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第4話
翌日。雨が上がった。朝露で緑の草が濡れている。ユーグが帰ってきた気配を魔力から察知して、キースは厚切りベーコンとその横に卵を落として焼いた料理を、トーストにのせて急いで食べた。本日はレタスとトウモロコシのサラダ、トマトのスープも用意していたのだが、ゆっくりと味わうでもなく飲み込んだ。
食後、二階から通じる外階段の扉を開ける。白い階段を駆け下りていくと、島のはずれから歩いてくるユーグが見えた。師の姿を見ると安心するのが常である。ユーグはキースにとって、育ての親でもある。
「師匠!」
キースが声をかけると、ユーグが片手を上げた。ひらひらと振られている手を見て、キースは唇の両端を持ち上げる。危険が伴う外出では無かった事に、一つ安堵していた。時にユーグは、図書館へ行くと口にして、魔獣討伐をついでにしてきたなどと、宣う事がある。大概嘘つきだと、キースは師について考えている。
「客人を連れてきた。紹介する、トーマだ」
その声を聞いて初めて、キースは、ユーグの後ろを歩いている一人の青年に気がついた。ローブと呼ぶにはお粗末すぎる、灰色の襤褸布を纏っている。フードを被っているが、色白の肌がよく見えた。しかし、白亜人とは異なると分かる。黒い髪と瞳をしているその青年は、桃色と黄色を混ぜて水で薄く溶いたような健康的な肌色の持ち主であり、その範囲で色白なのだと見て取れた。アーモンド型の瞳をしていて、キースと視線が合うと目礼した。年の頃は、キースと同じくらいで、二十代前半に見える。
「よろしくな」
キースが声をかけると、トーマが顔を上げた。
「ああ」
頷いたトーマは、ユーグに従って歩いてくる。キースはその姿に驚いた。暗黒魔導師やその弟子には、絶対的に敬語の人間が多い。各国の王侯貴族ですらそれが常で、自然体で頷かれる事など稀だ。
「まずは三階の客間に通す。キース、準備をしてくれ」
「応接間じゃないのか?」
「長く滞在してもらう予定でな。二の客間を頼む」
「分かった」
頷いてキースは外階段の一番下で踵を返した。そしてまずは二階の居間に戻り、今度は三階の端に直通する急な階段を登る。黒塔には、数多くの階段と梯子が設置されている。いずれも年代物だ。
キース本人が清浄化魔術を展開している三階に上がってからは、師の指示通り、五つある客間の内、二の客間と呼ばれる応接間から二つ右隣の客間の扉を開けた。埃もなく、カーテンを開けると、白い陽光が入り込んでくる。雨上がりの朝の空気が、キースは好きだ。室内を確認し、魔術で保っている青い生花もそのままであるのを目視する。レラ草という花で、フェニキリア王国の名産品だ。その花が放つ清涼な香りが、部屋には漂っている。家具は机と寝台、チェストとクローゼット、姿見があり、絨毯の毛足は長い。
「うん。大丈夫そうだな」
頷いてからキースは、部屋の外へと出た。丁度三階への直通の階段から、ユーグがトーマを連れてきた所だった。
「準備は出来てる。その……クローゼットの中の服とかも、好きに使ってくれ」
トーマの装いを見て、キースは気を遣ってそう告げた。するとトーマの隣で、ユーグも大きく頷いた。トーマは二人の姿を見ると、俯いて小さく顎を動かす。
「悪いな。感謝する」
それを聞いて、キースはやはり物怖じした様子もないトーマの口調が不思議だった。これは――お忍びの高貴な人物である可能性が高い。あえて襤褸布を纏っている可能性も考える。魔術に馴染みが薄ければ、王侯貴族はこういった普段の口調を変えない事もある。普通は教育されるものであるが、何か事情があるのかもしれない。
「トーマ、着替えたら二階に降りてきてくれ。階段の場所はさっき道中で話した通りだ」
「分かった」
「キースは先に俺と下に行こう」
キースは頷きつつ、再度驚いた。二階は暗黒魔導師や弟子の居住する場であり、客人を招く事など、本来では決してない。不可思議な事ばかりだ。
トーマと別れて、ユーグと共に階段を下りながら、後ろからキースは師のローブの背中の布を軽く引っ張った。
「なぁ師匠」
「ん?」
「色々と例外だけど……あいつ、何者なんだ?」
声を潜めてキースが尋ねると、前を向いたままでユーグが小さく吹き出した。
「そうだな、面白い者だな」
「答えになってない」
「非常に貴重な魔術を使えるし、膨大な魔力も持っている。透過魔術を使えるほどだ」
「……俺の苦手分野だ」
「あー、そう考えると、キースと切磋琢磨し合えるという意味でも良いかもしれないが、招いた理由は別だ。彼は、この黒塔にとって、非常に有益で、研究を進めるのに重要な独自の魔術知識を持っているんだ」
