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第2話
崇の反撃を予想していなかったのか、上総の口元がひくりと痙攣する。鼻柱に皺が寄り、瞳に黒金のような暗い光が灯る。
互いの冷たい視線が絡み合う。どれくらい、そうしていただろう。永遠のようにも一瞬のようにも感じた。
そこへ、二人の不穏な空気には何も気づいていない青柳が入ってきた。ポンポンと気さくに上総の肩を叩く。
「なんだ、知り合いなら話は早いじゃないか。お前、これから配線工事のことについて説明してやってくれないか。先方からもらったプランだと、どうも作業動線が見えてこなくてな」
「ちょ、青柳さんっ……?」
上総は、今にも崖から突き落とされる小ライオンのような表情で青柳を見た。
「いいだろう? 何ならそのまま一杯やってくればいいじゃねえか。色々と積もる話もあるだろう」
崇は心の中で冷笑した。
冗談にもならない。積もる話も何も、上総と話せば絶対に話だけでは済まなくなるのは目に見えている。それ以前に、酒なんてのももっての他だ。
一方の上総は、しばらくうまい断り文句を探すように視線を巡らせていたが、やがてそんなものないと気づいたのか、
「……わかりました」
と、心底気乗りしない様子で頷いた。
「じゃぁ、さっさと終わらせよう。一番近くにある喫茶店でいいだろう」
青柳が去ったあと、上総は裏から上着と財布を持って出てくる。そして崇の方を一瞥することなく通り過ぎると、さっさとフロアから出ていってしまった。
崇はため息をついて、渋々と相手の後を追った。これは仕事なのだ。たとえ世界で一番嫌いな人物と一緒であろうと、我慢しなくてはならない。
「荷物、持った方がいいか?」
階段の降り口にさしかかったところで、前を行く上総が振り返った。その視線が、ちらりと崇の杖にいく。親切というよりは、一応義務感として聞いているだけの気乗りのしない口調だった。
「いや、おかまいなく」
と言うと、上総はあからさまにホッとした様子で、そのまま階段を降りていく。カツンカツンと作業用の保護靴がリノリウムの階段に当たる音だけが、狭い空間に響く。
表通りに出ると、小雨が降っていた。アスファルトから油のような匂いがむわんと立ちこめる。東の空は真っ黒で、近いうちにもう一雨きそうな空模様だった。
「車で行くか?」
上総は、路地の傍らに停めてある車を指さした。社名が書かれた白のSUV。崇は考える間もなく、首を振っていた。
「いや、いい。ちょっと上司に電話をかけなきゃいけないから、先に行っててくれ。場所はわかるから」
上総はわずかに眉を顰めたが、無言で歩いて行ってしまう。行き交う人の中に、その灰色の背中が混じる。
もちろん、上司に連絡など嘘だった。上総と連れだって歩くのが嫌だっただけだ。
というより、誰であれ連れだって歩くのは気が進まない。一歩二歩──どころか五六歩も遅れてしまうし、そのせいで面倒くさがられるならまだしも、同情されるのはもっと嫌だった。特に上総にだけは、絶対に。
定時を過ぎたからか、歩道には帰宅を急ぐ人たちで混み合っていた。頭一つ分背の高い上総が、目の前の横断歩道をすいすいと渡っていくのが見える。
雨でしっとりと濡れた広い肩。天からつるされたようにピンと伸びた背。長くしなやかな手足。細くがっしりとした腰。角を曲がる時に見えた横顔は精悍で、通りがかりのOLが何人か、ちらりと傘を上げるのが見えた。
──大人の男。一体、いつの間に、こんな大人の男になったのだろう。
奥の路地に消えていく背中を見ながら、崇はふと思う。だがすぐに首を振った。
考えてみれば当たり前だ。あれから六年も経ったのだ。自分も上総も変わって当たり前なのだ。
なのに、なぜ置いてけぼりにされたような気分になるのだろう。自分がいつまで経ってもあの時の記憶から逃れられないせいだろうか。
上総と初めて会ったのは、高校二年の時。写真部に所属していた崇は、三年生の卒業アルバムに使う部活動写真を頼まれて体育館を訪れていた。その際、紹介されたのが一個年上の先輩、柔道部の主将である小原上総だった。
初めて彼と目があった瞬間、崇はまるで雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
真っ白な柔道着に黒帯、清潔そうな短髪。柔道をやっているからだろうか、彼の周りには、常に独特の雰囲気──穏やかながらも透徹とした静謐さがあった。
