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第4話
◆お忙しい方のためのあらすじ動画はこちら→ https://youtu.be/7jZpotIPWwE
開始一五分前で、座席は三分の一ほど埋まっていた。カップルと友人同士が何組か、女性の一人客が数人いるだけだ。
エンニオ・モリコーネーの〝ニューシネマ・パラダイス 愛のテーマ〟がゆったりと流れる中、崇たちは中央ブロックの右側通路に面した席に座った。足に余裕を持たせるために、崇が通路側になる。座席は古めかしい臙脂色のベルベッドカバーで覆われていて、丁度いい固さで座り心地が良かった。
「映画館って久しぶりです。観るとしても家で観るので」
「まったく院内の年寄りと子どもから絶大な人気を誇るアイドル作業士が聞いて呆れるな。こんなところで男と二人で恋愛映画なんて」
「光栄です」
大輔は、満面の笑みを浮かべた。天然というか図太いというか、まったく皮肉が通じないところは、昔の上総にそっくりだ。
(待てよ。何でこんな時に、あんな奴のことを思い出すんだ……)
「あー真ん中の席、埋まっちゃっているねーもうちょっと早くくれば良かった」
「しょうがないだろう。君が中々、バーを出ようとしないから」
「この映画がやるって知っていたら、一時間前に来ていたわ!」
若い男女のカップルが、後ろの出入り口から右側通路を通ってやってくる。聞くつもりはなかったのだが、何かが崇の意識を引きつけた。特に男の声の方が──。
「……崇?」
自分の名前を呼ばれたと理解するのに、数秒かかった。声のした方を向くと、すぐ横の通路に上総が立っていた。驚きのあまり、思わず立ち止まってしまったという様子だ。
「上総さん? お知り合い?」
上総の反対側の腕に腕をからませていた女性がひょこっと顔を出した。
上品なピンク色のサテンシャツと、紺のフレアスカートをはいている。亜麻色の髪はゆるく巻かれており、小柄な体格と大きな瞳が印象的だ。少し日に焼けた顔とハスキーな声が相まってイタリアのお嬢さんという感じだった。
腕を引かれてはっとなった上総が、薄い笑みを女性に向ける。
「こいつは……高校時代の後輩だよ。今、一緒に仕事をしているんだ」
「高校時代の?」
女性は目を丸くすると、飛び出すように前へ出てきた。崇に向かって手を差し出してくる。
「初めまして。今井藤乃です。上総さんの高校時代のご友人なんて、初めて聞くからびっくりしちゃった。隣の方も後輩さん?」
藤乃の大きな瞳が奥に行くと、大輔は立ち上がって彼女の手をとった。
「いえ。俺は崇さんの友人です。でも彼から、お二人の高校時代のことは色々とうかがっています」
ちらりと大輔が上総を見る。崇には、今、上総がどんな表情をしているのかわからなかった。というよりも、極力見ないように藤乃のイヤリングの七色の光ばかりを見つめる。
それでも強い、睨み付けるような上総の視線は、ひしひしと顔面に感じていた。まるで肌中にセンサーでもあるみたいに。
「ちなみにお二人はどうゆう……? 彼女さんですか」
大輔がそれとわからないくらいに崇をかすめ見てから、再び上総に顔を向けた。崇は大輔に感謝していいのか、呪っていいのかわらなかった。知りたくないというのも嘘だが、かと言って知るのも嫌だった。
「……あぁ」
抑揚のない低い上総の声からは、何の感情も読みとれなかった。だが、肌をちくちくとさす強烈な視線が増したことだけは確かだ。
怒っているのだろうか? 自分のことを大輔に話したから? それとも、こうしてプライべートの時間までのこのこ現れたから?
