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 凛子のピザに、智紀の作ったサラダやスープ、フライドチキンが並ぶ昼食が終わると、凛子は早速遊びはじめた。  入園祝いに陽向が渡したピンクのウィンドブレーカーがとても気に入ったらしく、凛子は着てみる、と袖を通したあと頑なに脱がないのでそのままだ。  最初の遊びは、陽向に「お部屋」の紹介する、だった。  凛子に引っ張られながら、いいのかなと智紀に目を向けた。  他所様のお宅で部屋を見回るなんて、陽向は覗きのようで心配になったのだが、智紀は笑ってうんうんと頷くだけだった。  凛子に案内され陽向は凛子の部屋、続いて隣の物置部屋に入った。  凛子は色々なものを、例えば新しいぬいぐるみ、昔ママが作ったパズル、など、たくさんの大事なものを陽向に紹介してくれた。  ただ、凛子の入っていい「お部屋」は限られているようで、「ここは知らないお部屋」、「ここはじいじの大事なお部屋」と入ってはいけない部屋はちゃんとスルーしていたので、陽向は胸を撫で下ろした。  ただ、次に見せてくれた風呂の広さには驚いた。  四、五人は一緒に入れそうだ。  ジャグジー風呂だろうか、浴槽にシルバーの穴が見えた。清掃が行き届いた浴室の隅に凛子のおもちゃが纏められていてきっと風呂も楽しんでいるのだろうと想像できた。  「お部屋」探検のあとはお庭紹介を予定していたらしく、凛子はまたも陽向の手を引いて外に出ようとする。 「凛子、一人は駄目よ。私も行くわ」 「ままも?」  凛子はなぜか陽向を見上げた。  陽向が凛子と二人でお庭探検を楽しみたいと思っている、と考えているのだろうか。  凛子に微笑んで陽向はちらりとリビングを見る。誠二郎と東園はダイニングで書類を見ながら話をしている。智紀も誠二郎の隣で話を聞いているようだ。 「いいね。ママも一緒に三人でお庭探検しようか」 「うん」  元気に返事をした凛子は玄関の框部分に腰掛け自分で靴をはき始め、陽向と絢子は凛子の後から靴を履いた。  屋敷も木々に囲まれていたが裏は芝に飛び石が点々と敷かれ、所々に草花が咲き乱れていた。  凛子はどこになにが咲いているか分かっているらしく、先に走ってはしゃがみ込み、陽向を手招きして花の名前を教えてくれた。 「りんちゃん、お花よく覚えていますね」 「毎日ここをお散歩して眺めていますから」  凛子の後を着いていきながら絢子がのんびりした口調で言う。  セーターにロングスカートの絢子は顔色も、口調も別段不安に思うところがない。  育児に疲れ、目に生気のない母親を見る場面も今まで多々あったが、絢子はやはり落ち着いて見える。  強い風が吹き、庭の木々が揺れる。  見上げると上空に雲がかかっている。  今し方日光が木々の影を作っていたのに、気が付けばもうない。朝のニュースは当たっていたようだ。 「凛子がよくあなたの話をするんですよ。折り紙もお絵かきもとても上手いって」 「幼稚園の先生だったので、描き慣れているだけです」  そういえば折り紙を作ってあげるとよく凛子が上手ねえ、と独特のイントネーションで言われていたことを思い出す。くすっと笑った陽向に絢子が聞いた。 「馨はあなたによくしてくれてる?」 「……え、ええ、まあ」 「そう。よかった」  よくしてくれている、のは嘘じゃないと思う。シッターの仕事はお休み中だけど、追い出しはしないし。 「その、絢子さんがお元気そうで本当によかったです」 「ありがとう。……子どもを育てるって本当に、大変よね」  陽向は小さく頷く。自分に育児の経験はないけれど、見るからに疲れ果てているお母さんとは接したことがある。  育てやすさというものは個人差が大きく、実際、休息が思うように取れないと呟く母親は多かった。 「私、小さい頃から人よりなんでも出来たの。挫折なんてなかったのよね。でも赤ちゃんは思い通りにならないし、出産で身体は消耗している。両親は休めって言うけど可愛いからひとときも離れたくなくて。今考えると自分で自分を追い詰めていたのよね」 「そうだったんですね」 「そんなとき義実家からいろいろと言われて、破裂しちゃったんだけど……。母達やあなたのおかげで一度自分を空っぽに出来たから、もう本当に大丈夫」  陽向を見た絢子は柔らかな笑みを浮かべた。 「当分ここで子育てするつもりだから、もしかしたら陽向君にもお手伝いしてもらうことがあるかも。その時はお願いできるかな?」 「もちろんです。僕に出来ることならなんでも協力します」  随分先でしゃがみ込んでいる凛子に向かって歩きながら陽向は大きく頷く。  凛子の父親とはどうなったのだろうかと思ったが陽向は口を開かなかった。絢子は大丈夫といったが、心は見ることが出来ない。穏やかな環境で、今、絢子は娘と暮らせるところまできた。心の平穏はゆっくりと築かれるべきだ。 「ありがとう。陽向君は本当に優しいのね、それに可愛らしい。さすが私から三年弟を取り上げただけはあるわ」 「え?」   いたずらっぽく笑った絢子の髪にぽつぽつと雨が当たった。  陽向の顔にも雨粒が落ちてきた。 「凛子、おうちに入ろう。雨が降ってきたから」  絢子の呼び掛けに気付いた凛子が向こうから駆けてくる。  見上げると厚い雲が上空を覆っていた。   「りんちゃんごめんね。いってきます」 「ひーたん、ばいばい」 「気をつけてね。陽向君」 「ありがとうございます。りんちゃん今度また遊ぼうね」  東園本宅へ伺ってから一週間ほど経った今朝、 絢子から陽向に連絡があった。  なんでも今日は土曜日に参観があった振り替えでお休みとのこと、幼稚園だと思っていた凛子はひとしきり落ち込んだあと、急にひーたんと遊びたいと駄々をこね始めたらしい。  あいにく陽向は午後から健診が入っているが、三浦と庭に花が増えたから凛子に見せたいねと話していたので受診の話をした上で遊びに誘ったのだ。  絢子と凛子を迎え、午前中はめいいっぱい遊んだ。  そのままにしていた凛子の部屋を絢子に紹介したり、庭に出て花と蝶、アブラムシを食べに来たてんとう虫を観察したりと動き回り、お昼は三浦手作りのハンバーガーをみんなで食べた。  絢子と二人で話す時間があったら、この間言っていた「弟を取り上げた」とはどういう事か、陽向は聞こうと思っていた。  しかし、常に凛子がひーたんひーたんと呼んでくれるので、二人で話せる時間は結局、持てなかった。  凛子がここを離れ、それでも三浦がいてくれたから寂しく感じる事もなかった陽向だが、こうして凛子を迎えると、同じ家とは思えないほど笑いが絶えず家全体が明るくなったように感じる。  そうこうしているうちに、陽向は受診の為に家を出る時間になってしまった。名残惜しかったが予定変更が難しい病院に通っているので仕方がない。  病院までは三浦が送迎の予定だったが、急遽陽向はタクシーで向かうことになった。公共交通機関で十分行けるのだが、東園が心配するからタクシーにしてほしいと三浦が言うので渋々従うことにした。

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