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第42話
無言の部屋に走る緊張に肌がピリつく。
穏やかに、けれど他人に対して責め立てるような言葉を使う目の前の人も、それをまともに受けて怯むことなく厳しい視線を投げる隣の先生も、初めて目にする光景だった。
思わずごくりと、喉が鳴る。
「木崎 先生、失礼ですがご結婚はされてますか?」
穏やかに微笑み細められた瞳が、先生の手元に落とされる。
左手の薬指、そこに指輪がないことを確認した上であえて口にされた疑問に、先生はいいえと正直に答えた。
「子供ってね、可愛いんです。親にとっては全てなんです。晃ちゃんが生まれた時から、私はこの子を世界一幸せにしてあげなきゃって、それだけを考えてきたんです。」
慈愛に満ちた瞳が僕に向けられる。けれど、僕にはその瞳の奥にある薄暗い狂気の色まで見えた気がした。
「この子は本当に手のかかる子で。間違ったことをするたびに、私はずっと正してきたんですよ。」
昔を懐かしむように細められたその瞳に、僕はもうずっと恐怖しか感じなかった。穏やかに、緩やかに、愛情という名の狂気が僕を殺していく。久しぶりの嫌な感覚が蘇ってきた。
「この子、そもそも産まれてくる日から間違っちゃったんですよ。本当は四月一日生まれなんです。でも、そうなると早生まれになっちゃうでしょう?だから出生届を遅らせてあげたんです。」
あなたのためでしょ。
あなたが大切なの。
あなたが大好きだから。
あぁ、思い出したくないのに。頭の中で、嫌というほど聞いたヒステリックな声がリフレインする。
「幼稚園で担任の男の先生と結婚したいなんて言い出したり、女の子みたいな可愛い柄のお洋服を着たいって言い出したり。テストで単純なところを間違う事もあれば、素行の悪いお友達をおうちに連れてきた事もありましたわ。」
昔から僕が何か言うたび、するたび、この人はこうして狂気と愛情を宿した笑みで僕を諭してきた。そうして時折狂気に針が振り切れて、我を忘れたこの人に打たれて。
全部僕が悪いんだと、恐怖と共に文字通り身体に叩き込まれた。
物音一つ立てられず、息も出来なくなっていく。忘れていたはずの感情が、僕の身体を心ごと重く重く底なしの沼へと沈めていく。
「世界一可愛い子なんです。だから、この子を世界一幸せにしてあげないといけないんです。それが母親なんですよ。」
自らが正しいと信じて疑わない。一点の曇りもない、微笑み。
僕は耐えられずに俯いた。
もう、本当に逃げてしまおうか。でも、それすら怖くて足が竦む。
どうするべきかも分からずに縋るように隣を見れば、じ、と僕を見つめる先生がいて。何故かその口元には、ふはっ、と場違いな笑みが灯った。
「……何?」
「いや、どうすればお前みたいなのが出来上がるんだろうなと思ってたけど…くくっ、」
くつくつと口元をおさえ肩を揺らす先生は、どう考えても笑ってる。爆笑したいのを必死に抑えている。
「なに、お前、幼稚園で保父さんに求婚したの?」
「う。お、覚えてない。」
「猫グッズやら妙に可愛いもん好きだよなとは思ってたけど、あれか、抑制されてた反動か。」
「べ、別にいいっしょ!」
「いやぁ、なるほどな。なるほどなるほど、箍が外れちまったわけな。一人部屋になんてなったらそりゃ我慢なんてしないわな。誰彼構わずだよな。くくっ、お前は昔からお前だったわけね。」
うわ、この人本気で笑ってる。
え、この状況で普通笑う?
思わずむすっと頬を膨らませれば、先生はさらに大きく肩を揺らした。
「もう!別に誰にも迷惑かけてないんだからいいっしょ!何しようと何が好きだろうと僕の勝手でしょ!」
ついにはお腹を抱えて悶える先生を怒鳴りつければ、それでも肩を微妙に揺らしながら腹を抱えていたその手が僕の頭へとのばされた。
くしゃりと、いつもみたいに大きな手が雑に僕の髪をかき乱す。
「ああ、そうだよ。お前の勝手だ。」
あ。
僕、今何を言っちゃった?
