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第8話
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「ちょ、ちょっと待ってっ……!」
肩を押し返すと、相手は「なぜ止める」と問うように片眉を上げた。まったく意味がわからない。
「どうゆうつもりだよ。こんなところに連れてきて、こんな──」
上総はふんと鼻息をもらすと、説明するのも面倒だと言わんばかりの性急さで、崇のスラックスの裾にするりと手を入れた。
「……ッ」
死体のように冷えた右足に熱い体温がかかり、びくりと震える。その一瞬の隙に、上総の手はさらに上へと上がっていく。
戦慄が、崇の背筋を駆け上がる。
「やめろっ……! 見るなっ……!」
止めようと手を伸ばすが、相手のもう片方の手によって阻まれてしまう。肩を押し返そうとしても、強靱な男の身体は岩のようにびくとも動かない。
「ダメだ。お前の気持ちなど知らないと言っただろう」
すぐ耳元で囁かれる。その声は先ほどの怒りを含んだものとは少し違い、闇にとけ込むくらい静かだった。
「やめろ……お願いだから、見ないでくれ……」
無駄な抵抗だとわかりながらも、相手の肩口のシャツをぎゅっと握りしめる。喉の奥からしぼりだした声は、みっともなく震えていた。
はっと鋭く息を呑む声が、淡い闇に沈んだ部屋に響く。見ると、上総が露わになった崇の右足をじっと見つめていた。崇の青白いふくらはぎには、膝にかけて醜く大きな手術痕が生々しく残っていた。
上総が顔を上げる。月の光に照らされたその顔には、見間違えることのない憐れみの色が浮かんでいた。
「……やめろ。そんな目で見ないでくれ……」
崇は顔を伏せ、ギュッと目を閉じた。
「いや、見る」
きっぱりとした声が降る。
「お前の足を見ると、どうしてもあの事故のことを思い出すから、今までなるべく意識するのを避けてきた。けど、もうやめる」
そっと上総の手が足の傷跡にかかった。
「……話してくれ」
妙に喉にかかった、かすれた声だった。目を閉じていても、自分の膝にかかった上総の手が小刻みに震えているのがわかった。
崇は、ごくりと唾を飲み込む。
「……話すって一体、何を?」
「今まであったこと全部。あの駐車場で別れてから、今まであったこと、全部だ」
「嫌だ」
きっぱりと首を振ると、上総の手が顎にかかり上を向かせた。
「どれだけ強情なんだ? お前の気持ちは知らないと言っただろう」
上総はふっと笑った。再会してから、初めて自分に向けられた笑顔だった。高校の時の無邪気なものとは違う。苦み走って、ところどころ擦り切れているような笑顔。でも上総は、確かに笑っていた。
まさか、こんな場面で見られるとは。どう見たって今の状況は笑える場面ではない。
「……っ」
上総の親指が唇をなぞり、崇は初めて、自分が血の滲むほど強く唇を噛みしめていたことに気がついた。
「どうして、そこまで頑なになるんだ? 一体、何を隠そうとしている? 守ろうとしている……?」
優しく気遣うような声音に一瞬、ほだされそうになったが、振り切るように首を振る。上総の深く長いため息が続いた。
「……あの事故のあとすぐ……」
永遠に続くかと思われた沈黙のあと、上総がぽつりと呟く。それは息を潜めないと消えてしまいそうなくらい小さく、虚ろな声だった。
「うちは引っ越したんだ。ネットに住所をさらされて、イタズラが絶えなかったから。うちは母子家庭で、正直、家賃を払えるだけの経済的余裕もなかった。弁護料とか賠償金も嵩む一方だったし。母は必死に働いてくれたけど、それでも首が回らなくなって、比較的入りやすいこの市の県営住宅に引っ越したんだ。俺も大学を辞めて、土木建設の現場でバイトを掛け持ちして、何とか親子二人で暮らしていていた。お前の見舞いに中々いけなかったのもそうゆう訳なんだ……」
崇は呆然と顔を上げた。
