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第4話

ラックから一枚のCDを抜き取る。写真もイラストも何も無い、真っ白な中に黒字で「Color」とタイトルが書かれているだけのシンプルなアルバム。ケースを開いて取り出したCDを、僕はポータブルプレーヤーにセットした。 データ配信が当たり前のこのご時世に、音質にこだわる製作者が配信をしないせいで僕はいまだにポータブルプレーヤーなんてものを持ち歩かされている。 ベッドにごろんと転がって再生ボタンを押せば、イヤフォンから澄んだピアノの音が聴こえてきた。 『Sky blue』のタイトル通り、夏の青空みたいに爽快な音が僕の耳から身体中に広がっていく。目を閉じれば、狭い寮の部屋が大空に変わる。 今や世界にも名前を知られるようになった音楽家sikiが、最初に出したアルバム。(カラー)をテーマにしたピアノ曲達の中でも、このSky blueは僕のお気に入りだ。車のCMの数十秒のために作られたこの曲のタイトルは、なにせ僕がつけたんだから。 映画音楽にCM曲、数多くの曲を発表しながらも決して表に姿を現すことの無い正体不明の音楽家。 その正体は、櫻井色(さくらいしき)。僕の幼なじみだ。 『いい曲じゃん。タイトルは?』 『あー、空とか?』 『……相変わらずセンスないなぁ。せめてSky blueとかにしときなさい。』 色がスカウトを受けたのは小学校六年生の時だった。 父親は世界的に有名な指揮者、母親は元オペラ歌手。その上親戚一同もほとんどが音楽関係者。物心ついた時から友人として一緒にいたけど、その頃には櫻井色という人間がどれだけ特殊な環境の中生きているのか僕にもわかっていた。 そして色自身もやっぱり音楽に惹かれて普通の人とはちょっと違う道を選び、歩いていくのをずっと見てきたんだ。 いつだって迷いなく真っ直ぐ進んでいくその背中は、何もない僕には眩しくて。 櫻井色は僕にとっての太陽だった。 欲しいと手を伸ばしても、身を焦がすだけで決して手には入らない。 近くにあるようで、とてもとても遠い存在。 そんな存在が今、さらに離れていこうとしてる。 いつも色の家に押しかけては、色のピアノをBGMに本を読んでいた。 ピアノに向かい、時にはヴァイオリンを奏でる、その背中を見るのが好きだった。 でも今、その後ろ姿の隣には亜麻色が並んでる。その光景はまるで絵画を見てるみたいに綺麗で素敵だと思うけど。 寂しい。 一人で生きていきたいって、誰にも同情されたくない、迷惑もかけたくないって思ってるのに、一人取り残される事に寂しさを感じている。 僕自身の抱える矛盾に、僕の心臓は時々押しつぶされそうになる。 ねぇ、誰か。 お願い。誰か―― さらりと前髪を撫ぜられ、額にじんわりと温かな感触。微睡んでいた意識を引き戻されてゆっくりと閉じていた目蓋を開けば、僕の額に触れる大きな手が映った。 「……木崎、せんせ…、あれ、なんで……?」 「点呼だ。大丈夫か?熱はないみたいだが。」 離れていく手をぼんやりと見つめる。Tシャツにスウェットなんてラフな格好の先生が視界に映って、もうそんな時間かと僕はようやく現状を把握した。 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。プレーヤーの電源を落として、いまだにスッキリしない頭を抱えてゆっくりと身を起こせば、不安そうな瞳が僕の顔色を覗き込んできた。 全寮制である彩華高校は、消灯時間前の見回りを同じ敷地内の独身寮に住む先生達が当番制で担当している。 部屋に入っても生徒が反応なくベッドに転がっていたんだ、心配させてしまったんだろう。 「修了式と部活のスピーチ考えてたんだけど煮詰まっちゃって。少し気分転換するつもりでいたんだけど、」 「お前は根詰めすぎなんだよ。今日はもうそのまま寝ろ。」 無骨な手が僕の頭を優しく撫ぜる。 昼間の剣幕とはまるで違う、優しい声。 「うなされてたぞ。」 「え、……僕、何か言ってた?」 「…………べつに。」 おやすみと一言呟いて僕の頭から離れていく手を、けれど僕は咄嗟に掴んでいた。 「あ、えっと。」 どうして、なんて自分でもわからなくて。説明を求めるその視線に耐えきれず、僕は無言で手を離した。 じ、と僕を見下ろし、自由になった手で先生は自らのくせっ毛を掻き乱す。言葉のない僕に、はぁ、と目の前で重いため息が聞こえた。 先生はそのまま無言で僕に背を向け部屋を出ていった……と、思ったのに。ガチャガチャと扉の向こうから聞こえてきた小さな物音。 何事だろうかと確認のために立ち上がろうとするよりも早く、何故か再び僕の部屋の扉は開かれ、木崎先生が再び顔を出した。 その手に握られているのは二つのマグカップ。 どうやら、簡易キッチンで勝手にコーヒーを入れたらしい。 担任であり顧問であり生徒会の担当でもある先生とは時々部屋で長話なんて事もあるので、それ用に買い置きしていたノンカフェインのインスタントコーヒー。 いつもなら僕が用意している筈なのに。 ほら、と差し出されて、僕は黙ってカップを受け取った。 「冷蔵庫も備え付けであるんだから、牛乳くらい入れとけよ。」 「……小さいし、冷蔵か冷凍のどっちかしか選べないんだもん。たまのカフェオレより風呂上がりのアイスっしょ。」 カップの中の漆黒を覗き込みながら呟けば、先生はふ、とその口元に笑みを灯す。 そのまま、僕の隣に腰を下ろした。 僕の部屋は備え付けのベッドと学習机以外に大きな家具は持ち込んでいないのだけれど、床は山積みされた読みかけの本で溢れかえっていて、落ち着ける場所といえばこのベッドとくらいしかない。僕の隣に腰を下ろしたという事は、しばらくここに居るつもりなんだろう。 ほわりと湯気と香りを漂わせるカップに口をつければ、ちゃんと砂糖を入れてくれてたみたいでほどよい苦味が喉を通り過ぎていく。 静かな部屋が、コーヒーの安らぐ香りで満たされていく。 「……あんま抱え込むなよ?」 ぽつりと、漏れた一言は別に答えを求めてはいないようだった。 先生はそれ以上何も言わず、ふぅ、とカップに息を吹きかけている。猫舌な先生がコーヒーを飲めるのはもう少し先みたいだ。 何を言うでもなく、聞くでもなく。先生も僕も無言だった。多分、僕が何か口を開けば聞いてくれるつもりなんだろうけど、話すつもりはなかったから。 でも、そんな静かな時間を息苦しいとは思わなかった。 手元のカップに意識を傾けて、時々そのほろ苦さを飲み込んで。隣にある存在に、どこかほっとしている自分がいる。 「……ねぇ、明日もカフェオレ飲みに行っていい?」 「好きにしろ。」 もうピアノの音は聴こえていなかったけど、一杯のコーヒーを飲むこの時間は、何故だかひどく心地よかった。

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