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⑥
相変わらず一般受付は混み合っているようで、広い待合スペースの椅子はポツポツとしか空いていない。皆手元のスマホを見るか、受付上にある電光掲示板を見上げ自分の番号を呼び出されるのを待っている。高齢者に幼児、様々な人の中で、陽向も四人掛けの待合椅子に座った。渋滞込みの出発時間にしてしまったから、予約時間より三十分も早く着いてしまった。
ぼんやり受付の様子を眺める。
まず最初に解決しなければならない問題は、自分の発情期だ。
適合する薬を早急に見つけ、以前のように相手がいなくてものりきれるようにならないといけない。
東園との関係は、ずっとある。近づかれると、身体が反応してしまうし、気持ちも傾く。
もし、今度の薬が効いて、発情期に相手をして貰う必要がなくなれば、そのあと陽向はどうするつもりなんだろう。
東園には恋人がいる、かもしれない。それを陽向はずっと聞けないでいる。
自分はこんなに意気地なしだっただろうか。
いいじゃないか、別に恋人がいても、自分たちは交際をしているわけではない。
東園は陽向を裏切ったわけではない。嘘をつかれていたら、きっと悲しい。
ただ、嘘すらつく必要のない関係と考えると、これは、かなりむなしいことだと感じる。
もしかしたら陽向は大きな間違いを犯したのかもしれない。
生物としてつがいとなるのが望ましい相性であっても、心が繋がっていないのに身体だけなんて、どんなに苦しくてもしてはいけないことだったのではないか。
あのときは身体が本当に辛くてどうしようもなかったけれど、今度は内臓が冷凍庫に入れられたみたいに寒い。
ぴぴとスマホが鳴り、陽向はびくりと震えた。
慌ててカバンから取り出し見ると、予定に入れていた検診の時間になっていた。
陽向はゆっくり立ち上がるとΩ病棟へ歩き始めた。
「そうですか、今回も薬は効かなかったと」
小森がカルテに目を向け「うーん」と唸る。
「他の薬を試したいです。なんとか効くものを見つけないと」
「そうですね。前回は……こちらにはいらしてないですね」
目の前に座る小森がカルテから顔を上げ眼鏡の奥から陽向を見る。
黒い瞳がまっすぐこちらを見るので陽向はうろうろと視線をさまよわせた。
「あ、それは、はい。その、大丈夫でした、なんとか」
恥ずかしくて性交をして落ち着かせたとは言えなかった。相手は医師なのに。
「先生お願いです、強い薬でいいので、次は絶対に効くものを処方してくれませんか」
「……三田村さん、まず身体の様子をもう一度確認しましょうか。今の調子に合わせないといけないので」
小森がカルテに目を落とし、陽向は「はい」と呟いた。
後ろに控えていた看護師が、「じゃあこちらへ」と陽向に経つよう促した。陽向は看護師について診察室を後にした。
再び診察室へ呼ばれ、陽向は荷物を持ってドアを開いた看護師に小さく会釈した。
鉛を飲んだように胸あたりが重い。
どうしよう、合う薬がないと言われたら。
何もかも、小森の診察と処方が最初の一歩だ。
不安なまま小森の前に座った陽向に、小森は開口一番こう告げた。
「三田村さん、妊娠されていますね」
息をのんで着ていたパーカーの端を握る。
そんな、息が止まり血の気が引く。
「う、嘘です、そんな」
パーカーを握る手が震える、そして手のひらが汗で湿る。
た、確かに、確かに子どもが出来るようなことはした、東園と。
でも東園はするとき必ずコンドームを使用している。ちゃんと避妊していたのに、そんな。
顔を上げ小森を見る。カルテを眺める小森にはなんの表情も浮かんでいない。
「そんな、妊娠、しているはずがない、」
「……もし発情期に性的接触があれば妊娠の確率は上がりますよ」
陽向は無意識に口元に手を当てた。震えが止まらない。
発情期の期間中、朝も昼も夜も東園と交じり合っていた。
あのときは普通じゃなくて、記憶に穴がある。その時なのか。
小森が淡々となにか説明しているけれど耳に入ってこない。
身体の中に、この腹の奥に、赤ちゃんがいるっていうのか。
陽向はそろっと手を当てた。
ここにいるのか、東園と陽向の子が。
陽向は両手で顔を覆った。
Ωの検診は一律無料となっているので陽向は支払いを待っているわけではないが、一般病棟の待合椅子に座りしばらく放心していた。
とても帰る気持ちになれない。
いまだに信じられない、というか間違いであって欲しいと思っている自分がいる。
なのにずっと服用していた抑制剤が胎児に影響していないか急に恐ろしくなり、小森に噛みついた。大丈夫といって貰ってようやく落ち着いたがこれからは摂取するものに気をつけなくちゃと思っている。
陽向は自分でも分かるほど混乱している。
五つ並んだ会計窓口に、次々に立つ人々を眺めながら、どの人も母親から生まれてきたんだとぼんやり考える。
たくさんの人間が生まれているんだなと思う。
眺めていると一番端の会計窓口で幼児を連れた若い女性が会計に苦労している。子供はうろうろしたくて堪らないのだ。母親は幼児を抱き上げ、なにか子どもの耳元で囁くと子どもはキャッと笑い声を上げた。
涙が視界を覆った。え、と思う。流れ落ちるほどではなくて良かった。
手の甲で拭いながら、自分はどうして泣きそうになっているのか分からない。
はあと大きく息をついたとき、陽向のスマホがピピと鳴った。
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