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⑱
遠くで自分を呼ぶ声がする。
女の人の声、これは三浦だ。
あれ、二度寝しちゃったのかな、陽向は慌てて起き上がった。それと同時に「ええ、まさか誘拐じゃ、」といいながら三浦が部屋の扉を開いた。
「あ、ごめんなさい、二度寝しちゃった」
「え」
ノブを握ったまま、三浦が目を瞬かせている。
今日何をどこまでしていたか思い出せない。早くベッドから抜け出して仕事しなきゃいけないのに、身体が動こうとしない。
それどころか早く布団の中に戻りたくて堪らない。掴んだ布を引き上げ胸に抱える。
「陽向さんそれって、」
「え、……え、えこれなに、」
三浦が指すので手元を見ると自分が握っているものが布団ではなくカッターシャツで驚く。
しかも使用済みだ。
さっと血の気が引いておそるおそる三浦を見ると、三浦は口を大きく開けたまま陽向とカッターシャツ交互に見て「あ」と声を上げた。
「陽向さん、今日はそこでゆっくり休んで下さいね。もしなにか食べたくなったら教えて下さい、持ってきますので」
「え、えええ、いや、休まなくても」
「大丈夫ですよ、こっちのことは。とにかくゆっくり、ゴロゴロしてて下さいね」
「え、や、」
待って、と言い終わらぬ間に三浦は扉を閉めた。
すぐ追いかけなくちゃ、朝からなにもしていないかも……と思うのに身体は一向に動く気配がない。
座ったまま、三浦に申し訳ないと思いながら手元のカッターシャツを見る。
本当に、なんでこれ持っているんだろう。
使用済みって。
他人の使った後のカッターシャツなんて触りたいと思ったこともないのに。
しかも扉までの距離が遠い、ここは陽向の部屋じゃない。
陽向の部屋じゃなく、もちろん凛子の部屋じゃない、カーテンの色が違う。
となるとこの家であとベッドがあるだろう部屋は東園の部屋だけだ。
掃除しなくていいと言われていたので、一度も入ったことのない部屋だ。
絶対怒られる。
勝手に部屋へ入った上に陽向はベッドにいる。
いろいろ絶望的状況なのにそれでも、陽向はここから動けない。
なんなのこれ。どうしたの自分。
顔を手で覆うとそこからふんわりといい香りが立ち上ぼりはっとした。
カッターシャツを掴み顔に押しつける。
肺いっぱいにシャツの匂いを吸い込むと身体の力が抜け思考がさらに滲んでゆく。
この匂いがもっと欲しい。無性に欲しい。
陽向はゆっくりベッドから離れ部屋を見回す。
部屋の端にウォーキングクローゼットを見つけ、そこに掛かっている服を片っ端から引き抜きベッドへ運んだ。
それを全部ベッドの中に入れて陽向はその中心に寝転がる。
上から布団をかぶれば完璧だ。
陽向の最高に心地よい城ができあがった。
いい匂いと体温で徐々に温まる布団の中はただただ天国だと感じた。
頭を撫でられたような気がする。
お腹もすいているような気がする。
どうにかしなきゃいけない気もするが、ここにいることの方が重要に感じる。
目を閉じたまま身体の向きを変える。どちらを向いてもいい匂いに囲まれていて、陽向は幸せだなと思う。
「陽向」
天国の向こうから話しかけられている。
そろっと布団から顔を出すと東園がベッドに座って陽向の方を見ていた。
「陽向、気分は悪くないか?」
髪をそろっとよけて、東園が陽向の額を撫でる。
その手を握って匂いを嗅ぐ。あ、これ、本物だと思う。
「すごい匂いだな。それに……、これは、また」
東園を見ると背広はなく、ネクタイを緩め襟元を少し開いている。
あれ、仕事終わりかな、もうそんな時間かとうっすら思う。にじり寄って手の甲から肩、首に顔を近づける。
ああ、天国より濃い匂い。めいいっぱい吸い込む陽向の背に掛かった布団を東園がめくった。
「おお、すごいな」
ふうと息をつく東園に乗り上げ首の後ろに鼻を押しつけた。
そうしたい欲望にあらがえない。
東園が無抵抗なのをいいことに陽向は巻き付き存分に吸い込む。東園の匂い、αの匂い。
どうしてこうこってりした甘ったるい匂いなんだろう。そしてどうしていつもこう身体の奥底に溜まっていくような重い匂いなんだろう。
もっといっぱい欲しい。
どんどん溜まってすべてを溶かして、陽向の身体をぐちゃぐちゃにして欲しいと思う。
「陽向、ちょっと離れようか」
「え、いやだ」