しかし後者に至っては、自分のせいじゃない。自分だって、こんなところで上総に会うなんて思ってもみないことだった。しかも、彼女とのデート中になんて。
ブーとブザーの音が鳴り、館内の照明が徐々に落ちていく。
「あ、始まっちゃう。早く席をとらなくちゃ。それでは、また」
藤乃が小さく頭を下げて、上総の腕を引く。上総は一時ためらう気色を見せたが、無言で彼女についていった。
足下の誘導灯だけが灯る中、二人は崇たちより二三列前の通路を越えた右袖の席についた。直前、ヒールを気にする彼女の手を上総が取り、二人はかすめるように微笑みを交わす。
「まるで、オードーリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックみたいな二人ですね」
薄闇の中、大輔が耳元に顔を寄せてくる。
「で、崇さんは『ひまわり』のソフィア・ローレンだ」
まったく意味がわからなかったので、崇はただ「そう」とだけ返した。そのうちスクリーンが暗くなり、〝過ぎし日の恋〟の曲とともにオープニングロールが流れ始める。
スクリーン上に、雪降るエンパイアステートビルが映し出される。場面は船内へと移り、何人もの人たちが出ては消えていくが、内容はまったく頭に入らなかった。字幕の字は読めるのに、まるで習い立ての外国語のように理解が追いつかない。
斜め前の、上総たちの影をちらりと見る。照明が落ちてようやくまともに見ることができた。臆病者というならそう言ってもいい。
二人のシルエットは、青白いスクリーンの光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。藤乃の小さな頭は、上総の肩にゆるくもたれかかり、ウェーブのかかった髪が灰色の柔らかい光沢をおびたスーツに散っている。上総の方はぴんと背を張り、この瞬間、暴漢が入ってきても、すぐにでも彼女を守れるような姿勢だった。わずかに見える斜め向きの横顔は張りつめ、水分をたっぷりと含んだ黒い瞳に青白いスクリーンがちらちらと映り込む。
まるで完璧。毛の一本一本、指先一本一本まで計算し尽くされたように完璧な二人だった。
(……そっか、あのスーツはこれのためだったのか)
皮肉的な笑みがふっと、もれそうになった。
今時スーツでデート? 一体、どこのお金持ちだと思ったが、藤乃の身なりや仕草から見ても、彼女がいいところのお嬢様だということは明らかだった。
足がズキズキと痛み出す。ぐうっと胃が、雑巾が捻られたみたいに締め付けられる。
なぜ、自分がこんなに動揺しているのかわからなかった。
上総に彼女がいると知ったから?
それとも彼がまったくの異性愛者で、高校時代の好意は自分の一方的な思い込みだとわかったから?
もしくは、自分の前ではあんなに冷たく頑なだった彼が、彼女の前では柔らかく微笑むことを知ったから?
いや、彼が自分と同じく一人でいることを選んでいないからか?
正直に言うと、全部、当てはまっていた。
と、同時に全部がバカバカしく思えた。
上総が誰と付き合おうと、それが男でも女でも、自分には関係がない。たとえ、バーの帰りにクラシックラブロマンス映画なんか観るロマンチックなデートをしようと、関係ない。
関係ないはずなのに、どうして目で追ってしまうのを止めることができないんだろう。沸々と腹の底から湧いてくる怒りと虚無感を抑えることができないのだろう。
出来ることなら今すぐ立ち上がって、
「そいつは人殺しだ!」
と、藤乃に向かって上総を糾弾したかった。彼女の上総を見る信頼しきった瞳が、不信と嫌悪に変わり、ヒールの音を響かせながら館内から出て行く姿を見たかった。
だが、どんなにやりたくてもそれは出来ない。
なぜなら、上総を「人殺し」と告発することは、自分の罪も認めることと同じだから。
望もうとも望まずとも、自分と上総は、世界にたった一人しかいない共犯者なのだ。その事実は、崇の身体を一瞬のうちに熱く燃え上がらせ、同時に一瞬のうちに深く凍らせた。
あの冬の日よりも、さらに深く。
携帯からJ-POPの軽快なメロディが流れてきた時、崇は暖房のきいたリビングで海外アクションドラマを一気見していた。高校三年。年が明けたらすぐにセンター試験なので、冬休み一日目の今日だけはゆっくりしようと決めていたのだ。
窓には白い靄がかかっていて、外の冷たさを伝えていた。庭の隅には、うっすらと昼間に降った雪が残っている。クリスマスまであと数日。近所の家のイルミネーションがまるで暖炉の火のように遠くで瞬いている。
『お~い、崇君! 起きてるか~!?』
