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第5話

◆お忙しい方のためのあらすじ動画はこちら→https://youtu.be/7jZpotIPWwE 「すみません。ああいう展開になるって覚えていなくて」 照明が上がった途端、隣の大輔が申し訳なさそうに謝ってきた。一瞬何のことかわからず、間が空く。ふいに映画の後半のシーンでヒロインが交通事故に巻き込まれ、車椅子になった画が甦ってきた。 「いや。話に没頭していたから、別に何とも」 大輔はしばらく、目を細くして崇を見ていたが、やがて何も写っていないスクリーンに視線を戻した。ぼんやりとした声で言う。 「何で僕が後半を覚えていなかったのか、何となくわかった気がします」 「? 何で?」 「若い頃は、何て言うかハッピーエンドしか価値がないものだと思っていました。〝ハロー〟と言って出会って、一生幸せに暮らす。それが幸福の全てだと。でも年をとるにつれて〝グッバイ〟──悲劇こそが人生なのかと思うようになってきたんです。多くの名作映画が悲恋で終わるように。人は生きていたら、誰かに〝ハロー〟と言っても、いつか〝グッバイ〟しなきゃいけない時がくる。でも、それで人生は終わりじゃない。辛くても苦しくても続いていく。そしてまた新しく誰かに〝ハロー〟といえる日がくる。その繰り返し。で、最後には、必ずみんな〝グッバイ〟と言って終わるんだ」 「……お前、部屋の中でいつもそんなことを考えているのか」 「根暗ですみませんね」 「はっ、どうりで気が合う訳だ」 相手の肩をどんと肘を小突くと、大輔も返してきた。周りの人波がひけて立ち上がると、職業病なのか、大輔がさっと杖を差し出してくる。 その時、通路の向こうから、上総と藤乃がやってくるのが見えた。脇の出口からでるという選択肢もあったのに、わざわざ崇たちの方にやってくるのは、ひとえに藤乃の社交好きと好奇心の強さゆえだろう。後ろからついてくる上総は居心地悪そうに明後日の方向を見ていた。 その顔を見たとき、どくりと崇の心臓が揺れ動いたが、気づかないふりをする。 「やっぱり良かったですね! 何度見ても最後のシーンは感動しちゃう! あの鏡越しに見える絵が!」 藤乃は崇たちの前で止まると、人なつっこい笑顔を浮かべた。 「で、あのですね、ここで会ったのも何かの縁なので、もし良かったら、一緒に飲みませんか? これからホテルのバーで飲み直すところなんです」 藤乃の言ったホテルは名前こそ知らなかったが、相当な高級ホテルとだけはわかった。 「藤乃」 上総が慌てたように彼女の腕をとる。 「何、いいでしょう? 上総さんの高校時代の話も聞きたいし。この人ったら、どんなに聞いても言わなくて。まったくどんな不良だったことやら」 彼女の無邪気さが、急に愛らしく思えた。 崇と上総の高校時代の話など、酒の肴にするには最悪のチョイスだ。きっと彼女だって聞いた三秒後には、後悔しているだろう。色んな意味で。 不穏な空気に気づいたのか、真っ先に大輔が間に割って入る。 「すみません。僕ら二人とも電車なので、終電を逃せないんですよ」 「あら、なら上総さんが送ってくれるわ。この人、お酒に極端に弱くて、いつも頑として飲まないから」 すぐに嘘だと気がついた。上総が酒に弱いなんて聞いたことがない。以前──確か夏休みで帰省してきた時に、本人が話してくれたことがある。新人歓迎会の時、先輩たちによってソフトドリンクをウーロンハイにすり変えられてしまった。が、それとは気づかず五杯ほど飲んでから、何かがおかしいと気がついたとか。 そんな男が酒に弱いはずない。 彼は酒が飲めないのではなく、飲まないのだ。たぶん崇と同じ理由で。 そう思ったら、サディスティックな喜びで胸が震えた。まるで宿敵の弱点をようやく見つけたような気分だ。 彼もまだ、あの事故にとらわれているのだ。しかもそれを、彼女に話していない。どころか高校時代の話さえしていない。 そんな大事なことを話さないで築き上げる関係とは一体、どれほどのものなのか。 皮肉的な笑みが唇に浮かぶ。それに気がついた上総が、侮辱でもされたかのように片眉をつり上げた。 崇の胸がさらに歓喜で震える。 最高だ。最高に気分がいい。もっと上総を不快にさせてやりたい。自分が味わった惨めさと苦しみを、少しでもいいから味わわせてやりたい。そう思った。 崇は笑顔を浮かべたまま、藤乃の方を向いた。 「お酒が飲めないなんて嘘ですよ。