先生相手についいつもの調子で……。
にやりと先生の口元が弧を描く。
「好きなようにしていいんだよ。少なくとも、俺はそれでいいと思ってる。」
その視線が、僕から机の向こうへ。状況に頭が追いついていないのか、ぽかんと固まるその人へ向けられた。
「えっと、あきら、ちゃん……?」
この人の前で声を荒らげたの初めてかもしれない。
そんな事しちゃいけないって、出来るはずないって。……思ってたのに。
「なんなの?どうしちゃったの?どうしてそんな事言うの?」
言いたい事言ってやれ。
僕の隣で小さく笑うその瞳が、横目で伝えてくる。
そっか。言っていいんだ。
「……僕は、好きな物を好きだって言って、やりたい事をやりたい。恐怖に脅えて何一つ自由にならないあの頃には戻りたくない。」
狂った愛情。勝手な義務感。そんなものいらない。
そうだよ。僕はずっと、ずっとそう思ってた。
「僕は彩華 を卒業したら、一人でやっていく。一緒には暮らせないよ。」
ちゃんと言えた。真っ直ぐ、目を見て、怯えることなく。
とんでもない事を言っている自覚はあるのに、身体にまとわりついて離れなかった重たいものが、ふ、と消えて、嘘みたいに軽くなった気がした。
「……そう。」
わずかな沈黙の後、ポツリと漏らされた声。肩を震わせながら俯いたその人は、何かに耐えるように膝の上でぎゅっと組んで両手を握りしめ、そうしてゆっくりと顔を上げた。
「……悪い子。そんな事言う子じゃなかったのに。」
そこには笑顔なんて一切ない、怒りに満ちた瞳があった。
ああ、針が振り切れたんだ。
ゆっくりと席を立つその人を、僕は他人事みたいに見つめていた。
「お母さんの言う事をきかないと駄目でしょう?晃 ちゃんは一人じゃ何も出来ないの。あなたは間違ってばかりなの。」
ガタリと隣で先生が椅子を跳ね飛ばし立ち上がる。
「そうやってまた晃を傷つけるんですか?こいつの声を聞きもせず、全て駄目だって否定して!」
「それがこの子の為なんです!あなたにはわからないのよ!これ以上この子に変な事を教えないでください!あなたこの子のなんだって言うのよ!」
ヒステリックな声が痛いくらいに響いた。
先生が一瞬驚き怯んだ隙に、細い手が僕へとのばされる。
あ、逃げなきゃ。
声、出さなきゃ。
思った時にはもう遅くて、僕は腕を捕まれその場に引き上げられた。
「帰るわよ。今は春休み中なんだから、帰って二人でゆっくりお話しましょ。あなたが間違ってるってわかるまで教えてあ…」
「やめろ!」
強い力出僕を引く腕を、先生の手が掴み引き離す。僕を庇うように間に入った先生は掴んだその手をひねりあげた。
「せんせ、」
なんでだろ、処理しきれないくらいたくさんの事が目の前で目まぐるしく起こって。なのにそれは、まるでスローモーションでも見てるみたいに僕にははっきりと全てが見えた。
生徒指導室の扉が大きな音を立てて開かれ、色と飛鳥が部屋に飛び込んできた瞬間。
先生の背中越しに見えた彼女は、ほんの一瞬……笑ったんだ。
弧を描いた口元はすぐに大きく開かれた。
「きゃぁぁぁぁあっ!」
耳をつんざく悲鳴がびりりとガラス戸を震わせる。
しまった。
扉の開け放たれた生徒指導室。廊下に漏れ響いたであろう悲鳴の届くその先は、隣にある職員室だ。
「先生!」
「っ、」
我に返って先生が手を離したところでもう遅い。
数人の足音が慌ただしくこちらに近づいてきているのがわかった。
バタバタと響く足音と、どうしたと廊下にこだまする先生達の声。
色も飛鳥もこの状況にどうしていいのかわからず、僕達はただ立ち尽くすしかできなかった。
「……晃ちゃん、やっぱりあなたにこの学校は相応しくないわ。」
まさか、ここにきて保護者でも母親でもなく「女」を持ち出してくるなんて。
理想の母親、理想の息子。全てを完璧に作り上げるために、この人は全てを排除し正していく。そういう人だって僕はわかっていたはずなのに。
わざとらしく掴まれていた手をさするその人は、先生と僕を見て勝ち誇ったように笑った。
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