「え? 独自の?」
「ああ。各国の術式を混合させて、独自の理論を少し上乗せした状態であるようだが。その魔術を感知してから、ずっと遠隔から見ていたんだ」
嬉しそうなユーグの声を耳にして、布から手を離し、キースは腕を組んだ。
それから二階の床を踏み、キースは改めて室内を見渡した。するとユーグが言った。
「この部屋をどう思う?」
「一瞬だけ掃除しようか考えた」
「……考えただけか? 何故そこで、手を動かさなかったんだ?」
「……」
「まぁ良い。俺は諦める事にした」
「ここに、トーマを通すのか? この汚い居間に?」
二人がそんなやりとりをしていた時、階段が軋む音がした。二人が振り返り視線を向けると、トーマが丁度降りてきた。襤褸布から、白に近い灰色のローブ姿に変わっている。これは客人向けのローブだ。元々の襤褸布が薄汚れた白だったから、色彩自体にはそれほど変化は無いはずなのだが、きちんとした格好に代わり、内側にはカッチリとしたこれも客人用のシャツを着ている姿を見ると、トーマが端正な容姿をしている上、しなやかな体つきである事が分かる。適度に筋肉がついていて、細身というわけでもなく、背が高くそれなりに肩幅もある。
「……」
トーマは、床に降りると、驚いたように室内を見渡した。
やはり汚くて焦っているのだろうと判断し、キースは引きつった笑みを浮かべるしかない。
「まぁ座れ」
手で埃を払い、ユーグはトーマ用のソファを最初に確保した。続いて己の分のソファの埃を手で払い始める。それを見ながら、キースはコーヒーを三つ、魔術で用意した。ユーグがキースのソファを用意してくれる事は無かったので、カップを並べてから、キースは己のソファを確保するために、布を手にした。その間、トーマは無言であり、ユーグは天気についての独り言を口にしていた。雨が上がって良かったなぁと呟いていたのである。
こうして三人が座した所で、ユーグが切り出した。
「所で、トーマ。お前には聞かなければならない事がある。黒塔にとって重大な魔術の件だ」
興味津々で、キースはその場を見守る。するとトーマが嘆息した。
「転移魔術の件か? 俺がある場所の禁書庫から得た知識の」
「いいや。お前が野宿時のテントの中や、宿で用いていたお掃除魔術についてだ」
「――は?」
笑顔のユーグに対し、トーマが呆気にとられたような顔をした。キースは、転移魔術が苦手なので、使える事に驚くと同時に、禁書庫とは何かについて真面目に考えていたが、それは数秒だった。次の瞬間、ユーグが放った言葉に驚愕したため、思考が吹っ飛んだのである。
「お前は、清浄化魔術の簡易版かつもっと生活に必要な魔術結果を組み込んだ、実に素晴らしい日常魔術を開発したらしいな!」
「……?」
「お前にならば、常にこの部屋を綺麗に出来るはずだ」
「……確かにこの部屋は汚いな」
「だろう? お前のお掃除魔術なら、『タイトルや本の持つ魔力、紙の年代から判別して』魔導書を整理したり、瓶の表面を拭いたり、ソファを綺麗にしておいたり、床を、モップをかけた状態にしておけるはずだ。違うか?」
「勿論その程度は……え? 掃除?」
トーマが狼狽えている。キースは目を丸くした。確かにこの部屋が綺麗になれば、黒塔は過ごしやすい環境となり、みんなの研究の効率も上がるのは間違いない。第一、この部屋が綺麗になるという魔術は、今黒塔が最も求めている魔術技法であるし、非常に素晴らしい。
「これから毎日よろしく頼んだぞ」
「……」
「代わりに、俺はお前に、その膨大な魔力を有意義に使うための魔術を伝授する。客人のために、黒塔は多くの知識を与える準備があるからな」
「……」
「あと、キースには構わなくて良いが、俺と、もう一人、第十一代暗黒魔導師のファルレには、一応敬語を使ってくれ。客人を招く条件があるんだが、無礼な客人は追い出すという決まりもあってなぁ。だから一応な。俺はあんまりそういうのは気にしないんだが」
「分かっ……りました」
素直に同意したトーマは冷や汗こそかいているようだが、無表情であるから、キースから見ると余裕が有るように感じられた。トーマが頷いたのを見て、ユーグが言う。
「さて、昼食までは休むか。一日がかりで旅をしてきて疲れたんだ。途中までは転移をしたけどな。キース、今日は俺とトーマの昼食の用意も頼んだぞ」
「ああ、任せてくれ」
弟子になった日に、敬語は不要だ、いつか対等になるのだから――と、そう言われた記憶を漠然と思い出しながら、キースは昼食のメニューを考える事に決めた。
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