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第7話
◆お忙しい方のためのあらすじ動画はこちら→https://youtu.be/7jZpotIPWwE
あれは、雪がちらほらと降る、寒い二月だった。
事故から一か月以上が経ち、集中治療室にいた崇も一般病棟へと移り、松葉杖を使えば自由に歩けるようになっていた。大学を一時休学していた上総もやっと復学の準備が整い、都内に戻る支度をしている途中だという。
久しぶりに電話をかけてきた本人によってそのことを知らされた崇は、話し合いの末、次の週にある谷山の四十九日に一緒に行くことにした。葬式の時は崇が意識不明、上総は警察との聴取や弁護士との示談で外に出られるような状態ではなかった。
寺の駐車場で何週間ぶりに会った上総を見て、崇はふいに涙ぐみそうになったのを覚えている。
上総はだいぶ痩せたようで、目の下や頬には疲労の影がかかっていた。どんな一か月を過ごしたのか嫌でも想像できて、「なぜ見舞いに来てくれなかったのか」と追求する言葉すら出なかった。それでも彼は気丈に笑っていて、松葉杖をつく崇を支え、「大丈夫だ。絶対、前みたいに歩けるようになる」と励ましてくれた。
足、心、生活、家族、友人関係……全てがボロボロに崩れ散った残骸の中で、上総の存在だけが、唯一のひだまりのように思えた。この人がいれば、どんなことでも乗り越えられる、とさえ思った。
だが、寺に足を踏み入れた瞬間、そんな小さな希望さえあっけなく砕け散った。
「どうして、あんたたちがここにいるのっ……!」
記帳台の横に立っていた喪服の女性が二人を見て、怪物でも見つけたように指差した。駅で谷山の送り迎えしていた姿を何度か見かけたことがある。谷山の母親だ。
彼女は、夢遊病にかかっているかのようにふらふら近づいてくると、血走った目で二人を睨みつけた。その頬はこけ、顔には生気がないのに、泣きはらした両の目だけは爛々と不気味に光っていた。
「あんたたちが、あの子を殺したの! あんたたちが死ねばよかったのに! なのに、どおして生きているのよぉっ!」
女性は砂利の地面に伏して、わあわあと泣き出した。夫とおぼしき男性がその背を撫でながら、崇たちの方に顔を上げた。厳しい、必死に怒りを抑え込んだ表情で、一言だけ言う。
「君たち、ここから出ていってくれないか」
その後のことはよく覚えていない。
二人とも一言も交わさず会場を出ると、ふらふらと寺の駐車場まで歩いていった。
二月の空は迫ってきそうなほどの青さと近さで、飛行機雲がまるで大きな切り傷のように空を引き裂いていた。
駐車場の入り口にある山茶花の木の下まで来たとき、上総がぴたりと立ち止まった。やがて、ゆっくりと振り返る。
向かい合った上総の瞳には、剥き出しの痛みと哀しみが見えた。暗く沈んだ瞳に、まったく同じ表情をした崇自身が反射している。
唐突に気がついた。
これから先、自分たちが顔を合わせる度、この痛みと哀しみ──自分と相手の──と向き合わなくてはいけないのだ。
そんなこと、耐えきれるのか?
