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第6話
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世界は、崩れかけた砂のようだった。一度崩壊が始まってしまえば、止めることはできない。崩れた砂は足下を掬い、奈落の底へと誘う──。
「どうした、ひどい顔だぞ?」
いつもの喫茶店の隅の席でイライラと貧乏ゆすりをしていた上総は、入り口から歩いてくる崇を見て思わず腰をあげた。
崇は視線を合わせることなく、向かいの席にゆっくりと座る。顔を上げると、上総が幽霊でも見るような目つきでじろじろと見つめてきていた。
「おい、答えろよ。何か、あったのか?」
「……別に何も。今日は時間がないから、早く始めよう」
鞄から資料の束をテーブルに出すと、上総の手がその上にバンと置かれた。
「何もって顔じゃないぞ。鏡見たのかよ。真っ青だぞ」
「昔からこうゆう陰気な顔なんだ。よく知っているだろう?」
「知るわけない。昔のお前はもっと──」
上総はハッと口を噤み、しばらくしてから、わかった、と両手をあげる。
「それだけの皮肉を叩けるなら、もう心配する必要ないよな?」
「あんたが、俺のことを心配したことなんてないだろう?」
相手が大きく息を飲んだのに気づいたが、崇は相手の手の下から資料を引きだすのに集中するふりをした。
「お前は──」
上総はまだ何か言いたそうにしていたが、丁度店員がやってきたのを見て、渋々背もたれに寄りかかる。ウエイターがコーヒーをテーブルに置く沈黙の中、上総の貧乏揺すりの音だけが響く。
「……昨日の男とは、どうゆう関係なんだ?」
ウエイターが去ったあと、上総が低い平坦な声でぼそりと言った。予想外の質問に、崇は思わず顔を上げる。
「昨日のって、大輔のこと? 友達だけど」
「友達? 映画が終わった途端、一緒にトイレになだれ込んで、あんな声を出すようなことをする奴が?」
聞かれていたのか。カッと顔が熱くなる。だが、できるだけ平静を装って、コーヒーを一口飲む。相手が勘違いしているのは明らかだったが、真実を教えてやる義務はない。
「あんたには関係のないことだろう? そもそも、仕事以外の話はしないんじゃなかったっけ?」
「先に約束を破ったのはそっちだろう? 何が『世の中には危険な運転をする奴がいる』だ。いけしゃあしゃあと。昔からタチの悪い冗談をよく言う奴だったが、そこまで意地が悪くなっているとは──」
ガシャンと、崇が乱暴にカップをソーサーに置く音が響く。
「あんたに言われる筋合いはない。性格が悪くなったのはどっちだ。いつも化け物を見るような目で見やがって。いい加減、こっちだって迷惑しているんだ! どうしてあんたはいつも──」
──こんなに自分の心を掻き乱すのか。
自分で思っていたよりも大きな声がでていたのか、周りの人が不審げに見ているのに気がついた。ごほんと咳をし、声を潜める。
「わかった。そんなに友達ごっこがしたいなら続けよう。で、昨日の彼女とは長いの? あんなスーツ着て、クラシック映画にホテルのバーって、まるでプロポーズするみたいだな」
上総の男らしい喉仏が大きく隆起するのを見て、崇の頭の中で警報が鳴った。これ以上はまずい。聞くな。
しかし、聞かずにはいられなかった。
「……まさか本当に?」
返ってきたのは沈黙だった。だが、それは何よりの答えだった。
上総は静かに首を振る。
「崇、俺はこんな話をしたいんじゃない」
「じゃぁ、何の話をするつもり?」
声がみっともなく震えていないのが、何よりの救いだった。
上総は息を深く吸い、吐く。
「あの時のことを。俺たち、もっと早くに話しておくべきだったんだ。そしたらこんな風に──」
「先に背を向けたのはそっちだろう。今更、何を話せっていうんだ」
上総は喉元を突かれたように、ぐっと押し黙る。そして一度、目を閉じ、また開けた。
「……あの時は、悪かったって思っている。俺は子どもで、現実を背負うには弱すぎた」
痛々しい上総の声を聞きたくなくて、かぶせるように言う。
「じゃぁ、今は強いっていう訳?」
わずかな間のあと、上総はゆっくりと頷いた。
「強くなれるよう努力してきたつもりだ」
「それは良かった。おめでとう。これでいい?」
「崇……どうしてお前はそう頑ななんだ」
「一体、誰がこんな人間にしたと思っているんだ!」
と大声で叫びたかった。が、まだ理性は残っていた。むしろ、なくなった時が自分の終わりだ。
テーブルに肘をつけて手で髪をかき乱す。声が、不安定にうわずってしまうことを止めることは出来なかった。
「……どうして今更、そんな話をするんだ。昔のことを話したくないと言ったのはそっちだろう?」
「昨日、映画を観ているお前を見た時、ひどく痛がっているように思えたんだ。まるであの事故があった直後みたいに。それで心配になって、映画館を出たあと、藤乃には先に戻ってもらって様子を見に戻った。そしたら、お前があの男とトイレに行くのが見えて……」
「つまり同情って訳? 俺が痛そうに見えたから? そうだ、正解だよ。あの時は足が痛んで、トイレで大輔に看てもらったんだ。俺の元作業療法士だから。これで満足? もう気が済んだだろう」
「崇……」
やめてくれ。そんな傷ついたみたいな声を出すのは。傷ついているのは、そっちだけではないのだ。
崇の全身から発せられる拒絶の空気に気がついたのか、上総はテーブルについた拳を握り締め、押し殺した声で言う。
「そんなに足、悪いのか……? 完治したと聞いたけど」
