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第1話
しとしと、と雨が降っている。
台風の季節はとうに過ぎたというのに、気候はいつまでもたっても落ち着かず、気がついたらアスファルトが濃い灰色に染まっていた。落ちたイチョウの葉が通行人の足下で踏みつぶされ、湿った空気の中、ぷんと青い臭いが混ざる。
大通りに並ぶショーウィンドウにはハロウィンの飾りが溢れ、ジャック・オ・ランタンが至るところで小バカにしたような半笑いを浮かべている。あと少しもすれば、このオレンジと黒の組み合わせは、赤と緑——クリスマスの彩りに変化するだろう。
松本 崇 は、ぎゅっと右手に持ったアルミ製の一本杖を握った。そして細心の注意を払いながら、濡れた地面を一歩ずつ歩く。
クリスマス。それは、彼にとって一年の中で最も辛く、惨めな季節だった。六年前──十八歳のあの時から。
「契約取れました」
書類一式を手渡すと、デスクに座った上司が小さな目を丸くした。
「まさか、冗談だろう」と、その顔には書いてあった。が、すぐに遠慮がちな愛想笑いに取って代わる。
「ごくろう様。よくとれたな。あそこの工場の社長は、気むずかしくて有名なのに。うちもこれまで何度、門前払いをくらったことか」
「根気良く説明をしたらご理解していただけました」
「そ、そうか。なら良かった」
上司は真向かいの時計をちらりと見た。
「今日はもう帰っていいぞ。前に、雨の日は足が痛むと言っていただろう」
「……では、お言葉に甘えて、失礼します」
崇は軽くお辞儀をすると、荷物を取りに自分のデスクへ向かった。カツンカツンと杖をつく音が、小規模なフロアに大きく響く。同僚たちの視線を一身に背に感じながら、崇はオフィスを出た。
「どうせ同情でしょう」
忘れ物に気づいてオフィスに戻ろうとした崇の耳に、同期の男の声が中から聞こえてきた。
「あそこの社長も、さすがに障害者に怒鳴り散らすのは良心がとがめたんじゃないですか」
「またそれ?」
答えたのは、崇の隣のデスクの女性だった。
「そうだとしても契約を取れたのは松本君の実力よ。まったく負け惜しみもいいところね。彼が君より成績がいいからって」
「べ、別にそんなんじゃないですよ! それに成績だって俺の方がいいし──いいですし!」
「それは、松本君が足のせいで近くの営業先しか回れないからでしょ? それがなければ、あんたなんかとっくの昔に越されていたわよ」
「ちょ、先輩はどっちの味方なんですか!? あいつの顔が少しいいからって」
「まぁまぁ」
と、上司がヒートアップしそうな二人を制する。
「確かに、松本君の成績は申し分ない。内容だけでいったらトップだろう。雇った時はまったく期待していなかったんだけど。免許もないし、あの足だから出張にいくこともできないし……」
「そういえば、障害者枠で雇ったんですか?」
同期が好奇心丸出しで聞く。
「いや、障害者雇用は六級からで、彼は七級だから。だからこそ、僕もどう扱っていいか困っているんだよね。普通の従業員として扱うか、それとも特待として扱うか。今のところみんなの補佐に回ってもらっているけど」
「でも、それって自業自得ですよね?」
もう一人──崇より二つ上の先輩が割って入ってくる。
「俺の大学の友達が松本さんと同じ市の出身なんですけど、地元ではあの人、結構、有名人らしいですよ」
「有名? 何で?」と女性先輩。
「何でも、高校三年の免許取り立ての時に飲酒運転してどっかの店につっこんだって。幸い深夜で店は営業していなかったから被害者はでなかったらしいんですけど、一緒に乗っていた二人の仲間は両方とも亡くなったって」
「えっ、嘘。彼って、不良 タイプだったの? クールでとっつきにくいけど、真面目な人だと思っていたのに。ちょっと幻滅……」
「ほおら、やっぱり。見た目で判断するもんじゃないってことですよ。未成年で飲酒運転って、下手したら刑務所行きですよ。若気の至りっつったって限度があるでしょ──ですよね」
残りの言葉を聞く前に、崇はくるりとオフィスから背を向けた。
強いて言うなら、今の話にはいくつか訂正点がある。
免許取り立てで運転したのは崇の同級生だし、酒を飲んでいたのも彼と、彼の元先輩で当時、工場に勤めていた少年だ。それに一緒に乗っていたのも、二人だけではなく、もう一人──……。
(………いや。そんなこと、どうでもいいことだ。)
いくら小さな事実を上げ連ねたところで、一番大きな事実は変わらない。
クリスマスをあと数日に控えた、ある冬の寒い夜、崇たちが乗った車が飲酒運転で建物につっこみ、二人が死んだという事実は。
※
「移転ですか?」
上司の言葉を、思わず繰り返してしまった。上司はこくりと頷き、デスクの前で手を組む。
「そうなんだ。今度、このオフィスビルが耐震強度の問題で建て直されることになってね。いい機会だから、今よりももう少し広いオフィスに移転することになったんだ。て言ってもここから二駅先の距離だけど。それで君に移転業務をお願いしたいんだよ。みんな今は抱えている仕事が多くて、手が回らない状況でね。君も営業先を回らなくていいから、身体に負担もかからないだろうし」
