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第65話

彩華(さいか)高校の一番奥、職員棟の四階にある数学準備室。通い慣れたその部屋の前でゆっくりと深呼吸。 バクバクと激しく脈打つ胸を沈めるように息を吐いてから、僕はきゅっと拳を握る。 勝手知ったる準備室。いつもはそのまま無遠慮に勢いよく開くドアを、今日は恐る恐るノックした。 『どうぞ。』 聞こえてきた声に小さく息を飲んでそっとドアを開く。 僅かに開いた隙間から室内を覗き込めば、部屋の奥のいつものデスクに座り新聞を広げる人の姿。大きく広げられた紙面のせいで顔は見えなかったけど、漏れ聞こえてきた欠伸は間違いなく僕のよく知る人のものだった。部屋の主は誰かが入ってきたことに気づいているはずなのに、マイペースに新聞を捲っている。 「……失礼しまーす。」 ポツリと小さく呟けば、新聞を持つ手がピクリと動きすぐさまデスクへと降ろされる。訝しげに眉をひそめた先生と目が合って、僕の心臓はとくりと跳ねた。 「なんだ、どうかしたか?」 「あ、いや、部誌、取りに来た。」 折りたたまれデスクに放り投げられた新聞を視界の隅に入れながら、僕は目の前のデスクに通学鞄を置き、恥ずかしさを誤魔化すように木崎先生の後ろを素通りして奥にある簡易キッチンへ。とりあえず、この部屋に来たらやる事は決まっているから。 背後からなにやら言いたげな視線を感じたけど無視をして、僕はシンク下の棚からガラスポットと粉コーヒーを取り出す。 「今日はホットとアイスどっちにする?」 粉コーヒーをスプーンで掬いながらいつものようにたずねる。声が緊張で少し震えたのは気づかれただろうか。 「……ホット。」 「おっけ。」 電気ポットに水を入れてセットする。 お湯が湧く前にキッチン横にある小型の冷蔵庫に手を伸ばし、僕は一呼吸置いてから扉を開けた。 「、」 「どうした?」 「ううん、…なんでもない。」 当たり前のように置かれていた青と白のパッケージ。未開封だったそれを平静を装い取り出して、マグカップを用意しようと冷蔵庫上に置かれていた水切りラックを覗き込んだんだけど、 「これ、」 そこに置かれていたマグカップに僕はわかりやすく動揺してしまった。 白地に黒猫のイラストが描かれたマグカップ。持ち手の部分がしっぽになっているそれは、数日の間愛用させてもらっていた僕専用のマグカップ。 この人の空間に、僕のものが置かれてる。 「家に置いといてもしょうがないしな。いるなら部屋に持って帰れ。」 「……ここに置いといてもいい?」 「好きにしろ。」 電気ポットがぽこぽこと音を立てる。沸騰する直前で止めてぬるめのコーヒーを作ってあげたかったのに、いつの間にかお湯は完全に沸いてしまっていた。 慌ててスイッチを切ってドリッパーに注ぐ。赤く染っているであろう顔を誤魔化すように俯いて、ゆっくりとコーヒーがサーバーに落ちていくのを見つめた。 なんで、今まで気づけなかったんだろ。 僕はずっと、こんなにもこの人から甘やかされてたんだ。 「何笑ってんだよ。」 「べつに。」 この人が僕だけに向ける優しさに口元が緩む。だけどそれを口に出してからかう事は、教師としてのこの人を困らせることになるんだろう。 「……何でもないよ。」 だから今は、僕の中で飲み込んで。 なんとか平静を装って二つのマグカップにコーヒーを注いだ。 先生にはそのまま。僕のカップには牛乳を足してカフェオレに。 はい、と先生に手渡せば、なにやら言いたげな視線は、けれど受け取ったカップへと落とされた。 何も言わず、ふぅ、とカップに息を吹きかける先生の隣の椅子を引いて、僕もカップ片手に腰を下ろす。 何を言うでもなく、聞くでもなく。コーヒーの安らぐ香りで満たされた部屋で、先生も僕も無言でカップを傾けた。 いつも通りの僕達。だけど、胸の奥がくすぐったい。 「……ねぇ、クラスって何組?」 「お前、クラス発表も確認せずに来たのかよ。」 「だって、誰かさんが皆同じクラスだってネタバラシしちゃったじゃん。」 「う、」 いつものように他愛のない話をして胸のむずむずを鎮めるためにカフェオレを一口。 ほろ苦さに意識を集中してないと、言っちゃいけない言葉を口走っちゃいそうだった。 「あーあ。一年、長いねぇ。」 「……あっという間だろ。」 チラリ、一瞬だけ互いに隣に視線を移して、またカップに戻す。 言いたい。触れたい。 だけど今は、 あの日の記憶を抱えて全てを飲み込むしかなかった。 時折隣を盗み見ながら、カフェオレを飲んでぼんやりと考える。 初恋は実らない。世間一般に言われている話。 じゃあ、二度目の恋は果たしてちゃんと実るのか。 答え合わせは一年後、この場所で。 fin ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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