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第11話
◆お忙しい方のためのあらすじ動画はこちら→https://youtu.be/7jZpotIPWwE
誰かの腕の中で起きることが、こんなに満たされたものなのだと、初めて知った。
窓から差し込む夜明け前のおぼろげな光の中、上総は目を閉じ、規則正しい寝息をたてていた。短い髪はあちこち跳ね、枕に半分埋まった顔は若く安らかそのものだった。まるであの頃──十代の頃に戻ったかのように。
「……おはよう」
そおっと瞼を開けた上総に言うと、寝ぼけまなこの相手の顔に、微笑みが波紋のように広がる。目元は蕩けて下がり、口元には小さなえくぼ。瞳にはゆったりとした光のプールが湛えられている。怒りや苦みもない、ただ穏やかで安心しきった笑顔だった。
「おはよう。……こんなに眠れたのは久しぶりだ」
「俺もだよ」
柔らかな暗闇の中で、見つめ合う。
上総の手が伸び、崇の細い髪を撫でる。崇も相手の腰に手をからませ、しっとりした背中の肌の感触を楽しむ。
──心地よい。
崇の心臓は、ぱんぱんに膨らんだ風船のように幸福に満たされていた。この何週間で味わってきた眠れぬ夜の苦痛と疲労は何もかも消えていた。
カーテンからもれる光はほのぼのと白んできて、時折、鳥の影が通り過ぎていく。
もうすぐ夜が明ける。そしたら、今度こそ言わなくてはいけない。あの言葉を。いくら素晴らしい夜を過ごそうとも、自分たちにとってこれは始まりの朝ではないのだから。
崇の目に浮かぶ痛みを読みとったのか、上総が鼻筋に皺を寄せ、首筋に顔を寄せてきた。崇は受け入れるように、硬くしっとり汗に濡れた髪を撫でる。
「今日、仕事は?」
くぐもった声で、上総が聞く。
「ある。先輩は?」
「ある」
どれくらいそうしていただろう。やがて上総がのそりと顔を上げ、明け始めた空を睨んだ。
「……そろそろ起きなくちゃな。コーヒー入れてくる」
上総はベッドから出ると、クローゼットから出したスウェットを履き、キッチンへと消えた。ピーとお湯が沸く音が聞こえてくる中、崇もベッドから起き出す。キッチンに行く前に上総が用意してくれた真新しいシャツに腕を通す。
フィルターから落ちるコーヒーの滴をじっと見ていた上総は、キッチンにやってきた崇に気づき、振り返った。下だけしか履いていない上総の引き締まった上半身は、朝日よりもまぶしかった。
「やっぱり、ちょっと大きかったな」
コーヒーマグを手渡しながら、上総がちらりと崇の全身をかすめ見る。
「お前、高校の時から見た目全然、変わっていないな。最初、再会した時はびっくりしたぞ。ついに俺は、あの頃のお前の幻覚まで見るようになったのかって」
コーヒーを受け取り、一口飲む。
「先輩が大きくなっただけだよ。高校の時は身長以外、そんなに変わりなかったのに」
「柔道やっていたからインナーマッスルはついてたぞ。ただそれからはずっと肉体労働していたから、ごらんの通り。昨日、散々見ただろう」
にやりと笑った顔は、びっくりするほど意地が悪かった。初めて見る邪悪な一面に驚いていると、上総は崇の腰を引き寄せ、指先でシャツの裾をすくう。
「この分だと、下、着なくていいんじゃないか」
「何言ってるんだ。やめろよ。くすぐったい」
狭いキッチンで、あははと笑いながらじゃれ合う。まるでもう何年も一緒に夜を過ごし、朝を迎えてきた普通のカップルのように。
「朝、食べて行く時間は? 簡単なものなら作れるけど」
冷蔵庫の中を覗きながら上総が聞いてきた。崇は横のシンクに寄りかかり、コーヒーをすする。
「ある。その、そっちが良ければだけど」
「いいに決まってるだろう。確かパンがあったはず。卵もそろそろ使いきらなきゃいけないから、オムレツでも作るか」
「作れるの?」
「バカにするなよ」
男二人、狭いキッチンでオムレツづくりにいそしむ。「そこのこしょう取って」と上総が言うと崇が手渡し、「バターがない」と上総が言うと「油でもいいだろう」と崇が返す。一連のやりとりを繰り返して、ようやくコーヒーテーブルに朝食が並んだ。
その頃には日は完全に登り、開け放たれたカーテンから漂白されたような秋の日差しが入り込んできていた。ひんやりした風にのって、鳩のドゥードゥーという鳴き声が届く。窓際のユッカエレファンティペスが、ゆっくり明けていく一日の始まりを静かに見下ろしていた。
