、絆!」
この日、リビングで牛乳を飲んでいると、紬が入ってくるなりそう言った。
「なにが?」
「二億円の男になったんでしょ!?」
「……まぁな。上には上がいるが」
「邦画の実写でこれはすごいんじゃないの? よく分からないけど」
「……ま、まぁ、俺の実力だ」
「うん。僕も今日、火朽くんと三回目を見てきたんだけど、良かったよ!」
「えっ、さ、三回? いまだかつてお前が俺の出演しているものを真面目に見た事があったか? それも、繰り返し?」
「これは別だよ。本当すごいと思う、僕と同じ顔なのに、完全に別人にしか見えないし。さすがは絆だって思った。やっぱり、俳優さんって違うんだね」
俺はその言葉に涙ぐんだ。気づかれたくなくて、天井を向いて誤魔化す。弟に初めて認められた気分だった。何時も馬鹿にされていると思っていたから、俳優と言われて死ぬほど嬉しい。
「そういえば、引越しは来週だっけ?」
俺は慌てて涙を乾かしてから、紬を見て頷いた。
実は三月から五月の頭までは、兎に角映画の関連で忙しかったのだが、再来年までの仕事が無事に決まって、収入も確定した事もあり、俺はなんとか自分の家賃で生活できそうだと目算が出来たので――ついに、一人暮らしを決意したのである。
「ああ」
家賃は少々高いのだが……た、たまたま、本当に偶然、兼貞のマンションの、隣の部屋が空いていると聞いて、俺は、そこに引っ越す事にした。兼貞は同棲しないかなんて馬鹿な事を言ってきたが、俺は、俺の稼ぎで一人暮らしをすると昔から決めていたので断った。まぁ、合鍵は貰ったままだし、既に俺が貰っている部屋の鍵も、一つ兼貞に渡しているから、実質行き来は自由だけどな……。
「寂しいけど、兼貞さんと一緒なら、大丈夫そう」
「――俺は、一人でもやっていける」
「そんなこと言って――」
「ただ……兼貞がそばにいると、もっと頑張れるというだけだ。それだけだ」
俺が断言すると、紬が吐息に笑みをのせた。
「昔は、そのポジション、僕だったのになぁ。たまには恋人だけじゃなく、弟も顧みてよ?」
「わ、分かってる。そっくりそのままお前に返す」
「そうだ、聞いてよ。今日もね、火朽くんに聞いたんだけどさ、ローラさんって覚えてる?」
「ああ、亨夜の恋人だろ? それが?」
「映画の脚本を書いた黒苺先生って、ローラさんの筆名なんだって」
「えっ!? 人前に出ない事で有名な、あ、あの黒苺先生が!?」
そのようにして、この夜も更けていった。
――翌週、俺は新居に引っ越した。あとは、荷物を整理するだけだと考えていた時、インターフォンの音がした。扉に向かうと、兼貞が顔を出した。そして中に入ってすぐに、俺の事を両腕で抱きしめた。
「引越し蕎麦、一緒に食おうな?」
「そうだな」
「これから、新生活の開始か。気持ちはどうだ?」
「ずっと実家だったから、一人暮らしは、その――なんというか、気配と音が無いのが逆に気になる」
「それが落ち着くようにもなる。いいや、ならないか」
「え?」
「毎日俺が会いに来るからな。あるいは、絆が俺のところにくる。ま、そう言う意味では、新しい毎日の始まりなのは間違いないけど、俺は絆を一人にしない。ずっと、俺達は一緒だろ?」
兼貞はそう言うと、俺の唇を掠め取るように奪った。その感触に、俺は思わず破顔する。
このようにして……人生とは、何があるか、本当に分からないものであるが、俺は無事に、俳優として独り立ちできる事になった。前後して、かけがえのない恋人を得た。
「なぁ、兼貞」
「なんだ?」
「ありがとうな」
俺は、兼貞の背中に、おずおずと腕をまわし返してみる。するとより強く抱きしめられた。
「俺こそお礼が言いたい。絆がいてくれるから、俺は毎日頑張れる」
「それは、俺もだ」
「じゃ、一緒だな。これからも、ずっと一緒にいればいいって事でもある」
そのまま暫くの間、俺達は抱き合っていた。
なお、今でも俺は考える。
――俺は、オカルトを売りにしたいわけじゃないのに! と。
でも、でも、例外もある。
兼貞という、人を愛して喰らう、そんな存在に出会える場合だけは、オカルトも悪くはないんじゃないかと。恋のきっかけなんて、実に様々だから、そこにオカルトが加わっても構わないと、最近の俺は考えるようになった。
「絆、愛してる」
「俺も、兼貞が好きだ」
その後俺達は、再び唇を重ねた。俺は静かに瞼を閉じながら、この幸せが永遠に続きますようにと、一人静かに祈ったのだった。そして、俺を愛して喰らうその者は、俺の願いを裏切らない。
――´完 ――
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