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第2話

 大正三年――異国との戦争が始まった。 「廣埜さん。瘋癲人限定の医学など、お国のためにはなりませんよ」  母が繰り返し俺に言う。実際、帝大でも同様の見解が主流だった。研究室の同輩達は、従軍する者も目立ってきている。 「ですが、廣埜さんが命を散らしてしまう事、母は不安なのです。どうか、節巳に戻って下さい」  危険な情勢下にあって、上京した母が、俺に懇願した。母は節巳村の地主の娘であり、父は入り婿だ。俺に望まれている事も、医学ではなく、村の管理だというのは知っている。祖父はもう長らく村長をしている。 「……でも、俺は」 「廣埜さん」  この日俺は母に、一度だけでも良いから帰郷するようにと諭され、押し切られた。鬱屈とした心地で研究室に休暇を願い出て、俺は結局その足で、母と共に節巳の村へと戻った。  村は何も変わっていなかった。閉塞感がある。  俺は荷物を置いてから、山腹にある家を出て、横に見える、『お寺の脇の林』を見た。そうしていたら、木の葉を踏む音が耳に入ってきた。俺が視線を向けると、ゆったりとした足取りで、軍服姿の青年が一人歩いてくるのが分かった。 「廣埜か?」 「あ……碕寺の時生か?」  碕寺時生は俺の同級生であり、幼馴染である。紺青寺の次男だ。紺青寺は、村のはずれにある碕石の横にあるため、碕寺と呼ばれていて、それをそのまま苗字に登録したらしい。  俺の声は少々わざとらしかったかもしれない。何度か手紙を書いたのだから、俺側が忘れているはずがないと、時生は知っていたはずだ。だが時生は俺を見ると、静かに頷いてみせた。 「ああ」 「お前、その格好――」 「神仏習合の流れから、この田舎でも、寺は厳しいからな。安定を考えて、軍属になった」 「そうだったのか」  短い髪をしている時生は、昔と変わらず、形の良い切れ長の目をしていた。その瞳には優しい色が浮かんでいる。 「廣埜、村に戻るのか?」 「いいや、母にはそう希望されているけどな……俺は、医者として生きていきたいんだ」 「今、この村には、医者は一人もいない。廣埜が帰ってきてくれるのならば、安心なんだが」 「そうなのか?」 「ああ、そうだ」  時生は頷くと、薄い唇の両端を小さく持ち上げた。その表情を見て、俺の胸が疼いた。最後に俺達が顔を合わせたのは、俺が帝都に進学する前の十七歳の事だった。村長である地主の息子の俺と、寺社戸籍の関連から古くより家同士の付き合いがあった寺の時生は、ある意味村の名士の子供同士として、並べられて育ってきたというのもある。物理的に家の距離が近いだけではなく、様々な面で俺達はいつも共にいた。  その関係が明確に変わったのは、俺が進学すると述べたあの日だと思う。  時生は俺を抱きしめて、何を思ったのか、口づけをしたのだ。  だが今現在、そんな事を時生は、覚えている様子も無い。 『俺は離れたくない。俺の事が好きならば、行かないでくれ』  確かにあの日こう言われた。俺もまた時生を好きだったが、どうしても医者になりたくて、結論から言えば村を出た。代わりに俺は、時生に手紙を書いたものである。けれど、一度も返信は無かった。研究室の机に詰んだ封書の、虚しい風景を思い返す。俺はもう村には戻るつもりが無かったし、連絡が取れない以上、関係は切れたと思っていた。だから逆に、このように自然と話せる事が、不思議でならない。 「ゆっくりと話がしたい。廣埜、少し寺に来ないか?」 「ああ。俺も時生と話したい」  俺が微笑を返すと、時生が柔らかい表情に変わった。昔はあまり笑わない印象だったから、そこに見て取れる余裕を感じ、離れていた年月を意識させられた。俺達は今年でお互いに二十七歳だ。背が高い時生の隣に、並んで立つ。それからどちらともなく歩き始めた。なだらかな林の合間の坂道を、二人で進んでいく。 「廣埜は大人びたな」 「二十七にもなって子供では困るだろう?」 「艶が増した」 「男に対する褒め言葉では無いな」  そう返答しつつも、最後に顔を合わせた日の口づけを、思い出さないと言えば嘘だった。時生は一体どのようなつもりで、こんな事を言うのか。揶揄されているのだろうか。結果として拒絶したのは俺という形であるが、今なお俺は時生が特別だ。縁談もあったが、いずれも乗り気になれなかった。既に俺の妹の早耶には、子供もいる。順番がおかしいと散々母に嘆かれたものだ。 「あ」  そんな事を考えていた時、俺は視界に入ってきた小屋を見て、足を止めた。  幼少時に、ヒヨクと出会った場所。そこと同じ場所に、全く同一に見えるものが存在したのだ。解体され、無くなったはずなのに。 「時生、あれは……」 「蛇神様の社跡がどうかしたのか?」 「蛇神様の社跡?」 「昔話にあるだろう? 節巳村の村人の輪廻転生を司る双頭の蛇の話が」 「あ、ああ」  俺は頷いた。そう言われれば、俺にも朧気に思い出せる。今ではお伽噺の形態を取っている、この村の土着信仰の話だ。仏教の輪廻転生とも異なるようで、この村の人間だけの輪廻転生を司る蛇の昔話だ。二つの頭がある白蛇で、右の頭が尾を始めとした体を動かして輪廻と呪いを司り、左の頭は人心と愛を理解するらしい。二つの頭が一つの胴を同じくしている白蛇なのだという。 「少し前に、村で色が白い蛇が見つかってな。あの社を建てて、壺に入れておいたようだ。白いモノは、蛇神様の子だとされ、見ておかなければならないという」  元々は蛇神の土着信仰への対処も、碕寺が担っていたから、時生は俺よりもずっと詳しいのだろう。俺は小さく頷きながら、ヒヨクについて思い出していた。 「昔、俺達が小さい頃……あそこには、ヒヨクが住んでいただろう?」 「ヒヨク?」 「白い髪をしている、色素異常の人物だった」 「記憶に無いな。俺が覚えているのは、小さい頃はあの林には入ってはならないと言われていた事だけで、俺は忠実にそれを守っていた点だ。そして廣埜が時々林に入っていくのを見た思い出も確かにある。言いつけを破っていたな、お前は」  時生の顔が呆れたようなものに変わった。事実なので、気まずさを覚え、俺は視線を逸らす。 「しかし色素異常の人物、か」 「ああ」 「それこそ俺には、それに該当するのは蛇神様当人しか思い当たらないが」 「え?」 「人の姿形をしていて、色素が無いんだろう?」 「俺が話しているのは現実の話で、蛇神伝承や迷信じゃないんだ」 「俺も現実の話をしているつもりだ。碕寺の座敷牢の中にいる、蛇神様の話だ」  座敷牢と耳にして、俺は思わず息を呑んだ。すると顔だけを俺に向け、僅かに時生が目を眇めた。 「見に行くか?」 「行く」  こうして俺達の行き先は、碕寺の一角にある座敷牢に決定した。

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