上総も同じことを考えているのが、空気から伝わってきた。そのうち、二人はどちらともなく顔を逸らした。
「……俺たち……」
上総がぼそりと言った。山茶花の木の葉擦れにさえも負けそうな小さな声だった。
「……俺たち、もう会わない方がいいかもな……」
何と答えていいのかわからず、崇はじっと足下の砂利を見つめ続けた。
「どうして?」、「いつまで?」という言葉が次々と頭に浮かんだが、答えは誰よりも自分がよく知っていた。
だから、頷くことしか出来なかった。
「……じゃぁ」
と、上総が言う。続く言葉を待ったが、何もなかった。
「……じゃぁ」
と返すと、しばらく立ち尽くしていた上総が背を向けたのがわかった。視界から黒い革靴が消え、砂利の音が遠くなっていく。
ようやく顔を上げた時、青空の下、喪服の背中が道の向こうに消えていくのが見えた。
自分たちが会うことは、もう二度とないだろう。
ふいに確信した。
だが、何も感じなかった。もう何かを感じられるほどの心の感覚は残っていなかった。
くるりと背を向け、上総が行ったのとは反対の道に向かって歩き始める。
振り返りはしなかった。
その日、二人はお互いの存在と、互いの罪の重さに耐えきれなくなって別れた。
あれから六年。
地獄のようなリハビリを乗り越えて崇は歩けるようになった。ささやかながら自分の平穏な生活も手に入れた。
そんな時に、どうして彼はまた現れたのか。
どうして、自分はまだ彼を好きだと気づいてしまったのだろうか。
「……ッ」
目の奥がちくちくと痛んで、瞬きを繰り返す。足の下で枯れ葉が悲鳴のような乾いた音を立てた。
でも、もう大丈夫だ。上総は海外にいく。藤乃にプロポーズをして、次期社長となり、アメリカで満ち足りた家庭を築く。多くの仲間に囲まれ、色々なところへ行き、夜は誰かの腕の中で、安らぎながら眠るのだろう。
その時、自分は一人、あの何もない部屋で、同じような日々を過ごす。
──孤独だ。
この六年間、一度もそんなこと感じたことなかったのに、今になって思い知らされた。
誰も傷つけたくない。誰からも傷つけられたくない。だから、誰にも近づかない。
自分からそれを望んでいたのに、どうして今になって、こんなに虚しさを感じるのだろう。
上総を好きだと──彼に触れた瞬間に感じるあの、この上ない高揚感と安心感を再び知ってしまったあと、一人、あの孤独の染み着いたアパートに帰るのは、身を切られるように辛かった。このまま何事もなく、今までの平穏だが、何もない元の生活に戻ることができるのだろうか。足の痛みと悪夢とともに眠れない夜を一人、過ごすことに耐えられるのだろうか。
──疲れた。
心底思った。
この六年間、乗り越えてきた痛みと苦しみがまとめて戻ってきたみたいだった。右足が事故直後のように強烈に痛み出し、身体が鉛のように重くなる。
目の端で、前の横断歩道の青信号がチカチカと点滅しているのが見えた。だがそれは、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
後ろにいる人たちが、慌てたように小走りで横を通り過ぎていく。崇も急ごうとしたが、足が動かなかった。当然だ。自分は走ることができない。どうして、そんな簡単なことすら忘れていたのだろう。
道路の向こうから、猛スピードで車がやってくるのが見えた。でも、どうすることもできなかった。これ以上、早く歩くことはできないのだ。
──なら、いいか。もう何もかも手放して。
パーとクラクションの音がして、視界が真っ白な光に包まれる。
「崇っ……!」
突然、グイッと後ろから腕を引かれ、ひきずるように歩道の端まで連れていかれる。街路樹の植え込みに放り出され、伸びてきた手によって乱暴に胸倉を掴まれた。
「お前、何やっているんだっ……!?」
視界いっぱいに上総の引き攣った形相が広がる。
走ってきたのか、上総の額からは汗が垂れ、荒い呼吸のせいで肩が大きく上下していた。顔は青ざめ、白目は血走っている。整った歯が獣のように剥き出しになっていた。
「お前、死ぬ気だったのかっ……! どうなんだよっ……!」
さらに首元を引き寄せられ、苦しさから息が絶え絶えになる。焼きつくされそうな相手の視線を受け止めきれず、足元を見る。
「……違う……でも、そうなるなら、そうなってもよかった……」
「……くそッ!」
上総は地面を蹴ると、胸倉にかかった手を離した。街路樹にへたり込み咳を繰り返している崇を黒い目でじっと見下ろす。
「もう……知るか……」
ふらりと上総が動いた。そのまま立ち去るのだろうと、崇はぼんやした頭で思った。
だが、彼は立ち去らなかった。
「……もう知らない……お前の気持ちなんか……」
低い、静かな怒りに沈んだ唸り声。
次の瞬間、腕を引き上げられ、無理矢理立たされた。上総は近くにいたタクシーを呼び止めると、ドンと崇の背中を押し、車内へ押し込む。
「!? ダメだっ……! 車はっ……!」
