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第9話
◆お忙しい方のためのあらすじ動画はこちら→https://youtu.be/7jZpotIPWwE
「……っ」
歯が当たり、舌が競い合うようにぶつかる。どちらも引き下がらない。この六年間、何も食らっていなかった獣のように、ただ互いの唇を貪りあう。息継ぎの間にもれる相手の吐息と、髪をまさぐる手が、さらに身体に火をつけていく。
「……あっ!」
首の後ろのシャツを引っ張られ、気がついたら崇はベッドに押し倒されていた。上総の大きな体が覆いかぶさってきて、再び獣のようなキスが始まる。するりと上総の手がシャツの隙間から入ってきて、その熱さに息がまた上がった。
「上、総っ……」
ダメだ。このままではダメだ。このままでは、また同じ過ちを繰り返してしまう。
わかっているのに、止めることはできなかった。
プルルル……。
その時、どこかで電話の音が鳴った。
雷にでも撃たれたかのように、二人はパッと身体を離す。はあはあと荒い息づかいが部屋に響く中、驚きの表情で互いを見つめる。そのうち上総は自分が何をしようとしていたのか気づき、パッと崇のシャツから手を離した。
電話は一度切れ、数秒後、また鳴った。
「俺じゃない。お前じゃないのか?」
コートのポケットから携帯を取り出し確認した上総が、気まずそうに視線を寄越してくる。
「え?」
ようやく現実に追いついた崇は、ベッドの脇に転がっていたコートに手を伸ばす。ポケットの中でバイブしている携帯を取り出し、慌てて通話ボタンを押した。
『出たっ! 良かった! 崇さん、今どこにいるんですかっ!』
苛立ったような焦った声が、スピーカー越しに響いてきた。後ろから病院のアナウンス音と、くぐもった人の話し声が聞こえてくる。
「……大輔? どうしたんだ?」
乱れた息を押し込めて、できるだけ普段通りの調子を装う。肩で携帯を支え、シャツのボタンを直す。ちらりと上総の方を盗み見ると、彼はベッドの端に座って、ぼんやりとフローリングを見つめていた。
その背中を何となしに見ていると、電話の向こうから呆れ果てた声が聞こえてきた。
『どうしたって、今日、病院の予約、入っていたでしょう?』
「えっ」
腕時計を見ると、予約を入れていた時間からゆうに三時間も経っていた。どうしてこんなに時間が過ぎるのが速いのか。いや、それよりも、自分たちはどれくらいの間アレを続けていた?
崇はベッドから下りると、キッチンのある廊下に出た。背でドアをパタンと閉める。
『今、どこにいるんですか?』
大輔も静かな場所に移動したのか、先ほどよりも声が近くに感じられた。
「どこって……家だよ。ごめん。すっかりと忘れてた。先生には謝っておいてくれないかな」
『それは別にいいですけど。それより大丈夫ですか? この前会った時も、足、痛そうにしていたから、てっきり何かあったと思って』
「いや、大丈夫だよ。ごめん。今まで待っててくれたんだろう? 時間を無駄にしちゃってごめん」
『崇さん? どうしたんです? 声、変ですよ?』
どきりと心臓が鳴り、慌てて喉を引き締める。
「大丈夫。本当に、何でもないから」
言い聞かせるように言うと、はあっと、大きなため息がスピーカーにこもる。
『知っていますか? この世であなたの「大丈夫」ほど、あてにならないものはないんですよ。僕が「何かあったら連絡下さい」って何回言っても、あなたがこの五年間で、僕に助けを求めてきたのは、たった二回! 近所で飼っている毒蛇が部屋に出た時と、この間の映画館の時だけ! この五年間で! 二回!』
穏やかな彼にしては珍しく、皮肉と苛立ちがこもった言い方だった。
「そうは言っても、俺はもうお前の患者じゃないんだ。何かある度、助けなんて呼べないし、お前も駆けつける義務なんてないんだよ」
『何言ってるんですか。友達だからですよ。辛いときに駆けつけてあげられないようなら友達なんてやっている意味ないでしょう? 僕が知らないとでも思っているんですか? あなたの眠剤と安定剤の量が増えたことを?』
「そうだとしても……これは俺の問題だ」
『あなたって人は、どこまでっ……!』
大輔の声の中で、呆れと侮蔑と憤りが弾ける。
『もう我慢ならないから言いますけど、僕はあなたが好きなんです。友達以上に思っている。あなたもそれは薄々感じていたでしょう? 気づかないふりをしていたみたいですけど』
「それは……」
『言わなくてもいいです。どうせあなたのことだ。僕が何か決定的なことを言い出そうものなら、こっそり人知れず消えていたでしょうね。あなたの大好きな平穏な生活とやらのために。あっ、これも答えなくていいですからね』
これでは告白されているのか、説教されているのかわからなかった。
「大輔……俺には、お前にそこまで想ってもらう価値なんてないよ……」
『それは、あなたが決めることではないでしょう?』
苛立っていた大輔の声が、ふっと真剣なトーンに変わる。
