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1.奴隷
震える指先を口から吐いた息で温めながら、冷たく硬い床を雑巾で丁寧に拭いていく。春先とはいえ、井戸から汲み上げた水は冷たく、素手での拭き作業に加え、薄い布切れのような服を着ているだけの状態では寒さを凌ぐことなど到底無理だ。
赤切れだらけの自分の手を見つめながら、まるで奴隷のようだと心の中で思った。
「こんな所で何をしているの」
「…アデレード兄さん…」
細やかな刺繍が施され、煌びやかなフリルのたっぷりあしらわれた服を身に纏った美しい天使のような美貌を持つ青年が、こちらにゆったりと歩み寄ってくるのを、青い顔をしているであろう僕はじっと見つめたままその場から動けずにいた。
僕の目の前まで来たその天使は、紛うことなき僕の腹違いの兄であり、このロペス公爵家の自慢の|花人《かじん》だ。
花人とは、2ヶ月に1度程、定期的に開花期と呼ばれる甘い花のような香りを纏うという特異体質を持つ者のことで、ほとんどの花人が容姿に優れ小柄で中世的な見た目をしていると言われている。
そして最も異質と呼べるのが、男の花人は男であるにもかかわらず子供を産むことが出来るんだ。
花人は産まれてくることが珍しく、この国では子宝を授かれる貴重な存在として大事にされている。そのため高位貴族の花人はほとんどが王族や自分よりも位の高い貴族の元へと嫁ぐことが多い。
歴代の王妃様にも数人ほど花人がいるけれど、肖像画を見る限りやはり美しい容姿をしていた。
「相変わらずブサイクな顔。花人の面汚しだよ」
アデレード兄さんの綺麗に手入れされ陶器のように白い指が僕の顎を掴んで、爪が肌に微かにくい込んだ。
その痛みに、自分でもあまり整っているとは思えない顔を更に醜く歪めた。
「僕の部屋がホコリだらけなんだけど、掃除もまともに出来ないの?本当にグズなんだから」
そう言ってわざと水の入った桶を蹴り倒した彼はポロリと涙を流した僕を見て心底楽しそうに笑いながら食堂の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を見つめながら、悔しさが胸の奥をじわじわと支配していく。
僕の母はこの公爵家のメイド長をしていた人だった。庶民の出だったけれど、努力を重ねて周りから認められメイド長まで昇進した努力の人。そんな彼女は公爵家当主と禁断の逢瀬を重ね、その結果、産まれてきたのが僕だった。僕が生まれたのと同時に彼女は命を落とし、僕は10歳になるまで離の別邸でメイド達や他の使用人たちの手を借りて生活をしていた。
状況が変わったのは10歳を超えてからだった。
突然、本邸へ呼び戻された僕は、自分の腹違いの兄だというアデレード兄さんと顔を合わせることになった。
初めて顔を合わせた時、彼が言った一言を今も覚えている。
「うわっ、ブッサイク」
その一言が僕のことを彼がどう評価したのかを物語っていた。
ずっと顔も知らなかった父は、母にも自分にも似ていない僕を自分の子だと認知してはくれず、本妻は元々僕の母が嫌いだったために期待するだけ無駄だった。
その日から、僕の地獄の日々が始まった。
使用人よりも質素な食事と、厳しい労働。
薄く意味をなさないボロい布を身にまとい、まるで奴隷のように息を殺して生きていく日々。
家族であるはずの人達の機嫌を取り、頭を垂れ、苦汁をなめる思いをしながら過ごす日々は少しずつ僕の心も身体も疲弊させた。
なによりも僕を絶望させたのは、顔も整っておらず対して華奢でもない僕が花人だという事実だった。
通常14歳くらいになれば来るはずの開花期ですら16になった今になっても来ない僕は、本当に花人なのだろうか?と自分ですら疑問に思う時がある。それもあって周りからは花人だと嘘をつくなど身の程を弁えろと後ろ指を刺されたりもする。
流れる涙を袖で拭って、溢れた水を雑巾で拭いて行く。
この国で、こんなにみすぼらしい花人はきっと自分1人だけだろう……、そう思わずにはいられない。
美しい兄は沢山の貴族子息から婚約の申し出があるという。
けれど、パーティにすら参加させて貰えない僕にはそんな機会すら与えられることは無いんだ。
更に冷えきってしまった手を何度も息を吐く事で温めながら、食堂の方から香ってくる美味しそうな匂いに腹を鳴らす。
僕のご飯は大抵、彼らの残した残飯か、酷い時には水1杯。
それでも生きているだけで有難いことだ。
ぐっと目を閉じて、踏ん張れと自分に言い聞かせる。そうしてまた僕は手を動かし始めた。
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