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第9話

 入浴を素早く済ませて、キースはトーマの部屋へと向かった。二の客間の扉を叩くと、いつもの通りの冷たい無表情で、トーマが顔を出した。しかしもう慣れた上、特に怖いと思うこともないキースは、両頬を持ち上げて、笑顔になった。 「よろしくな」 「……入ってくれ」  こうしてトーマの部屋の中へと入り、キースは周囲を見渡した。自分が用意した時と、ほぼ変化は無い。しいてあげるならば、机の上に何冊か魔導書がある事と、寝台の所に香水瓶のようなものが置いてある事が違いだろう。 「俺はどうしたらいい?」  キースが問いに、トーマが唾液を嚥下する。ゴクリと喉仏が動いていた。ギュッと目を閉じたトーマは、それからゆっくりと目を開いた。 「あくまで俺の場合だが」 「うん?」  透過魔術か転移魔術の話だろうかと考えて、キースは首を傾げる。 「まずは抱きしめる事が多い」 「何を?」 「っ、その、だから……」 「その、じゃ分からないだろう。実演してくれ」  キースがそう言うと、困ったように天井を見上げてから、トーマが一歩前へと出た。そして扉の前に立っていたキースを、正面から抱きしめた。背丈はさして変わらないが、僅かにトーマの方が高い。 「?」  不意に抱きしめられて、キースは考えた。自分で自分は抱きしめられない。だが、そういう問題ではなかった。何故なのか、トーマに抱きしめられた瞬間、胸が煩くなったのだ。笑顔を見た時と全く同じだ。 「トーマ、やっぱりお前、なにか魔術を使っているんじゃないのか?」 「魔術?」 「ドキドキするんだ。胸が苦しい」 「っ」  見ればキースが真っ赤になっているものだから、トーマは焦った。蕩けたような顔をしているキースを見ると、トーマの側もやはり赤くなるのが止められない。 「断言して……俺は、今は何の魔術も使っていない」 「じゃあ俺のこの胸の苦しさは何なんだ?」 「……え、ええと……キース様」 「お前に触れられていると、ドキドキするんだ。笑顔を見た時と一緒だ」 「俺の笑顔を見てドキドキする上に、触られるとそういう顔をするって……あのな、キース様、良いか? そういう事は、口にはしない方が良い。この状況では」 「へ? じゃあ、いつ言えば良いんだ?」 「……性教育以前の問題じゃないか」 「セイキョウイク?」 「――一体いつから、キース様は俺を見るとドキドキするようになったんだ?」 「見ている分には、平気だ。笑顔と、あとは、こうやって触られているのがドキドキするだけだぞ。いつからと言われたら、昼間の書庫と、それと今だな。他には、お前を思い出した時、午後たまにドキドキしていたぞ」 「俺を思い出し……っ……これ、俺が答えを言うのか? どういう状況だ? 俺が、俺にお前は恋をしているとか、そんな……え?」 「コイ?」  トーマの腕の中で、キースが首を捻っている。その無防備な様子があんまりにも愛おしく見えてきてしまい、トーマは呻いた。 「キース様、恋愛という概念は分かるか?」 「ああ。ファルレ様から聞いた事がある。人間が持つ幻想的な誤解の一種だろう?」 「……」 「ユーグ様は、恋愛というのは、黒塔の寂しい自分達では経験し得ない、つまり存在しない概念だと話していたぞ」 「……」 「俺は恋愛という言葉は魔導書の惚れ薬作成術でしか見た事はないが、違うのか?」  頭痛を覚えて、トーマは固まった。キースはただ不思議そうな顔をしているだけだ。それが次第に愛おしくなり、トーマは両腕に力を込めて、キースを強く抱きしめた。そうされるとキースの胸騒ぎが酷くなった。 「恋愛というのは、人を特別に好きになるという事で――例えば笑顔を見た時や抱きしめられた時に、胸の鼓動が早くなるような現象を伴う」 「へ? じゃあ俺は、トーマの事が恋愛対象という意味で、好きになってしまったという事か? どうして?」 「どうしてと言われてもな……」  トーマは言いたかった。自分が聞きたい、と、切実に。しかしこのままでは埒が明かない。そう判断して、トーマは片腕でキースの腰を抱き寄せると、もう一方の手でキースの顎を持ち上げた。  じっと目が合うと、キースはドキリとした。トーマの冷静な表情は変わらないようにキースには見えた。だが、少しだけその黒い瞳が獰猛になっているように見えて、キースは後ずさりそうになる。だが、トーマの腕がそれを許さない。 