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第41話

「成績も素行も、正直文句のつけようがないですよ。」 「まあ。」 広げられた資料の一枚一枚を手に取り眺める、その口元が嬉しそうに弧を描いた。 「お家を離れてもちゃんとお勉強頑張っていたのね。聞いた事のない学校だったからどんな所なのか不安だったけど……そうよね、(しき)君もいるんだもの、いい学校なのね。」 安心しましたと微笑む彼女に、先生はどうも、と軽く頭を下げる。 「一年時はクラス委員、去年は生徒会長と部活では部長も務めています。検定や試験も積極的に受けていますし、どんな進路を希望しても問題なく通るでしょう。」 チラリと、先生が俯く僕を横目に見た。この先に進んで大丈夫かと確認を取るためのわずかな間。 なんの反応も返さなかったのを肯定と取ったんだろう。先生は手持ちのファイルに残されていた最後の一枚を机に置いた。 見覚えがある。 それは、春休み前に提出した進路希望の用紙だった。 「……あら?」 無言で出された用紙を手に取ったその人の首が疑問に傾く。 用紙から僕へと向けられたその瞳は、明らかに説明を求めていた。 「これ、書き間違いかしら?」 穏やかな問いかけに、けれど僕の肩はびくりと震える。 言わなきゃ。みんながついていてくれる、今、この場で。 僕はゆっくりと瞬きをして、小さく息を吸い込んだ。 「……合ってるよ。」 少し震えたけど、はっきりと口にできた。 第二、第三志望は誰もが知っている国内最難関大学。けれど、第一志望に僕が書いたのは、この彩華(さいか)高校からもほど近い地元の大学だ。 決して悪いところではない。だけど、この人が満足してくれるレベルの所ではない。 「どういう事かしら?」 潮が引くみたいに、全身から血の気が引いていくのがわかる。 怖い。ぐっと食いしばっていなければ、奥歯がカタカタと音を立ててしまいそうだった。 「……藍原(あいはら)。」 ぽん、と震える背中に手がそえられる。 大きな手が大丈夫だと無言で背中をひと撫でした。 うん。大丈夫。大丈夫。 込み上げてくる恐怖と戦いながら、僕は真っ直ぐに前を見つめた。 「大学は奨学金借りて自分の力だけで行きたいんだ。」 「え?」 「ここなら地元入学者は入学費半分免除だし、知った土地だから……一人で、やっていけると思ったんだ。」 しん、と静まり返った室内。向かい合わせに並べた机の向こうで穏やかに灯っていた笑みが、ふっ、とロウソクを吹き消すみたいに消えた。 「どうして?お金なら心配する必要ないわ。あの人が残してくれたものもあるし、私もね、図書館司書のお仕事を再開したの。だから、」 「それでも!……それでも、僕は一人でやっていくつもり、だよ。」 拳を握りしめて、真っ直ぐ前を。震える身体で、それでも精一杯の言葉を。 伝えた。つもり、だけど。 身体から絞り出した僕の決死の言葉は、くすりと一笑されてしまった。 「だめよ。」 小さな子供を咎めるように、優しい口調。けれどそれは全てを否定する言葉だった。 「こんな所に進学したら、(あきら)ちゃんが幸せになれないわ。」 口元は優しく弧を描いているのに、目元は一切笑っていない。 あの頃の記憶が、鮮明に蘇ってくる。 何も言っちゃいけない。これ以上はダメだって、僕の記憶が警鐘を鳴らす。 でも、それでも、 「……僕の幸せは、僕が決めるよ。僕は一人でい…」 「だめよっ!」 バシンっと机を叩く音にヒステリックな声が鼓膜を貫いた。 条件反射のように跳ねる身体を、自らを抱きしめぎゅっと耐える。 先生が隣で身構える。壁の向こうで、物音が聞こえた気がした。 「この大学に行ってどうするの?ここじゃなきゃ出来ない事なんてないでしょう?」 矢継ぎ早に浴びせられる言葉に、何も言い返せない。いや、そもそもこの人の言葉に僕は拒否権なんて与えられていないんだ。 足を取られて、ずぶずぶと深く暗いところに沈みこんでいく。逃げられない、身動きすら取れない。 僕の意志も、言葉も、呼吸ですら、何一つ自由にならない。それを嫌だと、悔しいと思うことすら、この人は許してくれないんだ。 「晃ちゃん一人で何ができるっていうの?あなたはまだ子供だからわかっていないのよ。このままじゃ、大人になって絶対に後悔するわ。」 どうしよう。どうしたら。 恐怖と、諦めと、絶望と。 身体にまとわりついて押さえつけてくるものを振り払うことが出来ずに、僕は俯くことしか出来ない。 その背中に、ぽん、と大きな手が触れた。 「こいつはもう成人です。」 口にしたくても上手く出来なかった僕の思いが、隣から聞こえてきた。 「どうかもう少しこいつの言葉に耳を傾けてやって下さい。そうやって押さえつけるだけでは、晃は何一つ貴方に伝えられない。」 口調こそ丁寧だけど、そこには激しい怒りが滲んでいた。 だけど、先生のそんな言葉も目の前の人には届かない。 「……ねぇ、木崎先生。」 冷淡な瞳が、僕から先生へと向けられる。 それは、寒気がするくらい穏やかな声だった。 「晃ちゃん、昔はちゃんと私の話を聞いてくれる良い子だったんですよ。……誰が、この子をこんな風にしちゃったんです?」 射抜くように注がれる視線。先生は自らに向けられるそれを、ただ黙って受け止め睨み返した。

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