同じクラスで仲の良い谷山の陽気な声が、電話越しに響いてくる。声が大きすぎるのかそれとも電波が悪いのか、音はきーんと割れていた。後ろから、谷山につっこむ高い笑い声がかぶる。たぶん、高校の時から谷山とよくつるんでいた先輩だろう。面識はないが、聞きかじった話では今は地元の金属工場で働いているとか。
『なぁなぁ、崇、今、暇だろう? ドライブいかね? 海行こうぜ!』
陽気すぎる声に、携帯を耳元から離す。
「いやだよ。お前、何時だと思ってるんだ。それに海って、今、何月かわかってる?」
だが谷山は話を聞いていなかったのか、
『今、誰が後ろに乗っていると思う?』
と、我慢できなくなったように切り出した。彼が人の話を無視するのはいつものことだから、怒ってもこちらが損をするだけだ。
「さぁ? 例の先輩だろう? いつもつるんでる」
『ブー! 正解っ!』
「どっちだよ」
『いや、鎌田先輩もいるけど、今、後ろに座っているのは、な、なんと! 小原先輩なのでしたぁ~!』
「え?」
一瞬、時間が止まったように感じた。窓の外の凍てつく空気の音まで聞こえそうだった。
『ちょっとおおげさだよ』
とスピーカーの向こうで、落ち着いた深い声が聞こえた時、時間は再びゆっくりと、やがて激しい鼓動を鳴らしながら動き始めた。
『どう、来る? 来るだろう?』
もはや行かないという選択肢など残っていないかのように、谷山が聞いてきた。そして、それは正解だった。
崇は返事をするより先にテレビの電源を切って、ソファから立ち上がっていた。『あと一五分後に迎えにいくから』という谷山に上の空で返事をして、通話を切る。
すぐさま自分の部屋に行き、お気に入りのシャツとコートを着込んでから玄関へと向かう。一瞬、寝ている両親に声をかけてから行くべきかと迷ったが、止めた。こんな深夜に出掛けるなんて止められるのがオチだし、朝までに帰ってくれば誰も自分が出かけていたことなど気がつかないだろう。
その時の崇は、まさか自分が朝まで──むしろ三ヶ月後まで自宅に帰れないことなど知るよしもなかった。
「久しぶり。元気にしていた?」
車の後部座席に乗り込んだ時、待ちに待った声が聞こえてきた。
上総は夏休みに見た時よりも、髪が伸びていた。長い前髪がサイドに軽く流され、意志の強そうな眉が露わになっている。黒のスキニージーンズにカーキのコート。がっちりとしたワークブーツは細長い身体によく合っていた。
大学に通い始めて半年以上。すっかり都内の大学生といった雰囲気だ。それでも、その身を取り囲む穏やかで静謐な空気には変わりがなく、笑うと目元が溶けるように下がるところなどまったく一緒だった。
相手の笑顔が伝染したように、気がついたら崇も微笑んでいた。
「おかげ様で。家では受験受験ってピリピリしていますよ。そっちはどうですか? 大学は?」
「大変だよ。授業とバイトと建築士の資格の勉強で。そういえば、崇も都内の大学受けるんだって? 谷山に聞いた」
「一応。かなり背伸びしていますけど」
「大丈夫。お前ならできるよ。そっか。なら、あっちでもちょくちょく会うことできるな。その大学ならキャンパスも近いし」
他愛のない話をしながらも、二人の視線が外れることはなかった。上総と話しているといつもそうだ。S極とN極のように、地球と月のように二人の間にしかない引力で引きつけられる。もし運命という言葉を使っていいのなら、その言葉が一番しっくりくる気がした。
「こらあ、君たち」
運転席から、呆れとからかいまじりの笑い声がかかった。その時になって、崇はようやく車に自分たち以外の人間がいることに気がついた。恥ずかしくなって、誤魔化すように前の運転席に寄りかかる。
「谷山。本当にお前が運転して大丈夫なのかよ。免許とったばかりだろう?」
言いながらも、隣に座る上総の視線をひしひしと感じて、耳元が火のついたように熱くなる。車内が暗くて本当に良かったと思った。
「だあいじょうぶだって。俺の運転テクニックを披露してやるよ」
「何がテクニックだよ。何度、仮免落ちて俺に泣きついてきたと思っているんだ」
「はいはい。自分の誕生日が遅いからって、ひがむなよ。よおしっ! このまま海に向かって出発だあぁぁ~!」
その時になって、ようやく違和感に気づく。車に乗り込んでから、初めて意識が上総から外れた。
「谷山。お前、なんかテンション高くない? もしかして……酔ってる?」
そこへ、助手席にいた鎌田が悪びれもなさそうに入ってきた。
「ごめんごめん。ちょっと飲ませちゃってさ。うちに缶ビールが余っていたから二三本」
彼も少し飲んだのだろう、暗闇でもわかるくらい首もとが赤かった。