しかし組み合いともなるとそれは一変、温和な表情はすうと消え、ぴんと張られた鉄の糸のような鋭さが生まれる。それまで悠々と飛んでいた鷹が獲物を見つけて突然、急降下していくように。
だが結局、それらも体育館を出てから思い出したことだ。
あの時はただ、言葉にできない何かに引きつけられて、彼から目を離すことができなかった。自分を取り巻く重力が、全て彼に向かっていくような。
挨拶が終ったあとも、カメラのレンズ越しに、彼を目で追うのを止めることはできなかった。それに上総が気づいていたのかはわからないが、写真をとっている時、カメラ越しに彼と何度も目があった。その度、崇の心臓はどくりと高鳴り、全身に痺れるような甘い波が襲った。
以来、廊下ですれ違う度に声をかけ合うようになり、上総が高校を卒業したあとは彼が帰省する度、落ち合っては色んなところに遊びに行くようになった。
あの事故の日までは。
柔らかな雨の中、崇はゆっくりと歩き出した。
今でもよく思うことがある。もしあの夜、都内の大学から帰省した上総が友人の車に乗っていなければ、何かが違ったのではないか。
いや、違う。彼と出会わなければ──彼と出会った瞬間、自分が恋に落ちていなければ……。
「はっきり言うが、お前と仕事以外の話をする気はない」
喫茶店の席につくなり、開口一番に言われたセリフに、崇は特別驚きもしなかった。半ば予想していたことだし、もし言われなければ、自分の方から言うつもりだった。
しかしそんな気持ちとはうらはらに、ずしんと心臓が沈む。なんとか取り繕おうと、クッと口端で微笑んでみせる。
「……というか、仕事以外の話が俺らにあると思っているのか?」
相手はむっと顔をしかめた。
「……お前、変わっていないな。まぁ、いい。さっさと始めよう」
有能な現場監督の顔に戻り、鞄から資料を取り出す。崇はそれを受け取る自分の手が震えないようにするだけで精一杯だった。腹の底で熱いのか冷たいのかわからないうねりが蠢いている。
変わらないとは一体、どういう意味なのか。自分があの時と同じ、感情的で愚かな人間のままであるとでも言いたいのか?
本当に、いけ好かない男になったものだ。
もやもやしたものを抱えながらも、その後の一時間は、とどこおりなく進んだ。お互い仕事の話に終始し、ふいに空いてしまった間はコーヒーを飲んで誤魔化す。
店を出た時、案の定、外は本降りになっていた。軒先のテントから忙しなく雨だれが落ちてくる。
気温はぐんと下がり、今が秋だということを思い出させる冷たく乾いた風が吹いていた。土と金木犀の匂いがどこからか煙のように漂ってきて、水たまりに、街灯や通り過ぎる人たちの姿がくすんで映し出される。
「傘は?」
店先のサンシェードから空を覗き見ながら、上総が聞いてきた。
「持ってる。そっちは?」
聞くまでもなかった。出かける際、相手が財布と携帯しか持ってこなかったことはよく覚えている。
「なんなら……」
と言いそうになって、慌てて言葉を飲み込む。
何を言おうとしているのだ、自分は。代わりに言う言葉を探そうとしていると、上総が店の軒下から一歩出た。雨がすぐさま、その肩を濡らす。
「これくらいなら何とかなる」
上総は作業着の上着を脱ぐと、頭からかぶった。シャンプーだろうか、ふわりと清潔そうな香りが広がる。黒いタンクトップから剥き出しになった腕はしなやかで逞しく、ゆるやかに隆起する背中は広かった。
彼ほどの上背ならば女性──もしかしたら男性でも、すっぽりと抱き締めることができるだろう。
崇はふるふると首を振った。
……本当に、何を考えているのだ、自分は。
上総の見た目がいいことは認めよう。高校の時の繊細そうな魅力とはまた違うが、今でも女性が放っておかないのは確かだ。
だが、それが自分と何の関係がある?
相手の見た目が良かろうが悪かろうが、男だろうが女だろうが、自分にはどうでもいいことだ。自分はもう、誰とも深く付き合わないと決めたのだから。
「…………」
かすれた声が聞こえて、顔を上げた。上総が降りしきる雨の中、じっと崇を見ていた。小麦色の頬から顎をつたって、ポタポタと雫が垂れている。再会して、初めてまともに目が合った気がした。
上着の影で、上総の黒い瞳はさらに暗く陰っていた。その奥で、名状しがたい感情の光がゆらゆらと揺れている。
怒り? 後悔? 憐れみ?
いや、店内のライトが反射しているだけだろう?
