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「ねこちゃ」
「ん、ねこちゃんね、はい」
着替えの時に手離した猫のぬいぐるみが恋しかったのか。床に置いていた猫のぬいぐるみを凛子に戻すとぎゅっと抱きしめ目を閉じた。
「寝たらきっと良くなるよ。凛子ちゃんお水飲む?」
こくりと頷く。見たところ二から三歳位、コップは使えるだろう。
「東園、凛子ちゃんにスポーツドリンク飲ませて大丈夫? 水の方がいい?」
「冷蔵庫の中に水が入っているからそっちにしてくれるか」
「コップはなんでも使っていいの?」
「ああ、頼む」
東園の声とともにばさっと布団を敷いているような音も聞こえる。
作り付けなのだろう、フローリングと同じ色調の食器棚を見ると凛子の物であろう薄紫のプラスチックコップがあり、それに水を半分ほど注ぎ陽向は凛子の元へ戻った。
「凛子ちゃんお水飲もうか」
頷くけれど身体が動かない。陽向はコップをガラスのテーブルに置いて凛子の身体をそっと起こし自分に寄りかからせた。ちょうど東園が戻り陽向にコップを渡してきた。気が利くじゃんと思いながら凛子の唇にコップをあてゆっくりと傾ける。二口飲んだところで凛子は首を振った。
「凛子、布団に行こうな」
少しだけれど水分が取れて良かった。
東園は凛子を抱き上げ和室に運んだ。真新しいシーツの上に凛子を寝かせると東園は足下に寄せていた掛け布団をそろりと凛子に掛けた。
「あ、冷却シート買ってきたけど使い掛けとかあるかな?」
「いやないよ。ありがとう」
「貼っても大丈夫かな」
東園が頷くのでパウチからシートを取り出し渡した。初めてシートを貼ったのかもしれない、凛子は嫌がり首を振っていたが段々と落ち着いて寝息をたて始めた。
そっと戸袋から襖を引き出し半分を閉めた東園に付いて陽向もリビングへ移動した。
「三田村飯食った?」
「軽く。お腹減った? 何か買ってこようか?」
いつ凛子が起きるかわからない。父親が家にいないと不安になるだろう。
「いや、三田村ここ付近知らないだろう。出前を取ろう」
中華でもいいかと問われ頷く。
東園はスマホを操作しながらキッチン内のカフェにありそうなコーヒーメーカーをセットしている。
「そういえば、凛子ちゃん薬飲んだの?」
「いやまだ。小児科があんなに混むものとは思わなかった」
参ったと首を擦る東園の背を見ながら、一緒に育てていた両親が日本にいないとなれば、東園もだが凛子も不安だろうなと思う。ふわりとコーヒーの香ばしい香りが漂い東園が振り返った。
「凛子ちゃん、起きたらおかゆ食べさせて薬だね」
「そうだな、どうぞ」
コーヒーカップを差し出され受けとる。
「ありがとう」
あ、ブラックコーヒーだ。
陽向はコーヒーをあまり飲まないし飲むときはたっぷりのミルクに蜂蜜を混ぜる。しかしせっかく淹れて貰ったので飲まないわけにはいかない。少しだけのつもりで口を付けたのだが、思ったより苦くない。
「コーヒー苦手なら紅茶もあるよ、先に聞けば良かったな」
首を振ってもう一度口をつけた。うん、美味しいかもしれない。
「あ、いや、別にいいよ。美味しい」
「よかった」
目を細めた東園はふと真顔になり「三田村、東京は長いのか?」と聞いてきた。
「ああ、大学からだよ」
「そうなのか。まさか幼稚園の先生になってるとは思わなかったよ」
東園は手元に目を落とした。意外と睫毛が長いことを知った。
「自分でもびっくりだよ。子供が可愛いなんて思ったことなかったから」
「どうして幼児教育を?」
「家族の勧めだよ。でも今は良かったって思ってるよ、子供可愛いもん。東園はお偉いさん、みたいだね」
東園はえっと目を見開き、そんなことないと首を振った。
「親の会社に入っただけだ。それなりのポジションを与えてもらったから見合う働きをしようと必死だけど実際まだまだだよ」
秘書が付くそれなりのポジションって何かなと思う。一般的な役職を思い浮かべながら陽向はコーヒーカップを持ち直して飲んだ。
「三田村はいい先生なんだろうな。凛子、引っ込み思案というか知らない大人を怖がったりするんだが、昼間もし熱がなかったならすんなり遊べそうだったから」
「いいかどうかは分からないけど」
自分はいい先生だったのかなと振り返ってみる。日々の生活で子供達の色々な反応に納得、驚き、癒される事もあった。
子供達に取ってどうだったのかは分からないが、自分は楽しかった。Ωでなければまだ務めていられた、かもしれない。考えないようにしていても、ふとそうだったらなと思ってしまう。
「どうかしたか?」
いつの間にか俯いていたようで、視界にコーヒーカップを包んだ自分の手があった。急いで顔を上げ、笑って見せる。
「なんでもない。凛子ちゃんの幼稚園を探しているんだよね。うちの園だとちょっと遠くない?」
「通勤途中に行ける範囲ではあるんだが」
東園がついと眉間に皺を寄せた。
「ちなみに迎えが大体午後3時前後だけど、迎えに来られるの? 今はお預かりもあるけど、それでも最終が午後6時だよ」
「そうか」
東園はうぅんと唸った。
さまざまな事情から迎えに来られなくなり、急遽お預かりになる事もよくある。
陽向は会社勤めをしたことがないけれど、保護者と話すなかで仕事を持つ親の苦労を何度となく聞いた。
「三田村がいる園なら安心なんだがな」
そんな風に言ってもらえるほど親しくなかったよね、と突っ込みそうになるがグッとこらえる。子供を通わせる園に同級生がいたら、顔を知ってるだけでも安心に思えるものかもしれない。
「あ、実は今日で退職したからいないよ。なんか、ごめんね」
「え、そうか、……いや、こちらこそすまない」
東園はそうかとまた呟いてコーヒーを飲みはじめた。
理由を聞かれたくない陽向は東園が黙ったのでほっとした。自分の性が少なからず退職に関わっているので、αの東園に説明したくなかった。
αに関わらず、他人に自分の性がΩだとアピールするのは身を危険にさらす行為だ。
まあ、そもそも東園は陽向がΩだと覚えていたようだし、平凡な陽向ではΩであっても気にもならないだろう。
それでも改めて自分がΩで、嫌がらせを受けて退職するんだ、なんてこと話したくない。
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