慌てて降りようとするが、上総の大きな身体がドアをふさいでしまう。そのまま彼は崇を押し返すように、席へ座る。それでもまだ出ようと肩を押してくる崇の両の手首を掴むと、運転手に行き先を告げた。
訝しげにしていた運転手だったが、上総に急かされ渋々、アクセルを踏む。
ブロロ……とエンジンの音とともに、車が発進する。UV加工の窓から見える景色がゆっくり、徐々に速くなっていく。
「やめろっ……! 下ろしてくれっ……!」
できうる限りの力で、相手の手を振り切ろうともがく。パニックが、頭の中を駆け巡る。狭い空間にこもる独特な匂い。エンジンの振動。かすかに染み着いたガソリンの匂い。
事故の時の記憶が、太鼓の音のようにどんどんと迫ってくる。
「お願い、お願いだからっ……」
相手の肩にすがりつき、みっともなく乞願する。情けない奴だと思われようが、今はどうでもいい。
「大人しく座っていろ」
返ってきた残酷な響きに、最後の抵抗の力さえも失ってしまう。ぎゅっと目を瞑り、唇を噛みしめる。震えと吐き気が止まらない。息がどんどんと細く、荒くなっていく。視界がくらんで、倒れ込むように相手の肩に額をつける。
それでも手を拘束する上総の手は弛まない。もし、背中に回った上総のもう一方の手が崇の背を宥めるようにさすっていなければ、大声で叫びだしているところだった。
「その人、大丈夫なんですか?」
運転手が我慢しきれなくなったように聞いてきた。それに答える上総の声が頬に当たった相手の首筋ごしから、くぐもって聞こえてくる。
「昔、交通事故にあったんです。それ以来、車がトラウマで。ついた先に薬があるんで大丈夫です」
「そうですか。お気の毒に」
二人が昔からの知り合いとわかったからか、それとも薬の話を聞いたからかわからないが、運転手はほっと息をついた。
数十分ほど走ったあと、タクシーはある建物の前で止まった。上総は運転手にお金を払うと、崇の肩を抱いて降ろす。
狭い空間から抜け出た瞬間、疲れと安堵が一気に襲ってきた。崇は道の途中でへたり込んでしまった。
「崇。立って」
上総が腕を引いてきたが、骨の奥までどろりと溶けてしまったように身体に力が入らない。崇は子どもがするみたいにぶんぶんと首を振る。
「仕方ないな……」
大きなため息が聞こえ、膝裏に腕が回った。ふわりと浮遊感が続く。何事かとわかった時には、荷物のように上総に抱きかかえられ運ばれていた。
ふいに入院していた時の記憶が甦る。あの時は、よくこんな風にあちこち運ばれたものだ。ベッド、検査室、トイレ、リハビリ……。辛い日々を思い出して、喉に苦いものが溢れる。
「お願いだ……下ろして……家に──」
「ダメだ。文句があるなら、自分で歩いてみせるんだな」
前を真っ直ぐ見ながら歩く上総の顔は、鉄のように硬く、静かな怒りに満ちていた。
これから、どこへ連れていかれるのだろう。たとえ、そこが墓穴や焼却炉でもあっても文句は言わない。
だが、ついた先はどちらでもなかった。上総は確かな足取りで小さなエントランスを抜けると、エレベーターに乗り込む。チンと音がしてドアが開き、長い通路が現れた。通路の両脇には、飾り気のないスチール製のドアが並んでいる。
上総はその内の一つの前に立つと、片手で鍵を取り出す。
ガチャリという音とともに、ドアが開く。ふわりと爽やかな木と柑橘系の香りが広がった。
──上総の香りだ。
どうやら、ここは上総のマンションのようだ。
意外だった。大手企業の社員、それも次期婿社長候補なのだからもっといいところ、たとえば高級マンションの最上階あたりにでも住んでいると思っていた。
だが上総の部屋は、崇のものと大差ないように見えた。十二畳ほどのワンルーム。セミダブルのベッドと、某北欧ブランドの家具が数点。違うところと言えば、部屋の至るところに、荷物のまとめられた段ボールが積み上げられているところくらいだろう。
ふっと彼が海外に行くことを思い出し、胸が狭くなる。
窓際にはユッカエレファンティペス(青年の木)がぽつんと所在なげに置かれていた。深い緑色のカーテンの隙間からは、淡い月の光が筋となってフローリングの床に差している。先ほどまで、まだ夕方だったのに。寒くなる前の、暮れ時は本当に一瞬だ。
「……ッ!」
背中にあたった柔らかい衝撃で、崇は自分がベッドの上に放り投げられたとわかった。慌てて身体を起す。上総はベッドの脇に立ち、崇をじっと見下ろしていた。
彫りの深い顔は影になっていて、表情はよく見えない。ただ燐光のように静かだが、強烈な炎を含んだ瞳だけが薄闇の中、ぽっかりと浮かぶ。
「──脱げ」
沈黙の中、低い重々しい声が通る。
「は?」
言葉の意味が理解できずに固まっていると、上総の手が土埃で汚れた崇のスラックスにかかった。
「脱がないなら、俺が脱がせるぞ」
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