「ですが、移転業務なんて経験がなくて……」
「大丈夫。仲介してくれる建設業者が施工も工事も内装デザインもまとめて指揮をとってくれているから。君はとどこおりなく工事が進んでいるか見てもらって、何か問題があったら、先方と話して、それをこちらに伝える橋渡し役をして欲しいんだ」
「わかりました。それなら……」
「じゃ、さっそく先方に挨拶に行ってきてくれないかな。今日から施工が始まるから、仲介業者の担当さんも来ているだろうし」
駅を降りて、上司に渡された地図通りに仮オフィスがあるビルへと向かう。
空は黒々としていて、夕方なのに夜のような暗さだった。雨は降っていないが、湿気が枷のように右膝にかかる。
事故以来、崇は車に乗ったことが一度もない。会社に行くのにも毎日徒歩。雨の日も風の日も。以前は電車も使っていたが、満員電車に足が耐えきれなくなって止めた。かろうじてバスなら乗れるので、遠い距離の場合はそれを利用している。
実のところ、今の食品卸を扱う小さな会社に決めたのも、住んでいるアパートと通っている病院から近いという、ただそれだけの理由だった。
(移転業務、か……)
この前の同僚たちの会話が、この決定にどう影響しているかはわからない。が、知りたくもないし、どうでもいいことだ。
現在の会社に勤め出して三年。未だ同僚というよりは、お客様扱いされていることは知っている。
もちろん足のせいもあるし、崇自身、飲みに誘われても「リハビリがあるから」とか「痛み止めを飲んでいるから」と一貫して断り続けているせいもあるだろう。全てが嘘という訳ではないが、極力、他人と親しく付き合うのは避けていた。
なぜって、もうごめんなのだからだ。誰かに深く入れ込んで、あんなことになるのは。
仮ビルは、大通りの一角にあった。二階の窓にはブルーシートがかけられ、ギュイインと電気ドリルの音が通りにまで響いている。一瞬、びくりと身体が強ばる。大きな音はいまだに、どうしても苦手なのだ。
心臓を落ち着かせようと深呼吸をしていると、向かいのファッションビルから、ビートルズの『HELLO GOODBYE』のメロディがかすかに聞こえてきた。
You say yes, I say no,
You say stop and I say go go go.
Oh no
You say goodbye and I say hello,
Hello, hello.
I don't know why you say goodbye,
I say hello, hello, hello.
I don't know why you say goodbye,
I say hello.
軽快なメロディを聞きながら、一階店舗のコインランドリー横にある階段を登る。エレベーターを使おうにも、修理中の紙が貼ってあったため諦めた。
「……はぁっ」
痛み出した足をかばいながら、狭い階段を上がる。
靱帯断絶と、膝の再建。地獄のような手術の連続と根気のいるリハビリを乗り越え、今では杖があればほとんどの日常の生活は送れるようになった。だが時折──まさに今だが──天候の不安定な時に、しくしくと思い出したように痛み出すのだ。
「……ッ」
階段を一段一段上がる度、右足の痛みは増していく。——まるで不吉の予兆みたいに。
そんなバカなことを思った自分に乾いた笑みが出た。
「すみません。依頼している●●社の者ですが、責任者の方はいらっしゃいますか?」
ドアの近くで雑用をしている若い職人に声をかけると、
「こっちだ、こっち」
と、どこからか野太い声がかかった。
フロアの奥から肩にタオルを巻き、黄色いヘルメットをかぶった男がのしのしとやってくる。五十代くらいだろうか。低い背にがっちりとした体格、真っ黒く焼けた肌。いかにも頭領という出で立ちだ。
崇はグッと杖に体重をかけながら、片手を差し出した。
「こんな格好で失礼します。移転業務担当の松本です。前もって仲介業者さんの方にはプランは渡してあるようなのですが、もし何か不明な点や、必要なことがあれば、何でもご相談ください」
「丁寧にどうも。施工責任者の青柳 だ。今のところは床と壁の張り替えだけだから順調にいっているよ。あとで配線のことに関して確認してもらいたいところがあるんだが……おっと、これはあちらさんの仕事か。お~いっ! ちょっと来てくれっ!」
青柳は、窓際で設計図を囲んで話しているスタッフに声をかけた。そのうちの一人が気づいて、手を上げる。彼は周りのスタッフたちと一言二言交わすと、設計図を見ながら崇たちの方へ向かって歩いてきた。
伏せられていて、男の顔はわからなかった。ただ背は、他のスタッフたちと比べても頭一つ分ほど高い。足取りは力強く自信に満ちていて、灰色の作業着ごしからでもわかる引き締まった身体つきをしていた。
