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 凛子は発熱している、これから病院にも連れていくのだろう。水曜日の夕方、小児科は込み合っているのだろうか。まだ初冬で本格的なインフルエンザ流行期には入っていないけれど。病児は目を離せないから人手は多ければ多いほど良いとは思う。  本日、九月末日、陽向は最終出勤日だ。同僚が送別会を開いてくれるのだが別日なので今日はこれから帰宅するだけ。だが、ほんの少し躊躇を覚え即答できない。  東園の匂いは気になるが病児の世話とは比べるまでもない。しかし一番は東園がどう見てもαというところだ。 親兄弟から耳にタコが出来るほどαには気を付けろと言われ続けて育った。陽向が知るαは身内を除けば康平くらいだが、大学にはきっと数名はいただろう。  Ωは本能的にαが分かるらしいが、陽向はΩ性のホルモンが薄いのかその本能とやらが働いたことがない。そもそも誰かに教えてもらわなければα、β、Ωの見分けすら自信がない。おそらくβ、あの人はαかも、とその程度だ。そんな陽向だから身内は過剰に心配したのかもしれない。  どうしようと陽向はそっと凛子を見る。鼻が詰まっているせいか寝息をつくたびすぴ、すぴと鼻が鳴っている。 「仕事とは内容が違うから役に立たないかもしれないけど、でも予定もないし、僕で良ければ手伝うよ」  自分がΩだろうが東園がαだろうがやはり病児を放っておけない。それにΩだと小学生の時に判明した陽向はすぐに診断を受け、抑制剤を服用し始めた。現在、日本在住のΩは月一の定期検診と日々の抑制剤服用を義務付けられており、陽向はその管理によって今まで発情を感じることなく過ごせている。発情期と思われる期間、身体の怠さは感じるものの、フェロモンを発生し他人を惑わせる事もなければ誰かに抱かれたくなる衝動を感じた事もない。コントロールは完璧だ。まあ問題ないかと結論づけた。  東園は凛子を抱いているのにも関わらず片手でスマホを操り陽向の連絡先を登録した。陽向も登録して、仕事が終わったら連絡することになった。  園児用の低い靴箱の上に良く磨かれた革靴と、ピンクの小さな靴が並んでいる。 「凛子ちゃん貰おうか、靴履くだろ」  寝ている凛子を慎重に受けとる。やはり身体が熱いなと思いながら動かされてむずがる凛子をゆっくりゆらゆら揺らしながらあやす。しっかり起きなかったので助かった。 「慣れてるな、先生」 「茶化すなよ」   睨むと笑顔を返された。整った容貌の笑顔って破壊力があるなとひそかに思う。女性に向けたら百人が百人落ちそうだ。 「家に行けばいいんだよね、住所、あとで送ってくれる? あ、車で来たの? 駐車場まで行こうか?」  凛子が起きないようにそっと抱き渡す。東園が近付いた瞬間、漂う匂いに動きが止まったが徐々に嗅ぎ慣れてきたようで息を止めなくても大丈夫だった。 「ありがとう。ここでいいから仕事に戻ってくれ。連絡する」   間近で目が合う。美しい色合いの瞳に目が離せなくてついじっと眺めてしまう。凛子がむずがり東園が抱き直した。 「あ、じゃああとで。何か買っていくものとかあったら言ってね」 「ああ」  ほんの数秒でも凝視してしまって申し訳なく感じる。じろじろ他人に顔を見られるなんて嫌に決まっている。  笑みを浮かべた東園は背をむけて進み始めたかと思ったら急に立ち止まり振り返った。なにか忘れ物かと思ったが東園は陽向を見たあとすぐ向き直り歩き始めた。  勤務終わりに同僚に貰った菓子折りと花束をそろっと自転車の籠に入れ、帰路を急ぐ。自分以外はβの女性だけ、という職場だったけれど保護者のΩ差別の際には庇ってくれたりとΩの自分に優しい職場だった。次の職場もそうだったらいいなと思う。  自分で辞めると決断したのに、薄暗いなか自転車を押していると寂しさに襲われる。園から徒歩十分の我が家はもう目の前だ。  十階建てのマンションは就職を機に引っ越してきたのでもう五年目だ。職場に近いのはいいけれど、家賃は相場より若干高めだ。家族が職場の近くでオートロックじゃないと、とうるさいのでここに決めたのだが無職になってしまった自分には贅沢な住みかだ。  エントランスの脇から駐輪場へ入り契約場所に停め、エレベーターの手前にあるポストを覗く。このときいつも胃の辺りが気持ち悪くなる。  変わったものは、入っていない。  見た限り、DMが二通と不動産系のチラシだけだ。ほっと息をつき、陽向はそれらを手に取った。約一年前、カッターの刃が出た状態で入っていたことがあり、その後には瞬間接着剤を投函口から投入されダイレクトメール等が固まっていた事もあった。Ω死ね、Ωは出ていけと書かれた手紙は数日に一度は入っている。  どうしてこんな嫌がらせをされるのか、陽向には全く心当たりがない。手紙に陽向の名前ではなく「Ω」と書かれていた事からアンチΩからの嫌がらせだろう。  しかし犯人はなぜ、陽向がΩで、ここに住んでいる、この部屋だと知ってるのか分からない。職場関係か、と思うがほんの一部の保護者には陽向がΩだと知られてしまったが、職員の住所が公開されることはない。  同僚は通報したらとアドバイスをくれたのだが陽向は出来なかった。  どこまで知られているか分からないから、警察に連絡して隣近所に陽向がΩだと広まってしまうリスクがあるし、最悪の場合、トラブルの原因とされて退去させられる可能性もある。これ以上身に覚えのない中傷が増えたら陽向のメンタルが持たない。αβΩは平等だと叫ばれているが、実際、根付いた差別感情の根絶は難しい。  Ωは本当に生き辛い。Ωというだけで誰か分からない人間から死ねと言われたり、誘惑したと疑われる。  発情期が来ているかも疑わしいくらい薬できっちりコントロール出来ている陽向でもだ。  加害者が絶対悪い。それは間違いないけれど、自分がΩだからしょうがないとどこか諦めている。生まれもった性だからΩの男性というカテゴリーから陽向は一生逃げられない。肩身の狭い思いでβの顔をして生きるしかないと諦めている。

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