『俺があなたの担当についたのは、年の近い僕の方が打ち解けやすいんじゃないかっていう上の人の判断でした。その時の僕はこの職についてまだ二、三年で、一人で担当につくのも初めてだったし、職場にも慣れきってなかった。周りは女性ばかりで、そうゆうところに若い男が一人いると王子様扱いされるか、いじられるかのどっちかなんです。僕は後者の方でした。もちろんいじめとかいう訳ではなくて、好意で接してくれていたと思うんですけど、たまにどうしようもなく辛く思える時があって。あなたも中々、俺に心を開いてくれないし、この仕事自体が自分に合っているのかわからなくなって……そんな時、たまたま看護士さんたちから寄ってたかっていじられている時に、偶然あなたが居合わせて、言ってくれたんです。いつもの辛辣なジョークでズバッと。看護士さんたちはその場では笑っていましたけど、あとから何人か「気がつかなくてごめんね」って謝りにきてくれて。それから、ふっと職場で息をするのが楽になったんです』
「は……? 俺、覚えていないけど?」
『いいんです。僕が覚えていれば。それにあなた、覚えていないこといっぱいあるでしょう。痛み止めのせいにしてますけど』
カッと頬に熱が集まる。
「う、うるさいな。あー、ってか、ナースの人たちが俺のこと遠巻きにしていたのって、そういうことか。ウザがられてたわけね」
『違いますよ。あなたは完全に王子様扱いでした。しかも暗黒 な方の』
くすくすと笑う声が聞こえて、崇はほっと息をついた。スピーカーにさらに声を寄せる。
「そう言うけどさ、お前、案外図太いから、俺が何かしなくても結局、自分で何とかしていたと思うよ」
『それでも、あなたは俺にとってのヒーローなんです。だから、あなたが自分自身を卑下するのは許せないし、自ら一人になろうとするのも黙っていられない。もちろん一人になりたい時があるのはわかります。だからと言って、他人を切り捨てて、自分を追い込むのは止めて下さい。人はそんな風に人を、自分を切り捨てられない。切り捨てちゃいけないんです』
「大輔……」
『あんなことがあって、他人が、自分が怖いのはわかります。僕も自分の気持ちを伝えるのは、あなたがちゃんと人と向き合える準備ができるまで待つつもりでした。だから、今すぐ返事が欲しい訳じゃない。ただ、もしあなたの準備ができたら教えて欲しいんです。僕だけじゃない。あなたの周りにいて、あなたを気遣う人たち全員に。ただ一言でいい。〝ハロー〟と』
大輔はそれ以上何も聞きたくないと言うように、プツリと電話を切った。ツーツーという電子音が、遠くの星からの信号のように鼓膜に響く。
「何の電話?」
部屋に戻るなり、ベッドに座っていた上総が顔を上げた。部屋にはいつの間にか照明が灯され、どこにでもあるような蛍光灯の光のもと、殺風景な部屋が写し出される。
くそ。何で気づかなかったんだろう。上総の部屋は、その気になれば明日にでも出て行ってしまえるくらい片づいていた。
崇は辺りを見回しながら、背中でドアを閉めた。
「病院からだった。予約の時間が過ぎてたから、心配してかけてきてくれたみたいだ」
「すまない。俺のせいだ。足はどうだ? もし、まだ痛むようだったら今からでも病院へ行くか?」
「いや、足の方はもう大丈夫。全然痛くないし」
強がりではなかった。ここ数日、死ぬほど痛んでいたのが幻だったみたいに、足の痛みは引いていた。
「そうか、なら家まで送っていくよ」
上総は落ち着かなそうに立ち上がると、鞄からキーを取り出した。
彼の気持ちはよくわかった。自分に早く出ていって欲しいのだ。これ以上、何か間違いが起きる前に。
責めるつもりはない。むしろ、これ以上ないくらいよく理解している。
「いや、いいよ。さっきのでトラウマがひどくなったから」
上総は今になって自分のしたことを思い出したのか、大きな肩が下がる。
「ご、ごめん……あの時は、ちょっと頭に血が上ってて……」
「嘘だって。冗談だよ」
くすりと笑うと、上総は一瞬呆けた顔をしたあと、ふはっと小さく吹き出した。
「くそっ、忘れてた。お前がそういう奴だったってこと」
拳を口元につけ、くくくと喉で笑う上総を見て、崇も知らず笑っていた。
張りつめていた空気が、ふわりと温かい親密なものに変わる。まるで昔に戻ったみたいだ。
どうして、忘れていたんだろう。
上総が笑うと、男らしい精悍な顔立ちがどんなに甘く溶けるか。声がさらに低くハスキーがかるか。
そんな彼を見て、自分の胸がどんなにきゅんと狭くなり、幸福に満たされるか。
──だが、もう遅い。何もかもが遅すぎたんだ。
崇は手に持ったコートをはおり、床に落ちていた鞄を拾った。
「車はごめんだけど、良ければ駅まで送ってもらえないかな? 場所がさっぱりわからなくて。何なら地図でもいいけど」
「いや、送っていくよ。お前は、俺が会ってきた中でも絶望的なほどの方向音痴だから」
「そういうことを、どうして覚えているかな」
「あははは」
上総は大きく笑うと、キーケースから部屋の鍵を取り出し、しばらく指の間でいじっていた。次に振り返った時、彼はもう笑っていなかった。
「……じゃぁ、行くか」
「……あぁ」
歩き出した上総について部屋を出る。内ドアを閉める時、廊下からちらりと後ろを振り返った。
きっと何日かしたら、彼はこの部屋からいなくなってしまう。自分の人生からも。永遠に。
(本当に、それでいいのか……?)
