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第38話

名前を呼ばれて、読みかけの本から顔を上げ耳にはめていたイヤホンをはずせば、僕の目の前にカフェオレの入った黒猫のマグカップが置かれた。 「腹、余裕あるか?」 「へ?うん。」 問われてテレビ台の隅にあった時計を確認したけど、夕食を終えてからだいぶ時間が経過している。 大丈夫だと頷けば先生は手にしていたお皿も僕の目の前に置いてくれた。 小さなお皿の上には、フォークとコンビニで買ってきたのだろう一切れのチーズケーキ。 「えっと……」 目の前の光景が信じられずにその顔を注視すれば、先生は気まずそうに視線をそらせ僕の隣に腰を下ろした。 「まぁこれくらいは、な。」 これ以上は何も突っ込んでくれるなと言わんばかりにそっぽを向いて手にしていたコーヒーを飲み始めたので、僕は手にしていた文庫に栞を挟んで閉じた。流しっぱなしになっていたポータブルプレーヤーの電源も落としてローテーブルの隅に避ける。 むずがゆい気持ちを誤魔化すようにいただきますと小さく呟いて両手を合わせた。 添えられていたフォークで柔らかなスポンジをひとすくい。定番の苺ではなくチーズケーキを選んできたあたり、この人は本当に僕の事をよく見てる。……僕だけじゃなくて、誰に対してもなんだろうけど。 「おいしい。……ありがと。」 素直にお礼を言えば、先生の口元は照れ隠しなのかきゅっと引き結ばれた。 「今日はほんと、至れり尽くせりだったなぁ。」 日付が変わってからのメッセージに始まり、アイスショーでのサプライズ。それに、 僕はケーキを頬張りながらテーブルの隅に置いていた本とポータブルプレーヤーに視線を移す。 プレーヤーの中に入っているのはもちろんプレゼントしてもらったあの藍色の空だ。そして閉じた文庫にかけられているブックカバーは、今日(しき)達の部屋から帰る前にいただいてしまった飛鳥(あすか)からのプレゼント。 空色の布地に黒猫の刺繍が施されたそのカバーを見て、引き結ばれていた先生の口元がふっと綻んだ。 「愛されてんなぁ。」 言った通りだったろ?とニヤリとほくそ笑むその顔が語っていて、今度は僕がむぅ、と口をとがらせる。 本当に先生の言う通りすぎて返す言葉もなかったから、僕はカフェオレのカップを傾けた。 「今日、べつに泊まってきてもよかったんだぞ。」 「新婚家庭のお邪魔はあんまりしたくないじゃん?それに、明日会えるしね。」 キラキラと瞳を輝かせた飛鳥と半笑いの色に全力で先生のところに帰るべきだと言われてしまった事も、僕自身がそれを望んだ事も言えるわけがないので、事実はカフェオレと共にごくりと飲み込んだ。 「……あいつら、明日来るって?」 「うん。そばに居てくれるってさ。」 教師としては色と飛鳥を危険な目に合わせたくないんだろうけど、先生はそうかと呟いただけで拒否はしなかった。 無言でコーヒーの入ったカップを傾けるその横顔に、僕は謝ることしか出来ない。 「……ごめんね。みんなも、先生も、本当は巻き込むべきじゃないってわかってる。先生にはもっと早くに全部話しとくべきだったのに。」 僕は狡い。 結果的に拒否する事が難しい状況になって初めて全てを打ち明けて、みんなを巻き込んでしまった。 飛鳥や色は僕自身こうなるなんて思ってもいなかったけど、先生は違う。僕が望んで巻き込んでしまったんだ。もっと早くに打ち明けて、拒否できる状況を作ってあげなきゃいけないとわかっていたのに、僕はそう出来なかった。 チラリとコーヒーを啜っていたその瞳が僕に向けられた。 ローテーブルに飲んでいたカップを置いたその手が、僕の頭に伸ばされる。 「……親に殺されかけたなんて普通言えねぇだろ。それに、話そうが黙っとこうが俺も……多分あいつらも変わらねぇよ。」 くしゃりと僕の頭を一撫でしてから、先生は真っ直ぐ僕に向き直った。 「いいか?俺は教師で、お前は生徒なんだよ。成人しようが隠し事があろうがそこは変わんねぇんだ。何があろうと守ってやるから、ちゃんと頼れ。」 僕を見つめるその瞳には強い決意の色があって、思わず言葉を失ってしまった。 なんでこんな風に言えるの。 たしかに何か起きる可能性はすごく低いと思う。今まであの人が僕以外の人間の前でヒステリーを起こすことはなかったから。それでも、万が一が起こるかもしれない。可能性はゼロじゃない。だから、やっぱり嫌だと突き放されるのが怖くて言い出せなかったのに。 それなのに、この人は。 「守る。約束を違える気はねぇよ。だからお前は、何も気にせず言いたいこと言ってやれ。」 恐怖や嫌悪どころか口元に笑みすら浮かべて。 この人はこんな状況でも、こんな時でも教師であろうとする。 「……ありがと。」 きゅっと胸を締め付ける痛みと、ふわりと熱を灯す優しさと。同時に胸におしよせてきた相反する感情に蓋をして、僕は、僕を見つめるその真っ直ぐな瞳に向かって口角を上げる。 今の僕は木崎総士(きざきそうし)にとって守るべき教え子だ。僕自身が助けて欲しいとこの人に縋ったから。 もし、万が一にも先生が僕に対してそれ以外の感情を持っていたとしても、今の彼の優先順位は教師として僕を守る事なんだと思う。 僕がこの状況に身を置いている限り、それは絶対に変わらない。 だから、そのためにも戦わなきゃ。 今までずっと逃げ続けてた事と、ちゃんと向き合わなくちゃ。 それまでは、木崎総士にとって僕はきっと子供のままなんだ。 僕はフォークを手に取り、食べかけだったチーズケーキをまたひとすくい。甘さを口の中で噛み締める。 「……明日、よろしくお願いします。」 気恥ずかしくて、視線はなくなりかけのケーキへ落としたまま。 消え入りそうな声で呟けば、先生の大きな手が優しく僕の頭を一撫ぜした。

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