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第3話

 ――マゼリア帝国、魔術学術都市クラーグ。  トーマは、マゼリア帝国特別魔術図書館の、魔術ゲートの前に立っていた。巨大なガラス張りの玄関を抜けた先に広がるゲートは、入館者の魔力を記録し、入場の可否を決定する。いずれかの国の魔術機関の関係者や学徒のみが閲覧を許されている魔導書が数多く並んでいる。誰でも入る事が出来るわけではない。素性が確かなものだけだ。  悠然とした足取りで、トーマはゲートへと進んでいく。そして右から三番目のゲートを抜けた。本来であれば、人が通る時、ゲートの端のランプが緑に光るのだが、何も変化はなく、常時の通り透明なままだった。理由は、トーマが魔力気配を消失させ、透過魔術を用い、そこに存在しない空気として、通り抜けたからにほかならない。  トーマには、身分証明をするものが何も無い。最も簡単に得られる身分証は、大陸冒険者ギルドの冒険者登録証であり、あの品は出自不問で魔力か技量が魔法石に認められれば取得可能だが、トーマは冒険者になる気も無かった。冒険者という存在の知識こそあれど、トーマにとって彼らは罪のない人であっても依頼によっては襲撃する事がある存在として、相容れないように感じられるからだ。  透明になり、空気と同化が可能な魔術――これは、非常に高度な代物だ。トーマはそれを駆使して、魔術文化が特に盛んだと言われる国々を、これまでの間に巡ってきた。そうして魔術機関やその土地土地の最高学府に潜りこんでは、密やかに魔術を学んできた。  違法行為である。学費等を払わないからではない。学んだ中身に門外不出とされ、当該機関と黒塔のみが行使を許される魔術が含まれているからである。知識は時に、金銭を凌駕する価値を持つ。  この大陸で使用されている、一万・五千・千の三種類の紙幣や、五百・百・五十・十・一の硬貨――エルガと呼ばれる通貨では、代わりにならない技術や情報を、トーマは習得している。  目的は、明瞭だ。単純に、純粋に、魔術について知りたいだけだ。  その旅の最後に、このマゼリア帝国特別魔術図書館を選んだのは、どうしても目を通したい稀覯書が存在したからである。この大陸には、ここに一冊しかないとされている。丁度百年前に記された魔導書なのであるが、それは、黒塔の暗黒魔導師が直接ペンを取った書物であり、友好関係の証として寄贈されたのだという。  常設展示されているわけではなく、普段は特別書庫にしまわれているという情報までは掴んでいた。トーマは、多くの魔術を収めた結果、黒塔という存在の名前を目にし、漠然とではあるが興味を抱いている。  多くの国の魔導書においては、黒塔についての記述は、歴史書に数行であったり、魔獣討伐記録に名称のみが出てきたり、後の多くは、賛辞だ。すごい技術を持つとばかり繰り返されているが、実態が記された書物は皆無と言えた。  しかし唯一、この図書館に、黒塔を統べる暗黒魔導師直筆の魔導書が存在するという。暗黒魔導師についての詳細は伝わっておらず、襲名すると名前が無くなるのか、いずれも何代目の暗黒魔導師であるといった情報しか存在していないらしいというのが、ここまでに得ているトーマの数少ない知識である。  二階へと続く巨大な階段を、絨毯を踏みしめながら上っていく。そして奥の一角にある特別書庫の前に、トーマは立った。番人がいる。無表情で瞬きをしたトーマは、周囲には見えない状態で、扉に手で触れた。そして――室内に転移した。これは、黒塔ゆかりの魔術だ。エステリア王国の王立図書館の禁書庫にあった魔導書に、かの王国が黒塔から盗み出した魔法陣の版画が残存しており、それを脳裏に浮かべながら透過魔術を使用する事で発動する。これは、露見すれば、黒塔がエステリア王国を滅ぼしかねない所業である。しかしトーマは、そのような事情までは知らない。黒塔の魔術が秘匿されている詳しい理由にも無知だった。  番人に気づかれる事なく入室した特別書庫は、窓もなく暗い。持参した蝋燭を取り出し、マッチを擦る。するとぼんやりとした橙色の灯りが部屋の中を顕にした。棚が並んでいて、通路が三つある。どの棚にも貴重な文献が並んでいる。