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第7話
母の早耶に手を引かれ、俺は坂道を歩いていた。
「廣埜伯父さんは、立派なお医者様だったのよ。瑞孝も、きちんとお勉強をするようにね」
「うん」
初めて行くはずなのにどこか見覚えのある、寺の脇の林を母と歩きながら、俺は小さく頷いた。
「それとね――絶対に、『蛇神様』に、近づいてはダメよ」
ちらりと寺の方へと振り返った母は、険しい顔をしていた。幼かった俺には、その視線の意味は分からなかった。
絢戸早耶の三男として生まれた俺は、幼少時から、『廣埜に似ている』と言われて育った。絢戸廣埜は、亡くなった俺の伯父だ。医者だったのだという。碕寺の敷地で、熊に噛み殺されたらしい。同時に、事態に気付いて助けに入った、寺の時生という人物も、噛み殺されたという話だった。この一件以来、碕寺と絢戸の家の仲は険悪なのだと聞く。
だから俺も、碕寺の住職の五男である同級生の秋生とは、話してはならないと言われている。俺達は同じ歳で、今年で十七歳となるのだが、今まで一度も話をした事が無い。俺は時々秋生に視線を向けるのだが、秋生が俺を見る事は一度も無かった。
「瑞孝、そろそろ寝なさい」
「はーい」
母の声に、俺は頷き、布団に入った。
その夜――俺は、夢を見た。白い髪に緋色の瞳をした子供が、俺を喰い殺す夢だ。夢の中で、息も絶え絶えに天井を見ている俺を、抱き起こす誰かがいて、その相手の顔は、秋生に似ていた。知っている、これは夢なのだ。昔から繰り返し見るから分かっている。秋生を大人にした姿の人物を、俺は夢の中で、『時生』と呼ぶ。時生は、震える手で鎌を片手に持っていた。けれど俺が絶命する直前で、それを取り落とすのが常だ。
『連理を殺さないでくれ』
俺の声に、ハッとしたように時生は動きを止め、そして――逆に連理に噛み殺された。俺があの時、止めさえしなければ。時生は今頃きっと生きていたのに。
「もう朝よ、起きなさい!」
布団を剥ぎ取られて、俺は目を開けた。同時に、何度も見ているはずなのにいつも忘れてしまう夢を、この日も忘れた。
その後、俺は進学した。そして、第二次世界大戦が始まった。
俺も徴兵により戦地へ赴いた。出兵前には見合いをし、結婚して子も設けた。多くの人間が、同様だったと思う。
終戦後、俺は節巳村へと戻る事にした。
俺が戦地にいた内に、妻は病を得て亡くなったと聞いた。
この村で、流行性感冒が広がった結果である。蛇神様の祟りだったなどと言う風説の流布まであったそうだ。
だが、一人息子はすくすくと育っていた。それが幸いである。母の早耶が面倒を見てくれていた。
本日俺は、母と息子を連れて碕寺の墓地へと向かい、妻の墓に花を手向けた。
「後添えは貰わないのですか?」
母の声に、俺は曖昧に笑って返したと思う。決して愛のある結婚では無かったが、時流の中において、珍しい形では無かったはずで、その範囲において、俺は子供を守り育ててくれた妻を大切に思っていたからだ。
戦後。
昭和という元号は変わらないが、新たなる世が始まった現在。
子供には、平和な世界を見せたい。
その後、法事の代金を住職に支払う為、俺は母と息子を先に帰す事にし、社務所へと向かった。暫しの間歩いて行き、奥に庵があるのを一瞥してから、俺は井戸の前に、碕寺秋生の姿を認めた。
「ご無沙汰しております」
俺がそう声をかけると、剃髪の元同級生が振り返った。切れ長の瞳をしている。あちらも徴兵の後帰ってきたそうで、家族と共に暮らしているそうだ。妻帯はしていないらしく、彼の戦死した兄の残した子達を、養子として育てていると、風の噂で聞いていた。
「絢戸か」
「ああ。今日は、法事、有難うございました」
「仕事だからな」
そう言われると複雑な気持ちになる。故人を偲ぶ気持ちを、仕事として片付けられるというのが、なんとも言いがたい。
「お互い無事に戻る事が出来て良かったな。これからは、村に居るのか?」
「まだ分からないが――秋生は、住職様だものな?」
「そうだな。弔いながら余生を過ごす。そして、監視をしながら」
「監視?」
不意に響いた物騒な言葉に首を傾げると、目を伏せた秋生が軽く首を振った。
「こちらの話だ。兎に角、絢戸――寺には極力近づくな」
「そう邪険にしないでくれ。過去には色々、碕寺と絢戸にはあったかもしれないが、これから仮に一緒に村で暮らしていくのだから、親しくしよう。子供達のためにも。それに今は、新しい時代も来たんだからな」
「……相変わらずお人好しだな」
「え?」
「具体的に言い直す。そこにある庵にだけは近づくな。もし万が一近づく必要がある場合、必ず俺を伴ってくれ」
そう言って庵を見た秋生の視線を追いかけてから、俺は頷いた。
「あ、ああ。分かった」
「それさえ守ってくれるのならば、親しくする事は、こちらから願い出たいほどだ。本当にそれが叶うのならばな」
「……? そうなのか? そうだ、良かったら今度、家に酒でも飲みに来てくれ。あ、住職は生臭はダメなんだったか?」
「名目上は、な。別段気にせず、この寺では口にするが」
そんなやりとりをしていると、不意に秋生が微笑した。初めて見たはずの笑顔だったのだが、妙に心に響いてきた。既視感がある気がしたから不思議だ。俺はこの時、この笑顔が無性に好きだったはずなのにどうして忘れていたのかと、自分に対して問いかけそうになっていたが、そもそもこのように長時間話をした事自体初めてのはずだったから、すぐにその思考は打ち消した。
この日から、俺と秋生は少しずつ話をする仲になった。
俺が節巳村の村長になる頃には、幼少時が嘘のように、親友と言っても良い仲に変わっていた。ただ、お互い寄る年波には勝てない。秋生が七十二歳の時、病床で峠と言われた夜、駆けつけた俺は、じっとその横顔を見ていた。秋生は親族がいたその場で、『瑞孝と二人にして欲しい』と人払いした。その為残った俺は、必死に彼の手を握った。
「瑞孝」
「なんだ?」
「頼みがある」
「お前の家族の事なら任せろ。皆、俺にとっても――」
「違う……それは有難いが……違うんだ、『廣埜』」
「意識が混濁しているのか?」
「……寺の敷地の、庵の中の座敷牢には、絶対に近づくな」
「え?」
「頼む。約束してくれ。あの中にいる蛇神にだけは、絶対に近づかないでくれ」
「秋生……?」
「死んだら、仮に生まれ変わるとしても、俺は暫くお前を守れない。俺はもう二度と、蛇神にお前を害されたくないんだ。頼む、約束してくれ。後生だから」
「……」
「頼む。お願いだ、約束してくれ。また、俺がお前を守れる日まで、俺がそばに行くまで、頼むから――絶対に一人では、近づかないでくれ」
「秋生? 分かった。約束すれば良いんだな? うん、分かったよ。俺は、庵には近づかない」
俺は安心させようと、頷いて見せた。するとギュッと俺の手を握ってから、頷いて秋生が目を閉じた。この夜、俺の親友は、生涯を終えた。俺はそれから更に四年ほど生きた。平穏な生涯だった。秋生の言葉を忠実に守り、一度も庵にだけは近づかなかった。
「――絢戸瑞孝、享年七十六歳」
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