「……まさか、そんな……俺、てっきり大学に戻ったとばかり……電話くれた時もそう言っていただろう?」
「心配かけたくなかったんだよ。あの時のお前には、もっと集中すべきことがあったから」
足にかかった上総の手の指が、そっと崇のかさついた肌の上を撫でる。痛みともむずがゆさとも違う何ともいえない感覚に、皮膚がぴくりと反応する。
「お前は……? 崇のところは地元に残ったんだよな? ご両親もまだそこに?」
上総が顔を覗き込んできて、崇は落ち着かず自分の手元に視線を移す。
「……たぶん。もう何年も帰っていないからわからないけど」
「なぜ?」
と問う声は、責めているようでも詰問しているようでもなかった。
崇は、神経質に唇を湿らせた。
「事故のあと、家族の俺を見る目が変わった。表面的な態度は変わらなかったけど、時折、ふとした瞬間に感じるんだ。何というか、理解しきれない、異常なものを見るような……まるであの事故で本当の息子は死んで、身体だけ悪魔に乗っ取られてしまったみたいな。それに耐えきれなくなって、退院したと同時に、この街に引っ越してきた」
ぽつりぽつりと話しているうちに、だんだんと止まらなくなっていた。
車のブレーキや救急車のサイレンの音がすると、今でも緊張してしまうこと。車にも乗れず、会社まで毎日徒歩で通っていること。
悪夢に苛まれて眠れないこと。
聞きながら、上総は頷き、時に「俺もだ」ともらした。相手の視線の先を辿ると、上総のベット脇のチェストの上に、薬が置かれていることに気がついた。
ぐらりと強い衝撃を覚える。
どうして今まで気づかなかったんだろう。上総は崇にとってあの事故の苦痛を思い出させる一番のきっかけであるが、同時に、あの時の苦痛を最も共感し合える存在なのだ。
崇はここに来てから初めて──いや、再会してから初めて、真っ直ぐに上総を見た。
「先輩は? そのあとどうしたの? どうして今の会社に?」
気がついたら、昔の呼び方に戻っていた。相手もそれに気づいたのか、わずかに表情を緩ませる。
「バイトで勤めていた会社の人にツテがあって、紹介してくれたんだ。崇も会っただろう? 青柳さん。お前のところのオフィスの施工を担当している会社の頭領。あの人が色々よくしてくれてさ。あの人の期待に応えるためにも朝から晩まで働いた。働くことだけがあの事故のことを──お前のことを思い出さない唯一の手段でもあったから」
上総は哀しそうに微笑みながら、崇の足の傷をさすった。
「何より、早く借金を返したかった。母を楽にさせてあげたかった。あんなことがあったあとでも、母は俺を見捨てないで、身体が壊れるまで働いてくれた。家族が俺しかいないっていうのもあるかもしれないけど」
ふいに上総は言葉を詰まらせると、堪えきれなくなったように眉間に手をおいた。
「……あの人、毎晩、泣くんだ。俺が遅くに帰ると。『あんただけは失いたくない』って。俺はあの人を安心させるためにも早く借金を返して、いい会社に入って、いい人と結婚して、幸せな家庭を持たなくてはならない。誰もが幸福と認めるような理想的な生活を手に入れれば、母もきっと安心するだろうから。そのためなら何でもする。事故の前の理想的な息子に戻ることが、あの人にできる唯一の恩返しだから……」
低く呟くような声が、しだいに揺れ、大きくなっていく。
「なのに、どうして……全てがうまくいこうとした時に、お前は俺の前に現れたんだっ……!」
自らの声の大きさに驚いたのか、上総ははっと身体を引いた。片手で髪の毛を掻きむしる。
「……ごめん……お前を責めるつもりはないんだ……俺、混乱してて……」
陰影のためか、上総の顔は何十才も年をとってみえた。その眉間にはくっきりと皺の痕が刻まれ、目の下には濃いクマが浮かんでいる。頬はげっそりとこけ、短い髪がほつれて額にかかる。
彼の気持ちは、痛いほどよくわかった。
今二人がしているのは、慰め合いではない。お互い、いくら平静でいようと努めても、今の状況は相手の傷口に手を突っ込んで腐った膿をかき回しているのと同じだ。平気なふりなんて絶対に出来ない。