貴方を無事に自分の手で送りたいだけです。世の中には危険な運転をする人もいますから。……ねえ?」 流し目を上総に送る。 相手の顔は、怒りでどす黒く膨らんでいた。今すぐにでも崇の首を捻り折ってやりたい衝動を何とか理性で抑え込んでいるように、全身が小刻みに震えている。太ももの脇にある拳も握り締められすぎて真っ白くなり、崇を睨み付ける目はそれだけで人を殺せそうなくらい鋭かった。 ──余計なことは言うな。 全身が、そう言っていた。 さすがの崇もこれには肩を竦め、黙るしかなかった。このままだったら、本当に殺されかねない。いや、それでもいいかとも思ったが、今を人生の最後にするには惜しいくらい生きている実感があった。 崇は大輔から杖を受け取ると、時計を見るふりをした。 「すみません。お誘いは嬉しいんですけど、実はこれから寄るところがあって」 「あら、そうなの。それは残念ね」 藤乃が心底残念そうに言うと、すぐに明るい笑顔を浮かべた。 「また次の機会にでも。その時はぜひ、昔の話をお願いしたいわ」 「えぇ、ぜひ」 という崇の声音にある皮肉に気づいたのか、 「藤乃。もういいだろう。行こう」 と上総が藤乃の腕を引く。彼女は最後に「絶対にね」と付け加えると、上総のあとを追って出口へと向かった。 二人がロビーへ出る直前、 「ねえ、あの二人って『ブロークバック・マウンテン』的な感じなの?」 という藤乃の声が聞こえたが、そのどこにあるかも知らない裏山が自分たちとどう関係しているのか、崇にはわからなかった。 それに対する上総の答えも、ついには聞こえてこなかった。 「あっ……! もうちょっとゆっくりっ……!」 びりりと伝わる痛みとむず痒さで、思わず喉の裏から声が出る。抗議の意味を込めて、自分の前に膝をつく大輔の髪をやんわりと握る。大輔は苦笑いしながらも、両手にとった崇の裸足の足を撫でていく。 「まったく。映画が終わるなり、いきなりトイレに連れ込まれたから何だと思いましたよ。まさか、こんなこととは」 大輔の大きな掌の下で、青白い、マネキンのような崇の右足がしだいに薄桃色を帯びていく。どんどんと和らいでいく痛みに、崇はため息をついた。 「しょうがないだろう。立っていられないくらい痛かったんだ。映画観ている時から徐々に痛みだして」 「あぁ、だからあんなに上の空だったんですか?」 答える必要はなかった。どうせ口に出さなくても、相手は理由を知っている。 「でも、周りから見れば何だと思われますよね。男二人がトイレの個室にこもって、こんな声だしているのを見たら」 「こんな声って──あっ……!」 大輔の手が弱い膝にかかり、崇は痛みからぎゅっと唇を噛みしめた。 「っ、そ、んなの一目瞭然だろう? 足の悪い男が、元作業士で現友人の男に緊急マッサージをしてもらっているって……」 「そうだといいんですけどね。……まだ痛みますか?」 「ん……ちょ、っと……でも良くなってきた……」 「そうですか。じゃぁ、もうちょっと我慢して下さいね」 「……あっ!」 再建した膝の骨の間を親指で押され、背中がのけぞる。狭いトイレの個室に自分の荒い呼吸と、喉からもれるくぐもり声が満ちる。 「さてと、どうです? 歩けそうですか?」 一通りマッサージが終わると、大輔は立ち上がり、トイレのドアに背中をつけた。彼の額にもうっすらと汗が光っていた。 便座に座り呼吸を整えていた崇は、自分を見下ろす大輔に顔を向けた。試すように右足を上下させる。 「たぶん。おかげでだいぶ楽になった」 「良かった。でもやっぱり心配ですね。明日にでも、もう一度うちで看てもらったらどうです? レントゲンでは異常がなくても、もしかしたら心因──」 大輔は言葉を切り、すぐに言い直す。 「色んな可能性もあるので。今なら人気作業士によるスペシャル・マッサージとセットでお得ですよ」 「まぁ、それはすごい。おいくらですか?」 財布を取り出した崇を見て、大輔がぎょっと身を引く。 「まさか、冗談ですよ。貴方の真似をしてみただけです」 「いや、マジで。冗談じゃなくて。プライベートの時までこんな仕事させちゃって、本当に悪いと思っているんだ」 チップは弾むよ、とにやり笑うと、大輔は侮辱されたように眉を顰めた。 「仕事じゃないですよ。友達なんだから当然です」 「でも、このままじゃ、お前が割に合わないというか──」 ドアがバタンと開かれ、大輔が後ろ向きのままトイレから出た。 「とにかく、何かあったら知らせて下さいね。