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 退職の日も、陽向は園児の帰った教室で積み木を拭いていた。  これで最後かと思うとなんだか寂しいが、大丈夫、次の園もきっとすぐに決まると自分に言い聞かせる。  陽向はこの仕事を天職だと思っている。初めて家族の元を離れる小さな子ども達が、涙をこらえて園での生活に慣れていく様子はこちらも泣きたくなるほど大変で、愛おしい。  就職情報をこまめにチェックしているのだけど、なかなか条件の合う幼稚園が見つけられない。康平の言っていたように、次の職場を探してから辞職の話をすればよかったかなと今更ながら思う。  最後の一つを拭き陽向はふっと息をついた。あとは清掃済みの積み木を各教室に配るだけ。  三つの箱のうち一つを抱え、まずは隣のもも組へ。  ここ二階には、ばら組、さくら組、もも組の年中さんのクラスが並んでいる。廊下に出ると外から聞こえる楽しそうな高い声に吸い寄せられ、園庭を見下ろした。お預かりの子達が元気に走り回っている。砂場には背を丸めて何やら作っている子達がいるし、滑り台にはきちんと列が出来ている。どうやら年長さんが仕切っているようだ。 「あらら、になちゃん半袖になって」   この時期のよく晴れた日は暑がって半袖になりたがる子は多いが、日か陰ると急に寒くなるから注意が必要だ。  換気のため窓も引き戸も開け放っているもも組へ入ろうとしたとき、階段の方から「あ、三田村先生」と呼ばれた。 「はい」  振り返ると声の主、園長の久保のほか、幼児を抱いた背の高い男性がいた。陽向はもも組に踏み込ませた足を戻した。 「こんにちは」  陽向はにこやかに挨拶をする。幼稚園見学に訪れた親子連れだろう。  十一月頭に入園願書の受付が始まるので、九、十月は入園説明会を開催したり見学会、問い合わせ連絡等が増える。今日、見学の予定は入っていなかったから飛び込みだろう。予定外の見学者は断っているのにどうしてかなと思う。  父親に抱かれている女の子は黒目の大きい瞳をじっと陽向に向けている。ふっくらした赤い頬につやっとした線が出来ているのは鼻水を横に拭いたせいかもしれない。よく見ると涙目になっているようだ。風邪引いているのかも、と思いながらに笑いかけると口元をきゅっと締め、恥ずかしそうに父親の肩へ顔を埋めた。かわいいなぁと思う。 「こちら見学にいらっしゃった東園凛子(ひがしぞのりんこ)ちゃんとお父様です。園内をご案内しているあいだ、凛子ちゃんと遊んでいてくれるかしら」   東園、と聞いた感触に懐かしさを覚えながら久保に頷く。  少し考えて、中学時代、同級生に東園という名字の男がいたことを思い出した。名前はたしか東園馨(ひがしぞのかおる)だ。  本当に同級生なのか、陽向は父親の顔をちらりと見る。  意志の強そうな眉に切れ長の二重。瞳の色は薄く、モスグレーの虹彩を栗色が縁取っている。綺麗な色だなと思う。直線的な鼻梁に薄めの唇がバランス良く配置されていて、端正な顔立ちの見本のような顔貌だ。しかも陽向が見上げる長身で、均整の取れた体躯を素人でもオーダーだと分かる三つ揃いのスーツで包んだ姿は雑誌から抜け出してきたようだ。   食い入るように見つめていた自分に気がついて陽向は急いで目を落とし考える。  どうだろう、同級生の東園だろうか。しばらく考えたが陽向には分からなかった。  中学卒業から十年以上経つうえ、東園とは友達と言えるほど話したことがなかった。  東園と聞いて思い出せるのは横柄、冷たい、関わりたくない、といった印象だけだ。顔を思い出そうとするけれど輪郭すら浮かんでこない。二年生のとき同じクラスだった筈なのに。  当時は知らなかったが東園は東京から中学の三年だけ親の療養のため陽向の地元、愛媛で暮らしていたという。   そして東都丸山銀行、東都アイワ保険、東都交通、東都グランドホテル等傘下企業が多数ある東都財閥と近しい家系で一般人では想像も出来ないようなお金持ちだったらしい。  高校に進んでしばらく経った頃誰かが思い出したように言っていて驚いたが、道理で皆とは何か違う、異質な感じがしたんだと納得した覚えがある。  懐かしく昔を思い出してはっとした。今は仕事中だ。  多分違う東園さんだろうと結論づけ、陽向は久保に断りもも組に積み木を置いてきた。  「凛子ちゃんていうんだ、可愛いお名前だね。僕は三田村陽向といいます。みんなには陽向先生って呼ばれています。凛子ちゃん、お外で一緒に遊ぼうか? お部屋でもいいんだよ」   一歩前に出て陽向の体はかちりと固まった。  父親から漂う、この香り。この匂いを陽向は確かに知っている。この男は東園馨、間違いなく同級生だ。  東園から漂う匂いに引きずられるようにして忘れていた記憶がよみがえってくる。  学校の廊下で東園と初めてすれ違ったとき、このムスクのようでどこか違う、不穏で危険な感じのする匂いに陽向は思わず眉をひそめた。  中学生なのに学校に香水をつけて来るなんて絶対先生に怒られるだろうと思っていたのに東園はいつまでも香水臭いままだった。とにかくその香りが苦手で陽向は極力東園を避けていた。  すっかり忘れていたが、中学の時避け続けていたから思い出せなかったんだ。そういえば、顔をじっくり眺めた記憶がない。  笑顔を貼り付けたまま動かなくなった陽向に「三田村先生、どうしましたか」と久保が声を掛ける。

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