でも──だからこそ、全てを隠し通すことも出来なかった。
「俺は……先輩が……憎かった。殺してやりたいほど憎かった……」
あの時のことを話すのは、血を吐くより辛かった。知らずに声が震えてしまう。
「駐車場で別れたあと、俺を待っていたのは、いつまで続くかわからない手術とリハビリの繰り返しだった。両親とも気まずくなって、警察と弁護士以外、病室を訪ねてくる人もいなかった。病室の番号もネットにさらされて、一度も会ったこともない、行ったこともない土地の人間から、菊とか白や黒だの花束やカミソリ入りの脅迫状が送られてきていた。やっと夜になったと思ったら、今度は、あの時の記憶と痛みがフラッシュバックして眠ることもできない。毎日毎日が、地獄との戦いだった」
こみあげてくる嗚咽を抑えるため、一度、言葉を切る。腹の前で組んだ手をグッと握りしめた。
「でも一番辛かったのは……先輩があそこにいてくれなかったことだ。俺が一番あんたを必要としている時に、あんたは影も形もなかった。確かにあんたの顔を見ると、あの夜のことを思い出してどうしようもなくなる。でも、それでもいいから、側にいて欲しかったっ……! 『大丈夫だよ』って言って欲しかったっ……!」
「崇っ……」
上総の手が組んだ崇の手に伸びた。だが崇はグッと膝を自分の胸元に引き寄せてそれを避ける。驚きと絶望とで目を瞠った上総に、歪んだ笑みを向ける。
「あの時、心も身体もボロボロだった俺が、どうしてリハビリを頑張れたと思う? もし歩けるようになったら、真っ先にあんたのところに行って、この手で殺してやろうと思ったからだっ……!」
狭く暗い部屋に、自分の泣いているような笑っているようなかすれ声が反響する。相手の顔を直視することができず、立てた膝の上に額をつける。
「大輔は……俺の作業療法士は、それでもいいって言ってくれた。どんなものでも希望あれば前に進めるって。その日から、俺は死ぬほど真剣にリハビリに取り組んだ。復讐してやりたかった。俺たちは同罪なのに、あんな風に俺を切り捨て病院に置き去りにして、自分だけ何事もなかったように普通の生活に戻っていったあんたにっ……!」
とうとう言ってしまった。この六年間、ずっと心に秘め、心の支えにし、やがて心の底に沈めた思いを。
「それが……」
上総は一言一言、舌の上で確かめるようにゆっくりと言った。
「それがお前の隠しておきたかったこと……? 守ろうとしてきたことなのか?」
「怒る?」
「いや」
返ってきた声に怒りはなかったが、代わりに深い失望があった。
「……それなら何で殺しに来てくれなかった? そしたら、もっと早く会えたはずだ……」
「冗談だろう? もちろん会いにいくつもりなんてなかったよ。警察には一生分世話になったし、運良く刑務所行きだけは逃れることができたんだ。そこまで自分を貶めることはできない」
遅れて、崇はあることに気がついた。
「何、あんたは俺に会うつもりだったの……?」
上総は無言で頷く。
「あの駐車場で別れたあと、どうしても我慢できなくなって、お前の家に電話をかけたんだ。退院したって聞いたから連絡先だけでも知っておきたくて。そしたら崇のお父さんがでて、『これ以上、息子を傷つけないでくれ』って切られた」
「は?」
崇は思わず顔を上げた。
「父が? まさか、そんなはず。あの人は仕事が忙しいって言って見舞いにも来なかったし……俺が、先輩のことで苦しんでいたのも知らないはず」
言っていて自分でもわからなくなった。あの頃は大量の痛み止めのせいで常に頭がぼおっとしていて、自分が何をしているかも、誰と話しているかも把握していなかった。大輔にぶちまけてしまった時と同じように、もしかしたら誰かに何かを言ってしまっていたのかもしれない。
忘れてしまったことが多すぎる。あまりにも。もしかして、他にもまだ大事なことを忘れているのかもしれない。
ベッドのスプリングがギシッと鳴って、ハッと現実に引き戻される。
上総は崇の足の両脇のシーツに手をついて、祈るように頭を垂れていた。