両肩を掴まれ引き剥がされる。体格の違う東園が本気で離そうと思ったら簡単だ。
離れても興奮で上がった息はそのままだし、もうとっくに身体の奥が熱い。
自分は発情してしまったようだ。
思考が滲み、もう目の前のαに縋り付くしか思いつかない。
身体全部がαを欲している。陽向はこれを我慢することがどんなに辛いか、もう知ってしまっていた。
もう一度あの匂いを味わいたくてじわじわ近づくけれど、東園もじわじわ離れていくから埋まらない。
「陽向、……病院行こうか」
「や、いやだ、病院はいい」
「しかしな、」
「お、お願いだから、馨が、ちょっとだけ、でいいから」
欲しくて欲しくて堪らない、身体がグズグズでもう。
これからこの熱が引いていくまで、何日も何日も我慢できない。
でも、目の前の東園はなんの感情も浮かんでいない瞳で陽向を見ている。酷く冷静な面持ちでゆっくりと横に首を振った。
「が、我慢するの、きつい、ほんとにきつい、から、今日だけでいいから、お、おねが」
「駄目だ」
ぴしゃりと突き放され、視界が滲む。
「た、たのむから、」
冷たい目がただ見ている。
その温度のない視線がどんなに頼んでも駄目だと陽向に伝えているようで悲しい。
「……もし俺が、ちょっとだけ、今日だけって陽向を抱いたら、陽向は絶対に後悔する」
「しっ、しない、しないから」
下目蓋にかろうじて引っかかっていた涙がほろりと落ちる。
「発情期が終わったら、きっと俺に抱かれたことを後悔する。このあいだは近づくのも嫌がっていたじゃないか」
「だって、で、でも、」
「陽向」
東園が頬を撫でる。近づいた手から漂う香りにまた脳が溶ける。
「ふっ、はぁ、」
「可哀想だけど、駄目だ。陽向がこうやってちゃんと俺の顔を見て、話をしてくれるなんて、昔じゃ考えられないことだっただろ。今を捨てたくない」
「んっ、も、もうっ、か、からだがっ、た、すけて、」
隙を突いて陽向は東園に巻き付いて絶対離されないようにぎゅっと力を入れた。
この匂いに包まれ楽になれたらどんなにいいかと思う。
身体中全部東園で埋めて貰いたいのに、当の東園は陽向の頭上で大きなため息を落とした。
「前みたいに、陽向に嫌われたくないんだ。陽向はきっと、発情期が終わったら男に抱かれたくなかったと思うよ。そして俺を恨む。それだけは絶対に避けたい」
「は、そんなっ、そんなことない、ない、……ない、から」 「陽向が理性的なときにそうしていいと決めたならまだしも、今は駄目だ。病院へ行こう、俺と離れていた方が良さそうだから、連れてはいけないな。また救急車を呼ぶか」
「いやだっ、ん、いやだぁっ、ふ、」
力一杯抱きついていたのに簡単に身体を離され東園はベッドから立ち上がりスマホを取り出した。
ぼたぼたと零れた涙が布団にシミを作る。
こんなに苦しいのに、こんなに頼んでいるのに、なんて酷い人間なんだと思う。
最低、人間のくず、ばかばか、ぼろぼろ涙をこぼしながら思いつく言葉で頭の中で詰る。たくさん詰っているのに、ひとつも言葉にならない。
陽向の口からは鼻に掛かった喘ぎがこぼれるばかりだ。
「ん、は、ふう、んっ、」
「もうすぐ救急車が到着するから、しばらく横になってろ」
「うう、あ、あ、」
こんな人でなしとはもう口もききたくない。
陽向は布団の中へ帰った。
でもさっきまで天国だったそこは、陽向の欲求を満たしてはくれない。
苦しさが喉までせり上がってきて今すぐ吐いてしまいそうになる。でもどうしようもない。東園のシャツを顔に押し当て我慢するほか道がなかった。
しばらくして病院職員が到着したが、陽向は体内をずきんずきんと音を立てて暴れ回る性欲を堪えられず、前をいじり下着も汚れた状態で泣きじゃくっていた。
最悪な状態にもかかわらず、こんな状況になれているのか病院職員は顔色一つ変えず、「これは置いていきましょう」と陽向が握っていたシャツを取り上げる。
これがあるから、ギリギリのところで意識を保てていたのにそれまで取り上げられるのか、と陽向は何度も首を振って離さないと伝えた。
しかしなんの力も入っていない陽向からそれを取り上げるのは簡単で、すっと手元から引き抜かれた。
ぎゃっと叫んだあと、陽向の意識はぷつりと途切れてしまった。
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