ズキンズキン。男が一歩一歩近づいてくる度、崇の右足が何かを訴えるようにさらに痛み出した。耳元で鳴り響くドクリドクリという鼓動が、痛みによるものなのか、それとも心臓の音なのかわからなかった。
「……小原 、上総 ……?」
気がついたら、崇は呟いていた。自分が声を発したことすら、気づかないほどかさかさに乾いた声だった。
その声に相手の男が、はっと顔を上げる。瞬間、ヘルメットに隠れていた端正な顔立ちが、剥き出しの窓から入ってくる秋の日差しに照らされた。
彼は笑っていた。高校の時と同じ甘い、とろけるような笑顔で。それは何年もの間、崇がずっと待ちこがれてきたものだった。
ふっと太陽が雲に隠れる。すると、すべてが一変していた。
目の前に立っていたのは、まるで別人のような硬い、厳しい表情をした男だった。
頬は引き締まり、短い髪が鋭い輪郭を囲んでいる。切れ長の目の下には、疲労の影が浮かび、口元は一本にきつく結ばれていた。
高校時代のひょろりと細長い、穏やかに笑う少年とは似ても似つかない。どうやら先ほどの笑顔は、秋の光が一瞬だけ見せた幻影だったらしい。
「……崇……松本、崇……?」
男が片手でちらりとヘルメットを上げた。
バチリッ。
直に目と目があった瞬間、崇の身体の中で青い炎が散った。近くにあるインジケーターが漏電したのではないかと疑うくらいはっきりと。
この感覚は覚えがある。今までの人生の中で、たった一度だけ。とても特別な──。
「なんだ、小原さん。お前ら知り合いか?」
青柳が、興味深そうに男と崇を交互に見やる。すると、相手ははっと夢から醒めたように数回瞬きをし、のろのろと青柳の方を見た。
「……え、えぇ……高校時代の後輩なんですよ」
崇は、目の前の男をまじまじと見た。
ということは、やはりこの男は本物に小原上総……?
改めて見ると、確かに高校時代の面影が残っていた。意志の強そうな太い眉。どこまでも深い黒い瞳。まったりして低い声。
『大丈夫』
囁かれた、あの時の吐息の温かさまで甦ってきて、崇はぎゅっと目を閉じた。
だめだ、考えるな。怒濤のごとく甦ってきそうになる過去の記憶を、無理矢理、頭の奥底へと押し込める。
「……でも、何でお前がここに……?」
男──小原上総は、ちらりと崇を見、すぐに逸らす。まるで目線を合わせたら石にでも変わってしまう化け物と遭遇してしまったかのように。
ドクドク鼓動していた崇の心臓が、一気に凍えた。
いいだろう。そっちがそのつもりなら。
喉を引き締めると、崇は営業用の笑顔を浮かべる。
「久しぶりです。先輩。今回はうちの会社の移転を引き受けて下さってありがとうございます」
上総は驚いたように顔を上げ、手にもった設計図に視線を落とした。
「お前の会社? ここがか? こんな一フロアしかないような?」
カッと腹の底が熱くなる。
見た目だけじゃない、どうやらしばらく見ないうちに上総はかなり傲慢な性格になったみたいだ。高校の時、その穏やかさと公平さで柔道部の後輩から慕われていた主将とは思えない。
ちらりと相手の胸ポケットを見る。そこには、崇でも聞いたことのある有名なゼネコンの名前が刺繍されていた。ネームプレートには「現場監督」の文字。
失望が身体を浚う。どうして自分は、相手も自分と同じく惨めな生活を送っていると思い込んでいたのだろう?
ぐつぐつと、いい知れぬ怒りが腹の底から湧いてくる。
「それはこっちのセリフですよ、先輩。てっきり今頃、あなたは一級建築士にでもなって悠々とオフィスにいると思っていましたから。まさか、こんな現場で会うとは」
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4/10(日)
新しく連載を始めさせていただきます。更新頻度は動画の再生数が
5の倍数(5,10,15...)になったタイミングで行う予定です(^^)
基本、毎日0:00時点でのPV数で、その日のアップを決めさせていただきます。
◆本作品 あらすじ動画
https://youtu.be/7jZpotIPWwE
〈過去作品〉
以下、過去に連載していた1話/あらすじ動画たちです。
もし再生数が伸びれば、続編を書こうと思っていますので、
興味がある方はよろしくお願いいたします_(._.)_
◆『君がいる光』(幽霊×全盲の青年 )
https://youtu.be/VPFL_vKpAR0
◆『春雪に咲く花』(探偵×不幸体質青年)
https://youtu.be/N2HQCswnUe4
◆『白い檻』(閉鎖病棟BL)
https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ
◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL)
https://youtu.be/L_ejA7vBPxc
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