「その時、気づいたんだ。やっぱり俺はお前の側にいるべきじゃないって。俺の存在がお前を傷つけるだけなら会わない方がいいって……わかっていた……でも、俺は……」
続きはいつまで経っても、聞こえることはなかった。しかし丸まり小刻みに震えている上総の背中から、彼の心の声が直に伝わってくるようだった。
──会いたかった。でも会えなかった。
なぜわかるか。それは、自分も同じ気持ちだったからだ。
今になって、ようやく気がついた。きっと自分たちは、会わないことでお互いを守ろうとしていたのだ。
崇はこみ上げてきそうになるものを押し込め、シーツをきつく握り締める相手の拳にそっと手をかけた。
「先輩。あなたは俺がこの世で一番嫌いな人だ。でも同じくらい、この世で一番好きな人だった」
なぜ過去形にしたのかはわからない。これ以上、自分に守るものでもあるとでもいうのか。
わからなかった。ただ今出来たのは、相手の拳をきつく握り締めることだけだった。
「…………」
上総は小さく何かを言ったかと思うと、次の瞬間、崇の身体を思い切り抱き寄せた。崇の首筋にざらついた呻き声がかかる。
「……あんなことがあっても、俺が最後の最後まで自分を嫌いになれなかったのは、お前が……崇がいてくれたおかげだ。俺は、あの時、多くの過ちを犯した。その中で唯一、お前の命を救えたことだけが、俺のできた正しいことだった」
「先輩? 何、言って──……」
ドクドクと耳元で鳴る心臓の音がうるさかった。フラッシュバックのように、崇の脳裏に先日見た夢の中の光景が甦ってくる。
自分の名を呼ぶ声。強くつながれた手。
──いや、違う。あれは夢じゃない。
気がついたら、口が勝手に動いていた。
「先輩は……ずっと俺の手を握っていてくれた。足が挟まれて車から出られなかった時も、救急車で運ばれている時も、手術室から出てくる時も、集中治療室にいた時もずっと」
「覚えているのか……? ずっと意識不明だったのに……?」
「覚えていない。でも見たんだ。夢で」
夢。だけどあれは夢じゃない。
今思い出すと、辻褄があった。
あれはきっと、昏睡中、無意識下にとらえていた上総の声や感触が夢となって再現されたものに違いない。だから、あんなにもリアルに感じることができたのだ。
上総は力なく笑い、背中にかかった手に力を込めた。
「手術が終わったあと、担当の先生に言われたんだ。俺がずっと呼び続けていたから、お前の意識がぎりぎりのところでこの世につながっていたって。たぶん、俺を慰めるために言っただけだろうけど」
ふるふると首を振る。自分の髪が上総の肩口のシャツとこすれて、さらさらと音をたてた。何年たっても変わらない相手の匂いが胸いっぱいに満ち、ふいに強ばっていた身体から力が抜けた。
広い背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
「……ありがとう。俺を救ってくれて……」
答えるように、上総の腕に力が入った。今にも泣きそうな声が、触れた肌ごしに木霊する。
「誰が何と言おうと、俺たちは生き延びたんだ。だからもう、さっきみたいなことは絶対にしないでくれ。お願いだから……」
自分より一回り大きな上総の身体は熱く固かったが、少しでも動けば壊れてしまいそうなほどもろく感じた。崇は回した手で、そっと震える背中を撫でる。
どれくらいそうしていただろう。合わさった胸元から、とくとくと互いの鼓動と体温が溶け合い、合わさっていく。
この六年間、ここまで穏やかな気持ちになれたのは初めてだった。安堵と喜びの温かい波の中を漂っているみたいだ。
気がついたらお互い、唇を重ねていた。どちらからかはわからない。まるで吸い寄せられるように、自然に顔が近づいていた。
そのうち十代のような遠慮がちで不器用なキスが、角度を変える度、どんどんと深く、濃くなっていく。
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