「抱きしめたら、俺は通常は行わないが、恋人同士の場合はキスをする」 「こ、恋人同士……それって、確か、お互いに幻想を抱いている状態だろう?」 「……お互いに好きな状態だな。お互いにドキドキする状態だ」 「俺はドキドキするけどな、トーマは俺に対してドキドキするのか?」  素直にキースが問うと、トーマは体を固くした。そこで気づいた。死ぬほどドキドキしているという事実に。考えてみると、昼間から胸騒ぎがずっと止まらなかった。期待と幸福感で、早く欲しいとばかり考えていたのである。だがそれは、肉欲だけのはずだった。 「ン」  しかし気づいた時、トーマはキースの唇を奪っていた。薄らと唇が開いているのを見ていたら、そのまま衝動的にキスをしてしまったのである。  優しいトーマの唇の感触に、鼻を抜ける声を出したキースは、動揺しながら両手をトーマの胸についた。その時、トーマがキースの口腔に舌を入れた。歯列をなぞられた時、トーマはビクンとした。見知らぬ感覚が、体を走り抜けたのだ。 「あ……っ、ん!」  唇が離れる直前で、服の上から右の乳首を緩くつままれて、思わずキースは声を上げた。自由になった口で大きく吐息しながら、狼狽えてキースがトーマを見る。 「な、何?」  ここにきて、キースは本能的に危機を悟った。初めて知った刺激に、驚愕しながら、これは師匠にもっと深く聞いてから行うべきであるのではないかと考える。自分の知らない魔術技法に違いないと判断していた。  そんなキースのローブを脱がせ、内側に着ている服のボタンをトーマが外す。そして大きな掌で、キースの鎖骨をなぞりながら、再びもう一方の腕ではキースの腰をトーマが抱き寄せる。  至近距離にあるトーマの端正な顔を見て、キースは震えながら唾液を飲み込む。 「トーマ……」 「……」 「怖い」 「う」  涙目になっているキースに気がつき、トーマが狼狽えた。少し性急だっただろうかと考えながら、顕になっているキースの両胸を見る。激しく抵抗されているわけではないし、ここまで来て逃がしたいとは思えない――が、怖がっている相手を無理にどうにかしたいとは全く思わない。そこで、安心させるべく、両腕で抱きしめた。 「大丈夫だ」 「何が? 何も大丈夫じゃないぞ?」  不安そうなキースの声を聞き、トーマはキースの額を自分の体に押し付けてから、じっくりと目を閉じた。そしてキースの耳の後ろを指でなぞりながら考える。どうやって緊張を取ろうかと悩んでいた。 「ぁ……」  キースは耳の後ろをなぞられる度に、じんわりと熱が浮かんで来る事に気がついた。これまで夢精経験しか無かったわけであるが、健全な肉体の持ち主である為――キースは本人にも自覚はないが、体はトーマどころではない欲求不満状態だったのである。 「ん……」 「怖くない。安心してくれ」 「なぁトーマ……」 「なんだ?」 「もっと撫でてくれ」 「!」  キースのお許しが出たとトーマは判断した。そこで今度は顎の下に手を添え、そちらを擽ってみる。そうしながら唇で、首筋に触れた。 「ぁ」  トーマの唇の感触に、キースが震えながら声を漏らす。そうされただけで、体の芯が熱を帯びた気がしていた。 「寝台へ行こう」 「寝台? どうして?」  混乱しながら聞き返したキースを促し、トーマが何も答えず寝台へと行く。そしてキースの服を完全に脱がせた。その状態で、後ろから抱きしめるようにする。寝台の上に座ったキースは、背中から回されたトーマの腕にそっと触れた。 「俺が怖いか?」 「トーマというより、なんだか謎の体の感覚が怖いんだ」 「それを教育するように、ユーグ様に指示されている」 「ん? この感覚はやっぱり魔術関連なのか? だったらもっとしっかり俺も師匠に確認してくるから今夜は中止だ」 「……どちらかといえば、恋愛の方に近しい身体反応だ」 「へ? 恋愛……あ。確かにドキドキとゾクゾクは似ているかもしれない」 「ゾクゾクするのか?」 「おう」 「――それは、快楽だ」 「快楽? 別に魔術をぶっぱなして魔獣を討伐した時のような爽快感は無いぞ?」 「……快楽は通常、恋人などによって与えられるもので、魔術は関係ない」 「俺とお前は恋人同士になったのか!?」 「っ、ああ、もう……少し黙っていてくれ!」  こうして、二人のゆったりとした夜が始まった。

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