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⑨
車は滑るように夜道を進む。
駅近辺から住宅街へ入って確かに街灯は減ってきた。
緩やかな坂を登って暫く走ると歩道に面する邸宅の面積が明らかに広くなっている。
暗いから家自体はよく見えないが、きっと立派なのだろう。車は一角でスピードを緩め、車道に面した駐車場に停車した。四台は停められそうな広いガレージの裏に東園の自宅であろう建物がある。自分の部屋はこのガレージにすっぽり入るだろうなぁ、いや、考えると空しくなるからやめようと思う。
北見に促されるまま車を降り、ガレージ脇の門扉を通り過ぎる。庭の端にライトが配されていて暗くても陽向の知っている一般的な庭の広さではないのが分かる。キョロキョロ辺りを見回しながら陽向は北見の後ろに続いた。東園の家だから、きっとあの陽向の苦手な匂いも強いだろう。覚悟しておこうと思う。
「いらっしゃい。北見すまない、ありがとう」
北見が呼び鈴をならす前に玄関扉が開いた。東園は先ほどのスーツからVネックのブラウンセーターにスリムパンツに変わっていた。陽向は家に帰ると襟のよれたトレーナーに安いハーフパンツだからずいぶんお洒落な部屋着だなと思う。
北見が玄関扉を押さえて東園がどうぞと陽向に中へ入るよう促す。
「北見さんありがとうございました」
陽向が頭を下げると北見は強面に笑みを浮かべた。笑うと少しだけ取っつきやすくなるなと思う。北見は東園と少し言葉を交わして一礼すると玄関を閉めた。
「改めてありがとう、上がって」
「お邪魔します。あ、凛子ちゃんは?」
「リビングにいるよ、あれから病院へ行った」
「どうだった?」
二人並んでも余裕のある広い廊下だ。東園はすぐ脇の扉を押した。
「色々と調べてもらったけど、何も反応出なかったよ。風邪だろうって結論だ」
「そうなんだ。凛子ちゃんごはん食べたの?」
「まだだよ」
うなずきながら陽向は東園に続いて部屋へ入った。広いリビングに思わずわっと呟きが漏れた。奥にキッチンがあり、ダイニング、そして陽向のいるリビングと続いている広々とした空間。
壁掛けの大きなテレビとL字の大きなソファ、その間にガラスのローテーブル。ソファには凛子の姿があり、背もたれの右端に東園の背広とネクタイが掛けてある。
ハウスメーカーのカタログに載っていそうなリビングだけど、テレビと窓までのあいだにある木製のキッチンや子供用のカラフルな三段ボックスが幼児の家庭らしいなと思う。康平の家もこんな感じだった。東園の匂いはそうきつくない、気になっていたので少しほっとした。
凛子は昼と同じワンピースで猫のぬいぐるみを抱きしめている。さらさらの黒髪が幼児特有の丸い頬にかかっていてくっきりとした大きな瞳が人形めいている。
「もしかして帰ってきたばっかりかな? こんばんは、凛子ちゃん。病院行ってたんだってね、偉かったね」
凛子は陽向を見て小さく頷いた。
「こんばんは。夕方幼稚園で会ったの覚えている? 三田村陽向です。陽向せ、ええとひなた、うーん、ひーちゃんが呼びやすいかな」
そばに屈んで凛子の顔を見る。頬が赤く目が潤んでいる。これは早く寝かせた方がいいかもしれないなと思う。
「凛子ちゃんお熱は? あ、アレルギーある?」
「アレルギーはないな。熱はさっき計ったが夕方より上がっていた」
見た感じ、38度は超えていそうだ。陽向は紙袋をソファの横に置き立ち上がると東園にコンビニで買ったビニールの中身を渡した。プリン、桃ゼリーどちらも食べられると聞いてほっとした。
「おかゆがあるはずだ。家政婦に頼んだから」
「そうなんだ、じゃあ食べられるものを食べて、もう寝た方がいいんじゃないかな」
家政婦さんがいるなら、別に手伝いに来なくてもよかったんじゃないかと思う。見る限りもういないようなので、陽向は今夜のサポートと考えているのかもしれない。
凛子がゆっくりとソファに寝転がり、慌てて東園と陽向は凛子の顔をのぞき込んだ。目は開いているが呼吸が荒い。
「ちょっと見ていてくれるか?」
「うん」
言うなり立ち上がった東園は階段を駆け上がり、あっという間に降りてきた。
「悪い、これに着替えさせてくれ。あとブランケット」
「分かった」
東園はピンクの服を投げ渡してきた。広げると襟元に飾りリボンが付いたピンク地に白い水玉が散ったパジャマと下着だった。
「ちょっとキッチン借りる」
「ああ」
和室に入った東園の答えを聞いて陽向は持ってきた菓子の紙袋からタオルを取り出しキッチンで濡らし固く絞った。お風呂は無理でも顔と手足くらいは拭いてあげたい。
「凛子ちゃんちょっとごめんね。お着替え頑張ろうか。まずお顔と手を綺麗に拭こうね」
横になった凛子の顔を撫でるように優しく拭き、タオルを折り手を拭き靴下を脱がせ足も拭く。手足が熱い。
幼児はΩが本能的に分かるらしく、相手が男性でも気を許しやすいといわれていて、陽向も実際働いているときΩであることが有利に働くことが多かったように思う。
しかし凛子とは今日会ったばかりだ。着替えの手伝いはさすがに嫌がるかもしれない。
嫌がったらすぐやめようと思っていたが、その気力もないのか凛子はされるがままになっている。具合の悪いときにあまり身体を動かすと辛いだろう、陽向は手早く着替えさせ、ブランケットを掛けた。
陽向は床に座って凛子の頭をそろりと撫でる。凛子はゆるゆると首を持ち上げ陽向を見た。
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