貴方は何でも一人でできるくせに、妙に危なっかしいところがあるから」 そのまま出ていこうとする大輔の背中に向かって、崇は慌てて叫んだ。 「ありがとう、助かったよ」 すると大輔はゆっくりと振り向き、柔らかく微笑んだ。 「どういたしまして」 ※ 「しっかりしろっ! 俺を見るんだっ!」 灼熱の痛みと黒く染まっていく視界の中、目の前で誰かがずっと叫び続けていた。相手の額からは血が流れ、顔の半分を覆っている。暗闇の中、浮かび上がる肌は死人のように青白く、目は今にも泣き出しそうに赤くなっていた。 (上総……?) まじまじと目をこらすが、視界はさらに暗くかすんで、もはや影しかとらえられない。 「お願いだっ! 何があっても俺が守るからっ! だから──」 遠くでサイレンの音がした。途端、周りの景色が雪のように溶けていく。だが、男の声だけはいつまでも頭の中で木霊し続けていた。 ——また、あの時の夢か。 目を開けた崇は、薄暗い天井をぼんやりと見つめる。 床についたのが十二時。それから足の痛みとともに悶々と眠れぬ時間を過ごし、ようやく意識が薄れてきたと思ったのが三時を過ぎた頃だろう。 枕元の時計を見ると現在、五時。つまり二時間ほどしか眠れていないことになる。 ここ一週間、ずっとこんな感じだ。 疲れと痛みは限界まで溜まってきているのに、眠ることだけができない。目を閉じる度に甦る。あの事故の光景が。 『お願いだっ! 何があっても俺が守るからっ! だから──』 (……違う。あいつは、そんなことを言ってはいなかったはずだ) 夢は、崇の疲れ切った脳みそがいいように見せた妄想だろう。 現に、上総が自分を守ってくれたことなど一度もない。 集中治療室で目覚めてから、見舞いに来たのはただ一度だけだし、谷山の四十九日のあとは、一度たりとも会っていない。 自分が人生で一番辛く苦しい入院生活を送っている時、彼は一度も側にはいなかった。彼がしたことといえば事故から、そして崇から背を向け、遠くへ去って行くことだけだった。 ふと、枕元においておいた携帯がチカチカ光っていることに気がつく。画面を開くと、園村(そのむら)(りく)からの留守電が入っていた。昨日の午後十時。上映中、機内モードにしていたから気がつかなかった。 陸は小学生の頃からの幼なじみだ。小学校から高校までずっと同じ学校に通っていた。 しかし事故のあと、崇の交友関係は一変した。 当時、崇が通っていた高校は、市の中でも有名な商業高校で、様々な企業からの採用実績があった。 だが崇たちの起こした事件──高校生が飲酒運転のあげく死亡、さらに建造物損壊──のせいで、高校の名は地に落ち、その頃就職が決まっていた同級生も何人か、内定の取り消しを受けた。採用募集も一気に激減し、後輩の代になっても増えることはなかった。 崇たちのせいで、何人もの人の人生が狂ってしまったのだ。 だから、ネットの掲示板に崇たちの実名と住所、身近な人しか知らないような情報が晒された時も、驚くことはなかった。連日のように、家の壁やドアに「人殺し」「クズ」などの落書きや張り紙をされても当然のことだと思った。そのせいで家族の中の空気がどんどんと濁って孤立していっても、誰も責めることは出来なかった。自分以外は。 高校の友人たちとは、そこでほとんど縁が切れた。そんな中、陸だけはずっと連絡をとり続けてくれていた。 たいていは、あっちが地元であった近況をペチャクチャと喋り、崇は聞いているだけ。正直ありがたいと思うより、いたたまれなさの方が先にたった。地元のことを聞くと、いやがおうにも事故のことを思い出すし、同級生の名前を聞くと、自分がどれだけ多くの人を傷つけ──そして、多くの人から傷つけられたかを再確認してしまう。だけど無視するのは申し訳ないので、忙しくて、と言い訳をしつつも、三回に一回は出るようにしている。 (でも何だろう? 今まで留守電まで残したことはなかったのに……) 嫌な予感がして、ボタンを押す手を一瞬、躊躇う。それでも勇気を出して押すと、無機質な機械のアナウンスガイドのあと、子どもの頃から変わらないはきはきとした陸の声が聞こえてきた。 『崇? 俺だけど。元気にしてるか?』 だが今日のそれはいつもと違って、どこか緊張感を帯びていた。 『忙しいみたいだから、簡潔に言うけど、今度、谷山の七回忌があるんだ。来ても来なくてもいいから、一応知らせておこうと思って。じゃ』 そのまま、電話はプツリと切れた。

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