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「りんちゃん上手だね!」  年長さんになったら毛糸などで飾る節分のお面だが、未就園児の凛子は鬼のお面に色塗りをして持って帰ってきた。  意気揚々と陽向に赤鬼のお面を「おに!」と掲げる凛子に大きく拍手をして受け取った。2月3日、節分の豆を買っておかないと。 「りんこちゃんは色塗り本当に上手よね」  車を停めてリビングに現れた三浦が陽向の手元を覗いた。凛子が誇らしげに胸を張り、三浦が凛子の頭を撫でる。おばあちゃんと孫みたいだなと思う。 「りんちゃんおやつにしようか、その前に手洗いうがいだね」 「さぁさ行きましょうね」  三浦が凛子を連れて手を洗いに行っているあいだに、おやつの蜜柑ゼリーを小皿に出す。  二階で着替えを済ませた凛子が三浦とともにリビングへやってきた。 「りんちゃん、幼稚園楽しかった?」 「うん」 「そうか」  元気な返事にこちらまで嬉しくなる。 「そういえば陽向さん、病院はどうでした?」 「あ、今飲んでいる薬がちゃんと効いてくれているので、このまま続けることになりました」 「あらあ、良かったですねえ」  蜜柑ゼリーを食べる凛子の手伝いをしながら、三浦に答える。  陽向は午前中に定期検診を受けてきた。  薬が効かず発情してからまるひと月経ち、今のところ体調は安定しているので、抑制剤は今使っている種類を継続し経過観察だ。  小森は何かあったらすぐ受診してと言われたが、陽向はやはりあれは突発的で一過性の出来事でもう無いのではないかと思っている。  このあいだは前の発情期から一ヶ月という短期で来たが今回は一ヶ月を超えた、周期も戻ったようだ。 「皆さんにご迷惑をおかけしたので。とりあえず、良かったです」 「迷惑だなんてそんな。なにかあったら力になりますから」 「ありがとうございます」  キッチンの三浦に頭を下げる。本当に陽向は周りに恵まれているなと思う。 「あ、りんちゃん。おごちそうさま? お顔拭かないと」  凛子は蜜柑ゼリーを半分ほど食べ、子供用の椅子から自力で降り始めている。  さっき幼稚園から戻ったばかりなのに本当に凛子は元気だ。  後を追って凛子の首から食事用エプロンを外し、隙を見て顔を拭く。  陽向の手から逃れた凛子は小さい動物の人形が入ったおもちゃ箱を引っ張り出している。  さあ、お人形遊びの始まりだ。  小さな手が小さなお人形を並べてゆくのを隣で眺める。  穏やかな時間だなと思う。  実際、一ヶ月経つまで不安で不安で仕方なかった。  もちろん、発情も苦しかったけど、今までの自分が変化してしまう恐ろしさも胸に重くのし掛かっていた。  しかし一ヶ月を越えた今、霧が晴れてきた気分だ。  よかった、自分が帰ってきた。 「ひーたんこっちね」  凛子からウサギのお父さん人形と猫のお姉さん人形を渡された。  今日はどんなドラマを始めるのだろうか。  また幼稚園にお迎えに行くお父さんと幼稚園の先生かなと思いながら凛子の話に耳を済ませた。  目覚ましより先に目が覚めた。  普段よりあっさり覚醒しているから、今日は調子が良さそうだと思う。  不調がなくても冬の朝は布団から這い出るのが難しい。  寒くて仕方ないのに布団に未練を感じないのは、気力がみなぎっているからだろう。  体力が有り余っているのかも、と思う。幼稚園で働いている頃より運動量は確実に減っている。  三浦が来たら、ランニングでもしようかなと考えながら着替えを済ませ一階へ降りた陽向はカーテンを開きエアコンを就寝モードから在宅モードへ切り替える。  コーヒーメーカーをセットして細かく刻んだ茹で済みニンジンとブロッコリーの入ったスクランブルエッグと凛子用に小さく切ったソーセージと大人用のソーセージを用意する。  凛子は今日、小さいおにぎりにしよう。   