鎌田は社会人だが、まだ未成年だったはず。崇の言わんとしていることに気づいた鎌田が先を越す。
「お堅いこと言うなよ。職場のおっちゃんたちがよく飲ませたがるんだ。上総のところもそうだろう。サークルとかさ」
「まぁ」
と、上総は曖昧に肩を竦めた。その仕草がまた大人っぽく見えて、崇は密かに胸をときめかせた。そもそも不良──まではいかないものの、学校でもあまり素行が良かったとは言えない鎌田と質実剛健の優等生だった上総が知り合いだったのが驚きだ。
まだ不安そうにしている崇に気づいた上総が、耳元に顔を近づけてくる。
「さっきからずっとこの調子で何度言っても聞かないんだ。大丈夫。危なくなったら俺が運転代わるから」
吐息まじりのハスキーな声が耳朶にかかり、崇はそれだけでもうどうしようもなくなった。
「よおしっ! じゃあ、出発っ!」
「わっ!」
勢い良く谷山がアクセルを踏み込んだ反動で、崇は身体のバランスを崩してしまった。
「──っと」
座席に叩きつけられる寸前のところで、上総が咄嗟に崇の肩に腕を回し抱きとめる。
背中越しに相手の腕の温かさと硬さを感じて、崇の頬にカッと熱が集まる。血管を流れる血の音まですぐ耳元で聞こえてきそうだ。
不思議な感覚だった。心臓は爆発しそうなくらいに高鳴っているのに、身体の奥底ではこれ以上もなくリラックスしていた。
……もしかして、これが恋というものなのだろうか。
ふと、母親がリビングで観ていた映画のセリフが甦る。
『触れ合った瞬間にわかった。帰り着くべき、家を見つけたという感じだった』
「大丈夫?」
黙ったままの崇を心配したのか、上総が顔を覗き込んでくる。
外の街灯が連続して通り過ぎる薄闇の中、上総の両の瞳は、いつもより暗く沈んでいた。その視線がちらりと崇の唇におり、そのまま動かない。まるで柔道の組合の時と同じ、獲物をじっと狙っているような目だった。
この気持ちは自分の一方通行ではない。崇がそう確信した瞬間だった。
上総も自分のことを想ってくれている。欲しているのだ。
そう思うと、足下から炙られるようにドクドクと全身に熱が立ち上ってくる。
これから、この人と一緒に朝まで過ごせるのだ。
頭がクラクラしてきて、吐き気すら覚えるほどだった。手足の力が抜け、視界がぼんやり狭くなる。周りの景色が全て溶け、上総しか目に入らない。
まるで車内が甘ったるいアルコールに満たされてしまったみたいだった。
実際、あの時の自分は酔っていたのだろう。酒ではなく、上総の存在そのものに。
それが何よりの過ちだと気づいたのは、何もかも起こってしまったあとだった。
もしあの時、彼以外のことにもっと目がいってくれば、全部が違っていたかもしれない。確実に今よりは幸せな人生を送れていただろう。それどころか谷山たちを止めて、運転を変わっていれば、もしかしたら今、上総の隣に座っていたのは自分かもしれない。
男同士だという問題はあるが、それすら今の状態に比べたら何でもないことのように思えた。少なくとも、二人の前には明るい未来が広がっていたかもしれない。
──いや、ダメだ。そんなこと考えることすらバカげている。これまでも眠れない何千晩の夜、「もしも」と祈り続けては、変わらない現実に絶望してきた。
何より、あの事故がなければなんて考えるのは、死んだ谷山や鎌田への裏切りだ。彼らがもう望むことができないものを、自分が望んではいけないのだ。
『あんたたちが死ねば良かったのに!』
谷山の四十九日に参列した時の記憶が甦ってくる。上総とはもう二度と会うことはないと決心し、別れた日だ。
そうだ、自分は忘れてはいけない。自分の愚かで衝動的な行いが、いかに人を死なせ、傷つけ、人生を狂わせたかを。
──この恋は、罪だ。絶対に叶えてはいけない。
突然、全てがおかしく思えた。
何が罪だ。悲劇のヒロインぶるのもいい加減にしろ。
視線をスクリーンに戻すと、丁度、ヒーローとヒロインが〝グッバイ〟と別れを言っているシーンだった。
想う合う男女が泣く泣く別れなくてはならないのは、美しすぎる悲劇だ。
自分たちとはまったく違う。
自分には今更、上総を想う気持ちはない。そんなものはあの冬の日、自動車とともに粉々に砕け、塵となって散った。
いくらその破片が──上総を好きだった頃の自分が心の奥で叫んでいたとしても、それはただの郷愁──感傷だ。失った過去を懐かしがっているだけに過ぎない。
そんなものに耳を貸して、せっかく新しく築き上げた自分の生活を失うなどあってはならないのだ。
だから蓋をする。上総に、過去に、全てに。
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