「正直……」
上総の唇がゆっくりと動く。その声はハスキーがかっていて、強い雨音の中、耳を澄ませなければ聞こえないくらいに小さかった。
「正直、お前ともう一度会うとは思っていなかった。というより、会いたくなかった……」
「俺もだよ」
即答していた。負け惜しみでも、皮肉ではない。心からの気持ちだった。
上総は一瞬、何か言いたそうに口を開いたが、出たのはため息だけだった。
「だよな。でも竣工まで二三ヶ月の辛抱だ。クリスマス──」
上総は一度言葉を切り、切ったとはわからないくらい自然に続けた。
「──まではかからないと思う。それまではお互い、辛抱しよう」
異論は、もちろんなかった。
「あぁ、よろしく。何があっても約束は守るよ。仕事以外の話は絶対にしない。それでいいだろう?」
聞き返すと、上総は重々しく頷いた。その肩は雨で濡れそぼち、完全に濃い灰色に変わっていた。
しばらくの間、二人は互いの動向を警戒する動物のごとく対峙していた。通りを行く車のタイヤ音が、遠くでかすんで聞こえる。
「じゃ、また」
初めに均衡を破ったのは上総だった。彼はくるりと背を向けると、そのまま一度も振り向くことなく傘の花の中に消えていってしまう。
※
キイイィィと、ブレーキを踏む高い音が響く。衝撃は一瞬だった。轟音とともに突然、暗幕が下がったように視界が暗くなる。
何がどうなったのかわからない。唯一わかることといえば、右足を襲う燃えるような痛みと熱だけだった。
「うっ……くっ」
身体を動かそうとしても、足が何かに引っかかって、抜け出せない。痛みと熱がさらに増す。流れる汗がちくちくと目を刺し、意識が炙られるように溶けていく。
もう無理だ。消えていく意識に身を任せようとした時、鋭い、涙まじりの声が空気を引き裂いた。
「大丈夫だ、しっかりしろ! 俺が絶対──」
はっと起きあがる。部屋の中は間接照明がつくる柔らかな橙色の光に包まれていた。カーテンに映った外の花梨の影が、雨のリズムに合わせてさわさわと揺れる。
ここは自分のアパートだと、数瞬遅れて気づいた。ほっと胸をなで下ろす。額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、立てた膝に両腕を置く。
あの時の夢を見るのは久しぶりだった。それこそ昔は毎晩のようにみていたのに、ここ一、二年はすっかりご無沙汰だった。
なのに、なぜ今になって……?
(やっぱり、あいつに会ってしまったからか……?)
組んだ腕の中に顔を埋める。
何度か深呼吸を試みたものの、バクバクと肋骨の中で暴れ回る心臓を落ち着かせることはできなかった。以前、カウンセリングでもらった安定剤を飲もうかとも思ったが、帰宅してからすぐに足の痛み止めを飲んでいたことを思い出し、止めた。痛み止めと安定剤は飲み合わせが悪い。たぶん。
だがその痛み止めの方も切れかかっているのか、雨の音と呼応してズキズキと骨の奥から痛みが湧いてくる。
呼吸が浅くなり、息苦しさから寝間着にしているラグランシャツの胸元をグッと握る。ギシギシと頭の中で何かが軋む音がし、手足の指が落ち着かなく痙攣する。
あの事故のあと、足の治療と並行してカウンセリングもしばらく受けていた。カウンセラーによると崇の症状は、事故による心的トラウマ──PTSDらしいが、彼女の診断が合っているのかは未だにわからない。
なぜなら崇は彼女に一番──でなくとも、とても重要な情報を教えていなかったからだ。
(もし、それを聞けば、彼女は一体なんて診断しただろうか? 恋の病か?)
「ははっ、うける」
喉で笑ったが、声がガサガサに乾いていて、咳のようなものしか漏れなかった。
すっかりと目が冴えてしまい、キッチンへコーヒーを入れにいく。
シンクに寄りかかりコーヒーを啜りながら、ぼんやりと自分の部屋を眺めた。
いかにも男の一人暮らしというような質素なワンルーム。ベッドとパソコンデスク、必要最低限のものしかないような味気のない部屋。
だが、崇はここが気に入っていた。
一人、この中にいれば誰にも傷つけられず、誰も傷つけずに済む。
高校を半年遅れで卒業してさらに半年、松葉杖による歩行と日常生活に最低限必要な動作を訓練するリハビリの終了とともに、崇は家と地元を出て、この街に引っ越してきた。紹介された病院に通いながらも何とか今の小さな会社に雇ってもらい、少しずつだが新しい生活を築いてきた。
苦しい時も、辛い時もあったが、一人で、時には医療機関の助けを借りながら、何とか暮らしてきた。
誰にも頼らず、深く関わらず、ましてや好きになることもなく。
あの日々の中で誓った通りに、今は何もかもがうまくいっていた。
(なのに、なんで今更、あの人が出てくるのだ……?)
掌の中に顔を埋める。偶然だとしたら、かなり皮肉がきいている。こんなもののために、血を吐くような思いで築き上げてきた生活を脅かされてたまるか。
(辞退しようか)
きっと上司はわかってくれるはずだ。だが未だにお客様扱いの自分がそんなことしたら、また微妙な立場に追い込まれるだけだ。それにいくら他のものがボロボロでも、仕事だけはきちんとしたい。
考えてみれば、たかが二三ヶ月。それさえ過ぎれば、彼は再び消える。自分の人生から。今度こそ永遠に。
(だから大丈夫。それまでは何とかやっていけるはずだ)
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4/13(水)
見てくださって、ありがとうございます!
本作品の更新頻度は動画の再生数が
前話から5ビュー増えたタイミングで行う予定です(^^)
※もしPV数があまり動かない場合は、
3日1回くらいのペース?で更新させていただきます(*^-^*)
◆本作品のあらすじ動画はこちら→https://youtu.be/7jZpotIPWwE
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