ラップに塩、ご飯、焼鮭を乗せてきゅっと縛る。そろそろ二人が降りてくる頃、だけど気配がない。  凛子の部屋に行ってみるとベッドに寝転がっている東園の背が見えた。 「おはよ」 「ああ、おはよう。そろそろ起こすかな」  東園の背後から覗き込むと案の定凛子がぐっすり眠っていた。  起こすのが忍びなかったんだろう。  分かるなあ、可愛いから、とにまにましてしまう。  身体を起こそうとした東園の邪魔になりそうだったので、陽向は咄嗟に身体をのけぞらせた。しかし思ったよりそのスピードが速く危うくぶつかるところだった。  至近距離で目が合いその瞬間、陽向の中でパチンとスイッチの切り替わるような感触があった。 「あ、ごめん」   東園に謝られ陽向は我に返り、同じように謝った。  優しめに起こしたのだが、まだ寝ていたかったのだろう凛子は大泣きし、東園が抱き上げる。あやしながら階下に降りてゆく二人の後に続きながら、陽向はさっき感じたなにかの正体を考え、一人首を傾げる。  引き続き身体は軽いし、気力も充実している。なにもおかしなところが無い。  確かにパチンとなにかが弾けたような感覚があったけれど、腹痛や頭痛もないし、勘違いだったのかもしれない。  目の前には泣いている凛子に手こずっている東園。  平日の朝に、ぼやっとしている暇はないのだった。  バタバタと朝食や着替えなどを済ませ、ようやく東園と凛子が家を出られるまでに準備が整った。  「いってきます」  あんなに泣いていたのに、元気に手を振る凛子にほっとしつつ二人を見送った陽向はテレビをつけ、いつものようにちょっと休憩を取る。そしていつもこののんびりした時間にカフェラテと朝食の残りを食べる。  東園はなんとしても朝食は一緒に食べたいと言うが、凛子が幼稚園へ登園する日はどうしたって陽向がちゃんと食べ終える時間は取れないのだ。  いま、目の前に食べ物があるし飲み物も準備した、だけど食べる気にならない。  なにか、心がそわそわして、身体を動かしたい気がする。  居ても立ってもいられなくて陽向はバタバタと二階へ上がり凛子と自分の部屋を整え、空気の入れ換えをした。  それでもまだご飯を食べられるほど動けていない気がする。  陽向は下に降りて洗濯機を回そうと脱衣所に入った。  洗濯籠から洗濯物を洗濯機に入れようと屈んだとき、ふとその隣のクリーニングバッグが目にとまった。  なに、と思うこともなくその中に手を突っ込んだ。中に入っているのは東園のカッターシャツ、それだけだ。  中身を引き出した陽向は引き出した二枚の使用済みシャツを抱えて顔を近づける。大きく息を吸い込むと身体の芯がぐにゃりと曲がってしまう感覚を覚えた。  二枚のシャツを抱え陽向は立ち上がる。   さっきまで気力は充実、身体も異様に元気だったのにも関わらず、一歩足を出すと力が上手く入らずよろけてしまった。  壁により掛かった陽向はよろよろしながら二階に上がり、今まで入ったことのない東園の部屋を開いた。 陽向の部屋の倍ほどある広々とした部屋にダブルベッドより大きい、キングサイズと思われるベッドがどんと置いてある。  目的がそこなので陽向の目はそれしか拾わない。手元のシャツを顔に押しつけながらまっすぐベッドに進み少し乱れた布団を剥がし真ん中に座り込んだ。  顔にシャツを押しつけたままベッドに寝そべり、シャツから顔を離すと今度はシーツの匂いを嗅いだ。  ああこれこれ、この匂い。  頭がぼんやりするほどいい匂いだ。  抱えたシャツと、ベッドから漂う匂いに包まれてしばらくぼうっとしていた陽向は肩が冷たくなってきて足下に寄せた布団を引き上げた。  布団にくるまると最高に心地よく、陽向は気持ちよさに目を閉じた。

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