後ろを見ながら歩いていたら、玄関前で立ち止まった上総にぶつかりそうになった。
「映画館で会ったあいつとは、付き合っているのか……?」
振り向くこともなく言われた言葉に、崇は一瞬、誰に向けられた問いなのかわからなかった。
「大輔……? いや、付き合ってはない。……まだ」
先ほどの電話での会話が脳裏をかすめる。
「じゃ、これから、付き合うのか?」
数瞬考え、ふるふると首を振る。
「わからない。でも、もっとあいつのことを知りたいって、今は思ってる」
それだけで上総はわかったようだ。「そうか」と言って、玄関のドアを開けた。
秋のひんやりした夜気が、隙間からすうっと入ってくる。数週間前まで台風がきていたというのに、季節はいつの間にか秋へと変化していっているらしい。このぶんでは、冬もあっという間だろう。
〝愛の思い出がない冬は辛い〟と言った『めぐり逢い』のヒロインではないが、容赦のない寒風は脆弱な右足の骨にしみじみと染みた。
ふいに、この部屋を出る前に──二人っきりでなくなる前に、どうしても聞いておかなければならないと思った。
「一つ……聞きたいことがあるんだけど、高校の時、先輩は俺のこと……少しでもいいから気にかけてくれてた……?」
上総がドアを半開きにしたまま、振り向いた。その顔にはとらえることのできない複雑な表情が浮かんでいた。
遠くを見つめるような目が、何かを探すように宙を彷徨い、伏せられる。
「……想っていた。たぶん自分で想うよりも、ずっと強く深く……」
ロマンチックな言葉のはずなのに、どうしてこんなにも胸が押し潰されるように切なくなるのだろう。
あの頃に時間を巻き戻すことができたら、どんなにいいか。でもそれが出来ないから人には郷愁という感情があるのだろう。
「……じゃぁ、つまりその、先輩はゲイなの……?」
考え込むように一拍おいたあと、上総は首を振る。
「わからない。男で好きになったのはお前だけだから」
「じゃぁ、女はたくさん?」と、聞こうとして止めた。今は自分の悪趣味な皮肉で、この──最後の──穏やかな時間を壊したくはない。
「でも、そうだな……そうなのかもしれない……俺は本当の意味で女性に惹かれたことはないのかもしれない……守ってあげなくちゃと思うだけで」
上総はノブに手をかけたまま、長いため息をつき天井を見上げた。迷子の子供のような風情に、ふいに抱きしめてやりたい衝動にかられた。
だが、そんなことしてどうなる? 余計、話をややこしくするだけだ。
「……じゃぁ、彼女にも言ってないの……?」
上総はぴくりと眉を上げ、視線だけを崇に向けた。
「ゲイであるかもしれないことを? 誰に? 藤乃か、母?」
答えずにいると、上総はゆっくりと首を振った。
「どちらも言うつもりはない。藤乃にも、母にも」
「……辛くはないの……?」
と聞くと、上総はさらに眉をひそめ、やがてふっと疲れの滲んだ瞳を伏せる。
「辛い。特に、一番に理解してもらいたい人に言えないのは。でも母は俺なんかよりも、もっと辛かったはずだ。最愛の夫を事故で亡くして、その息子が事故なんか起こして。彼女のためにも俺は──たとえゲイであろうと、藤乃と結婚して、母が叶えることができなかった理想の家族を作りたい。そのためだったら、俺の苦労くらい、辛いうちには入らない……」
ふいに思った。この人は自分とは違った意味で孤独なのだと。崇は人を遠ざけることで自ら孤独になった。でも上総は人に囲まれ愛されながらも、その深い部分ではまったくの孤独だった。
一体、どちらがより辛いのだろうか……?
「行こう。そろそろ電車の時間だ」
上総が通路へと出て、崇のために片手でドアを押さえる。
ぐっと胸が狭くなる。あと少しでお別れなのだ。それを実感して、足取りが重たくなる。のろのろと時間を稼ぐように、上総の腕の下を横切る。
「……俺たち、どうしてまた出会ったりなんかしたんだろうな……」
その時、上総がぽつりと呟いた。
「え?」
と、顔を上げると、ドアを押さえたまま自分を見下ろしてくる上総と間近で目があった。
「だってそうだろう? この六年間、偶然にも同じ市に住んでたっていうのに、一度も会ったことはなかった。でもやっとお互いの生活が落ち着いて、これからだって時に、こうしてばったりと会ってしまった。もし運命というものがあるなら、これはどうゆう意味なんだろうなって……」
言い終わるより先に、上総は首を振った。
「すまん、忘れてくれ。あと少しで日本を離れるから感傷的になっているだけだ」
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