「ある程度はね。でも時々、季節の変わり目になると痛むんだ。夜も眠れない」
どちらも物言わぬ間のあと、上総がぽつりと言う。
「俺も……眠れない。あの事故の……お前の夢ばかり見る」
「そりゃ、悪夢だね」
ハッと乾いた笑みをもらすと、上総がぎりっと唇を噛み、資料の端を握りつぶした。
「お願いだ。意地にならずに聞いてくれ。これが最後かもしれないんだ」
必死な声音に、顔を上げずにはいられなかった。張りつめた厳しい面もちに反して、上総の瞳の奥では乞うような光が揺れていた。
「藤乃とは結婚を前提に付き合っている。本当は昨日、プロポーズをする予定だったんだ……でも結局、できなかった」
紙を握りつぶす上総の拳は、かすかに震えていた。崇は紙にできた皺一つひとつを見ながら、相手のかさついた声をどこか現実のものではないようにぼおっと聞いていた。
「もし了承してもらえたら、俺は彼女の父親がやっている家具会社のアメリカ支店に配属されることになる。その前に研修として来月から、あっちに一時的に引っ越すことになった。だから、この仕事も次からは違う奴に引き継いでもらう」
ふっと紙を握る指がゆるみ、代わりに長い息継ぎが聞こえた。上総は顔を上げると、真っ直ぐに崇を見つめる。
「だから、その前にお前に話しておかなければいけないと思ったんだ。でないと、俺も前に進めないと思って。こんな気持ちのまま、藤乃にプロポーズなんて、どうしてもできなくて……」
上総の一つひとつの言葉がふわふわと宙に浮いて、一向に頭に入ってこなかった。今できることといえば、
「そう」
と頷くことだけだった。
上総が結婚して海外に行く。
これ以上、嬉しい話はない。うまくいけば、自分たちは、今度こそ一生会わずに済む。そしたら自分だって、過去のことを思い出すことなく、平穏な日常に戻ることができる。
嬉しい。
嬉しいはずなのに、どうして、こんなにも胸にぽっかりと穴が開いてしまった気分になるのだろう。
右足から痛みがズキズキと響いてきて、頭の中で忙しなく鼓動が鳴る。
「崇……? 大丈夫か?」
伸びてきた上総の手を避けるように、崇はふるふると首を振った。
「……大丈夫。ちょっと足が痛むだけだから……痛み止めが切れたみたいだ」
嘘ではなかった。が、決してそれだけではないのは自分でもわかっていた。
しばらく様子を見ていた上総は、やがて躊躇いがちに口を開く。
「家まで送っていくか? 外に車を停めてあるから」
崇は目を閉じ、顔を伏せたまま首を振る。
「冗談。あんたと一緒に車なんて乗ったら、余計気分が悪くなるだけだ」
「!? お前は、こんな時までっ──」
腰を浮かせた上総だったが、崇の声に力がこもっていないことに遅れて気づき、声音を下げた。
「……俺に何か、出来ることは……?」
「ない、何もない」
長い長い沈黙が降りる。聞こえるのは、周りのテーブルから発せられる食器がこすれる音だけだった。
先に耐えきれなくなったのは、崇だった。杖を持って、ふらりと立ち上がる。
「ごめん……今日は帰るよ。病院の予約があるんだ」
「崇、待っ──」
上総が立ち上がった気配がして、崇はくるりと振り返る。ほっとした顔をした相手に向かって手を差し出す。
「言い忘れていた。ちょっと早いけど結婚おめでとう。藤乃さん、いい人そうだからきっと幸せになれるよ」
あの頃──高校生の頃の無垢な笑顔にできるだけ近づけるよう、精一杯の笑顔を浮かべる。
上総は長い間、愕然と相手の顔を見ていたが、そのうちぎゅっと目を閉じ、開けた。そして、ゆっくりと崇の手に手を伸ばす。
「……ありがとう」
指先がこすれ合った瞬間、崇は全身に電流が走ったような衝撃を覚えた。
細胞一つ一つが目覚めるような、それでいて安らぐような。
——帰るべき家を見つけたような感覚。
あの時──十八の頃と何も変わらない。
その瞬間、何もかも気づいてしまった。気づいてはいけないことに。
「……元気で」
聞こえるか聞こえないかの声で言い、くるりと背を向ける。杖をつきながら、出口に向かって真っ直ぐ歩いていく。
一刻も早くここから出て行きたかった。でないと、相手の元に駆け戻って叫んでしまいそうだった。
──今でも変わらずに好きだと。
ガラス張りのドアを抜け、秋の乾いた空気に満ちた通りに出る。久しぶりの晴れ空には、紫から橙へと変化する暮れの錦色がつづらおりになっていた。
店の横を通り過ぎる時、シースルーの窓からテーブルで俯く上総の影が見えた。気づかないふりをして通り過ぎる。だが、心だけはそちらに向かうのを止められなかった。
触れた瞬間、どうしようもなく気づかされてしまった。自分の気持ちはあの時と一ミリだって変わってはいなかったことを。この六年の間、ずっと。
──まるで悪夢だ。
自分は知っているはずだ。この恋は「過ち」だと。
この気持ちのせいで、あんな事故が起き、友人が死に、親や同級生、その他、名前も知らない多くの人を傷つけた。自分自身を含めて。
再会してからも、それは変わらない。
上総と会ってからこの二週間、自分が飲んだ痛み止めと安定剤の数が、それを物語っている。彼のせいで今の自分は、心も身体も疲弊しきってボロボロだ。
上総だって結局、再会してから一度も笑顔の欠片すら見せていない。自分に向けた顔といえば、嫌悪に歪んでいるものか、怒っているかのどちらかだった。
彼も知っているのだ。自分たちが一緒にいてもいいことはないと。
だから、追ってこない。
……でも、それでいい。そもそも自分たちの道は、あの駐車場で別れた時に完全に違えてしまったのだから。
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