部屋は、焼きたてのパンとコーヒーと太陽の香りで満たされた。適当につけたテレビから「長く続いた雨も終わり、やっと秋の晴れが──」と朗らかなキャスターの声が流れてくる。
二人はパンをかじりながら、くだらない話を言い合った。天気の話から始まり、職場や同僚の話、テレビや映画、高校の時代、お互い好きだった歌手の話……。
話が尽きることはなかった。これまでの六年間の壁がまるでなかったみたいに、次から次へと言葉が溢れてくる。
ふいに、高校の時もそうだったことを思い出した。
二人とも自分から話すタイプではないのに、ぽつりぽつりと話しだすといつまでも話が続いて、気づいた時には何時間も経っていたりする。よく谷山に笑われたものだ。「主将ったら、タオル取りに行くって出て行ったのに、いつまでも帰ってこないと思ったら、やっぱり崇だった!」。
ひねくれて冷めているところがあった崇は、あまり多くの人と付き合うタイプではなかった。数少ない友人たちも不良とは言わないまでも、一癖ある奴が多かった。一方の上総は穏やかで人当たりも良く責任感もあり、教師や大人から受けのいい真面目な好青年だった。
なのに、根本的なところで二人の感覚はかちりと噛み合っていた。崇にとって上総と一緒にいることはどんなことよりも容易く、どんなことよりも心を躍らせるものだった。普段は穏やかで寡黙な上総の方も、崇のくだらない冗談にげらげら笑っては、よく一緒に冗談を言い合った。
突然、全てが惜しく感じた。もしかして自分たちが一緒にいれば、何もかもうまくいくのではないだろうか。昨晩、彼の腕の中でなら何の不安も痛みも恐怖も感じることなく眠れたように。
そう思ったら、逸る口を止めることができなかった。
「アメリカから帰ってくる予定はないの?」
形は何でもいい。もし友達としてでも、上総の人生に関われるなら。
彼が結婚して、子供を持って、家族をつくっても、他の誰かの腕の中で目覚めたとしても、ただ側にいることができるなら……。
上総は手に持ったコーヒーの表面をじっと見、やがて首を振った。
「……いや、わからない。帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれないし……」
それだけでわかった。たとえ帰ってきたとしても、上総には自分と連絡を取り合う気はないのだ。
ありがたかった。この感傷はたぶん、今ある素晴らしい朝を極力長引かせたい自分の弱さなのだ。
思いつきで「やり直そっか」と思えるほど、自分たちの間にあるものは生やさしくはない。うまくいく証拠などどこにもないのだ。
一時の感情に走った行為が、どんな悲惨な結果を生むか、よくわかっているつもりだった。なのに上総を前にすると、いつも自制が効かない。この六年間、必死になって作り上げてきた理性までもが、簡単にぐらぐらと揺らいでしまう。
「たか──」
上総が何かを付け足そうとした時、テレビから臨時ニュースが流れた。
『速報です。本日明け方六時、××高速で、トラックと自動車との衝突事故が発生しました。現在──』
テレビ画面いっぱいに横倒しになったトラックと、無惨に潰れた自動車の映像が写し出される。
遠くからサイレンの音が響いてくる。それがテレビから聞こえてくるものか、それとも自分の記憶の中から聞こえてくるものなのか崇にはわからなかった。
上総の方を見ると、彼も自分の方に顔を向けていた。
大きく見開かれた瞳は、虚ろなほど暗かった。血、肉片、ガラスの破片、ガソリンの匂い、痛み、熱さ。彼が、あの日のことを思い出しているのがありありと見通せた。
たぶん、上総も自分の瞳に同じものを見たのだろう、速報が終わってしばらくしても、二人は一言も話さず、微動だにしなかった。まるで見知らぬ人を見るように、互いを見つめ合う。
「そろそろ時間だな」
重い沈黙を破って、上総が腰を上げた。通りすがり際、崇の肩を叩く。
「……大丈夫だ。何でもないよ」
その手は震えていた。
崇は目を閉じ、再び開けた。
世界は一変していた。あれほど和やかだった時間は消え去り、あとに残ったのは事故の記憶と、互いの存在に戸惑う二人だけだった。
終止符は打たれたのだ。