それは羊皮紙のまま綴られているものもあれば、布や革で装丁されている魔導書もあった。 「これが……」  目的の品は、二番目の棚の右端にあった。黒髪を揺らしながら、黒い瞳をじっと魔導書に向ける。著者名には、暗黒魔導師としか刻まれていない。抜き取り、最奥に一つだけあった四人がけの机へと、トーマは向かった。そして蝋燭をその上に置いてから、椅子を引いた。軋んだ音が響く。  まず表紙を捲ると、右側には、第十二代暗黒魔導師という銘と黒塔より寄贈という文字があった。そして題名の後、アントワル氏に捧ぐという文言があった。アントワルとは、このクラーグにある魔術学府の初代校長であるという知識がトーマにはあった。 「……」  内容は、高々度な治癒魔術についての理論と魔法陣例であり、確かにそこに並ぶ理論は、これまでに触れてきたいずれの魔術知識よりも優れていて、トーマは目を瞠った。求めていた黒塔自体の知識は得られなかったが、気が付くと夢中で読み耽っていた。時はあっという間に過ぎていき、パタンと本を閉じて背表紙を視界に捉えた時には、全身にびっしりと汗を掻いていた。知識量が違いすぎた。 「面白かったか?」  声をかけられたのは、その時の事だった。驚愕して、トーマは顔を上げた。すると正面の椅子に、無精髭を湛えた青年が一人、頬杖をついて座っていた。口角を持ち上げながら、楽しそうにトーマを見ている。  ――ユーグである。  一切の気配が無かった事に、トーマは狼狽した。先程までの感動由来の汗とは異なり、全身が総毛立ち冷や汗が浮かんでくる。これまでの間、トーマは決して専門的に魔術を学んだとは言えないが、代わりに己よりも優れた魔術師にも一度も出会っていない。  だが、たった今眼前にいる三十代半ば程度に見える魔術師から漂ってくる押し殺された魔力の気配を確認し、すぐに絶望的な心地になった。格が違う。 「どうなんだ? どうだった? 率直な感想が聞きたい」 「……」  強すぎる魔力がもたらす威圧感に呑まれそうになり、トーマは呼吸が苦しくなった。いくら押し殺されていても、元の気配を探る事がトーマには容易であるから、体が震えだす。  とても雑談をしている気分にはなれなかったが、気配と反して、ユーグの口調は気さくで明るいものに思える。どうせここで罪を咎められるならば――最後に感想を述べても良いのかもしれない。トーマはそう考えながら、深く吐息した。 「面白いというよりも、ある種の感動があった。この大陸のどの魔術とも異なる緻密な構成で……はっきり言って、魔術師なんて大した事がなくて、俺にでも魔術を使う事が易いと考えて旅をしてきたから、それが恥ずかしくなった」  トーマの回答を聞くと、ユーグが笑みを深めた。 「もっとそう思ってくれるような人間が増えるように、その辺の棚に置いて欲しいんだけどなぁ、作者としては」 「作者?」 「改めて、初めましてだな。俺は第十二代暗黒魔導師のユーグという」  それを聞いて、トーマは目を見開いた。彼の黒い瞳を正面から見据えながら、ユーグが喉で笑う。 「その本は、俺が記したものだ」 「暗黒魔導師……」 「安心しろ。俺は別に警邏につき出すつもりで来たわけじゃない。ある意味では、捕まえには来たんだが」  ユーグは机の上に組んだ両手を置くと、ゆっくりと天井を見上げた。 「この空の上、雲を突き抜けた所、普段俺達が過ごす塔が雲の上というだけだが――そこに黒塔の本質があるんだ」 「黒塔……」 「お前には、黒塔に招く理由となる膨大な魔力と知識がある」 「……」 「そして、最も重要な事柄として、お前が使う魔術の中に、黒塔としては捨て置けない貴重な魔術がある」  それを聞いたトーマは、転移魔術の事かもしれないと考えた。 「お前を客人として、黒塔に招きたい。その魔術知識を黒塔の研究に活かすために」 「俺の知識を……?」 「俺に捕まってくれ。共に来てくれるならば、更なる魔術知識の提供を約束する」 「本当に?」 「ああ。俺は時に嘘をつくが、基本的には正直者だぞ」  このグリモアーゼの魔術を学ぶ事は、トーマにとっての命題である。断るという選択肢は存在しなかった。

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