静けさの中、崇は乾燥機で乾かしたシャツに着替え、上総はキッチンで後かたづけをしていた。
二人とも忙しいふりをして、視線が合うのを避けているのは明らかだった。この時、お互いが見ないようにしていたのは、お互いの存在か、それともこのあとにくるものか。たぶん、どちらもだろう。
「じゃぁ、俺はそろそろ行くから。一度、家に寄りたいし」
腕時計を確認すると、鏡でネクタイを直していた上総がはっと顔を上げた。鏡越しに目が合う。
「あ、あぁ……」
言葉は続かなかった。何か言おうとして口が開かれるが、結局ゆっくりと閉じられた。崇も何か言わなきゃいけない気がするのに、どう言葉にしていいのかわからなかった。
刻々と時間は迫る。
先に口を開いたのは、崇だった。
「……谷山の四十九日なんだけど……」
鏡越しに見える上総の肩が、緊張に張る。
「……あぁ、知ってる」
「……行く?」
しばしの逡巡のあと、上総は首を振った。鏡ごしに送られる視線は、ここではないどこか遠くに向けられていた。
「いや、行けないと思う。その頃にはアメリカにいるから……崇は?」
「……俺も。丁度、オフィスの本格的な移転がその時期だから」
上総は頷き、崇も頷いた。
二人とも、本心が違うところにあることは気がついていた。
行けないのではなく、行きたくないのだ。
あの憎しみと哀しみのまじった谷山の母親の顔を、もう一度見るなど耐えられない。あれが二人の関係を決定的に打ち壊した瞬間だからこそ余計に。
「ごめん……駅まで送ってやれそうにない」
玄関までついてきた上総が言った。申し訳なさそうな、それでいてどこか安堵している表情だった。
崇はわかっている、というように相手の肩をぽんと叩いた。びくりと上総は身体をひきつらせる。が、やがてゆっくりと力を解き、相手の肩を叩き返す。
昨日、あんなにも激しく身体を求め合った同士とは思えないほど不器用なやりとりだった。
「寂しくなる。お前がいないと」
真面目な声音で言われた冗談に、崇はくすりと笑った。
上総が自分と同じく、相手の存在を持て余しているのはわかっていた。でも、それを言わないでいてくれるところに彼の優しさを感じた。
愛おしさと切なさが、胸の中いっぱいに広がる。崇は、ポケットの中で拳を握りしめた。
「昨日は、ありがとう。俺の望みを叶えてくれて……それと、ごめん」
自分が何について謝っているのかわからなかった。
謝ることが、あまりにも多すぎる。
上総に復讐するためにリハビリを頑張ったこと。自分の我が儘で彼女を裏切らせてしまったこと。そして、周りが見えなくなるほどに彼を好きになってしまったこと。──出会ってしまったこと。
上総は全てを受け入れるようにゆっくりと頷いた。それが合図だった。
──さぁ、さよならの時間だ。
崇はポケットから手を出し、相手の前に差し出した。
「じゃぁ、あっちに行っても元気で」
「幸せに」と続けようとして止めた。
彼は必ず幸せになる。そのために、これまで努力してきたのだから、幸せにならなくちゃいけない。
言葉の代わりに笑顔を浮かべる。引き攣って失敗していることは自分でもわかっていた。しかし取り繕う気もない。
上総はしばらくの間、じっと崇の手を見ていたが、やがてそっと握り返してきた。
「……あぁ、そっちも、元気で」
どちらともなく手を離す。パタンと、ドアの閉まる音が響いた。
──さぁ、さよならの時間だ。
崇はポケットから手を出し、相手の前に差し出した。
「じゃぁ、あっちに行っても元気で」
「幸せに」と続けようとして止めた。
彼は必ず幸せになる。そのために、これまで努力してきたのだから、幸せにならなくちゃいけない。
言葉の代わりに笑顔を浮かべる。引き攣って失敗していることは自分でもわかっていた。しかし取り繕う気もない。
上総はしばらくの間、じっと崇の手を見ていたが、やがてそっと握り返してきた。
「……あぁ、そっちも、元気で」
どちらともなく手を離す。パタンと、ドアの閉まる音が響いた。
アパートのエントランスを出ると、太陽の光がちくちくと目を刺した。通勤時間にはまだ早いからか、通りに人はいなかった。どこからか朝食の匂いが漂い、ゴミ収集車が移動する音が聞こえてくる。電信柱の上で、雀たちが忙しないコーラスを披露していた。
何でもない朝。しかし崇にとっては、今までとは全てが違う朝だった。
この世で一番愛していたものを失い、代わりに一番の苦痛が去った。
喜んでいいのか、哀しんでいいのかわからない。
決めるより前に、一筋の涙が頬をつたっていた。
この六年間、大輔の前で倒れ込んで大号泣して以来、涙なんか流したことなどなかった。
深呼吸を繰り返す。これからどうするかなんて、まだ考えられない。
でも、いつかは──。
「待ってくれっ!」
エントランスのドアが開く音に、心臓が跳ね上がる。
違う。まさか、そんなはずはない。
期待と恐怖が入り交じった思いで、振り返る。
エントランスを抜けた外階段の上段に、上総がいた。両手を膝につけ、荒い息で肩を上下させている。
「どうした?」
と問おうとして、声がかさついて出ないことに気がつく。ひたすら相手が何か言うのを待つ。
上総は、乱れた呼吸の合間に言った。
「もし、俺が帰ってくると言ってたら……また、会ってくれるつもりだったのか?」
「帰ってくるの……? いつ?」
やっと出た声は、やすりのようにひび割れていた。
「わからない。でも仕事でこっちに寄る機会もあるだろうし、休暇にも帰ってくるつもりだ」
上総の言わんとしていることがわかって、腹に大きな氷がずしりとのしかかる。
相手が何も答えないのを見て、上総が一歩一歩近づいてくる。こつこつと、タイル張りの地面にその足音が響く。
「お願いだ。イエスと言ってくれ。今になって思い出した。お前とくだらない話をしていることが、お前といることがどんなに自然で心地のいいことか……ずっと忘れていた、こんな気持ち。高校の時は毎日がこんな風だったって。あの事故があってから、お前のことはなるべく考えないようにしてきたけど……でも、やっと思い出したんだ……」
自分の頬をつたい、顎から伝い落ちるものが涙か汗か、崇にはよくわからなかった。口元に手をあて、震えそうになる声を引き締める。
「会うのは……友人として……?」
「それは……わからない……でも、お前が側にいて触れないでいる自信はない……」
はっと顔を上げると、上総が青白く、歪んだ笑みを浮かべて目の前に立っていた。こんな上総は知らない。
「まさか……本気で言ってるの……? つまり俺に愛人になれと……? アメリカにいる奥さんには仕事だと言って、ついでに日本に男を抱きにくるつもりなのか?」
カッと上総の顔が赤く膨らむ。噛みしめられた唇から、低く粗い声がもれる。
「崇っ、俺は、お前をもう失いたくないんだっ……!」
聞きたくなかった。昨晩、「藤乃を裏切れない」と言っていたあの誠実な男に、こんなことを言わせてしまう自分が最高に嫌だった。
「……何もかも失うことになっても? また俺たち二人のせいで誰かが傷ついてもか?」
「それは──」
上総が全て言い終わる前に、崇は首を振っていた。
「無理だ。出来ない。あんたにも、もちろん出来ない」
何より嫌だったのは、もし上総が必死に説得してきたら、自分が受け入れてしまいそうなことだった。
上総の電話ひとつで駆けつけて、一夜をともにし、朝になれば家に帰る彼を見送る。そして自分は誰もいない冷たいアパートに帰る。なんて安っぽいメロドラマだ。今よりも、もっとみじめで情けない。
それでも上総に会えるのなら、どんなみじめさも喜んで受け入れてしまいそうになる。あの事故の時のように他の何もかもをさしおいて上総を選び、最悪な形で周りの人たちを傷つけてしまう。
自分たちが一緒にいるといつもそうだ。最悪なことしか起こらない。
崇は下を向き、力なく首を振った。
「……俺たちは、たぶん二人でいない方がいいと思う。昨日、どんなに言い繕っても、俺が先輩に藤乃さんを裏切らせてしまったことは事実だし……」
「あれは、俺が決めたことだ……後悔はしていない」
そう言いながらも、上総の声は後ろめたさと嘆きでかすれていた。
「お前は、俺といて何も感じなかった? 本当に、ただ〝さよなら〟をするためだけにあんなことをしたのか……?」
「こんなことをするためじゃないことだけは確かだよ」
昨晩自分が言ったセリフだと気がついて、上総の顔がさらに厳しくなる。
「崇。言葉遊びをしている訳じゃない。何が問題だ? 俺が結婚することか?」
苛立ちと焦燥にかられた声が続く。
「もし……俺が結婚しないと言ったら……? 何かが変わるか?」
「やめてくれ……これは言葉遊びでもないし、甘ったるい駆け引きでもない。俺たちにそんなものは存在しないんだ」
崇はじっと自分の足先を見つめたまま、相手と自分に言い聞かせるように言う。
「……先輩はできない。俺が歩けるようになるために何でもしたのと同じで、先輩はこの六年間、今の生活を作り上げるために、理想の息子になるために血の滲むような努力をしてきた。俺が足を失えないのと一緒だ。あなたも今の生活は失えない」
上総はぐっと押し黙った。彼が何か──崇が過ちを犯すのに十分なほど甘美な何か──を言い出す前に、崇は続けた。
「それに、俺たちの間にあるものは、結婚とかそうゆう問題じゃない。わかっているだろう?」
足元のアスファルトには、灰色のシミがポツポツとできていた。一瞬、雨が降ってきたと思って見上げたが、空は完璧なくらい晴れていた。それなのに、シミはどんどんと増えていく。
「俺も今朝、改めて思い知ったんだ。先輩といると、誰といる時よりも安らげる。でも誰といる時よりもあの事故のことを思い出してしまう。ささいなこと一つひとつで、どうしようもなくなる。まるで天国にいながら地獄にいるみたいだ。俺はきっと、そんなのには耐えられない。そんなに強くないんだ。今だってもうこんなにボロボロなのに、気づかないふりをして一緒にいることはできない。今はいいかもしれない。でもいつか、きっといつか、またお互いの存在に耐えられなくなる日がくる。相手を呪い、罵り合う時がくる。もしそれでまた、あなたを失ってしまったら、俺はもう──」
──もう二度と立ち上がれない。
最後の最後になって、徹底的に思い知らされた。
この恋に未来はない。
どこまでいってもこの恋が行き着く先は、車の残骸が散らばる、あの寒い冬の日だけ。それ以外、どこにも行くことはできない。
「ごめんっ……ごめんなさいっ……俺だって一緒にいたいっ……でも──」
残りの言葉は、崇の胸の中で消えた。それがわかったのか上総は、崇の震える身体をこれ以上ないくらいに強く抱き締めた。
「……わかってる。ごめん……もう何も言うな」
耳元にかかる上総の吐息は、熱く震えていた。崇はじっとして動かず、相手の肩越しに見える空をただ呆然と見つめた。晴れすぎた空は涙で滲んで、雨空のように色さえもくすんで見えた。
「お前は強い。誰よりも」
背中に回った上総の腕に力が入り、さらに声が近くなる。
「でももし、これから先、何か辛いことがあったら、たとえどこにいようと、誰といようと俺がお前を想っていることだけは忘れないでくれ。俺との間にあった他の全てのことは忘れてくれていい。だけど、ただ一つ、これだけは覚えておいてくれ」
上総は顔を上げると、崇の額にそっとキスをした。
「愛してるよ。初めて会ってから、ずっと」
さようなら、と最後に囁き声が聞こえ、ふっと身体にかかっていた重みが消えた。
空から顔を戻した時、上総の背中は既にエントランスのドアの向こうにあった。広い肩は何かを堪えるかのように張っていたが、その足取りは力強かった。
「……俺も……愛してる……だから、さようなら……」
声には出さずに呟く。
たとえこの先、何人の人に〝ハロー〟と言っても、彼以上に愛する人には出会わないだろう。彼以上に自分を満たしてくれる人はいない。
それでも人生は続く。
それを、みじめなこととはもう思わない。
昨晩、二人の間にあったことはただのセックスではない。彼は空っぽだった自分の身体と心を満たしてくれた。自分は二度も、彼に命を救われたのだ。
その命をもうこれ以上、みじめなものにはできない。自分は何があっても幸せにならなくちゃいけないのだ。遠くで祈ってくれる上総のためにも。
くるりと、エントランスに背を向ける。一歩一歩ゆっくり、しだいに早足に歩き始める。右足は重かったが、もう痛くはない。通り過ぎる家々の玄関にはリースやイルミネーションが飾られていた。
今年のクリスマスはケーキでも買おうかと、ふと考える。誰かと食べたって、一人で食べたっていい。それとも久しぶりに、実家に顔でも出してみようか?
しばらく考えて、コートのポケットから携帯を取り出す。メッセージ作成画面を開き、一言だけ打ち込んだ。
〝ハロー〟。
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