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$4.金は天下の回り物

  「郁さんおかえりなさいませ。食事はいかがなさいますか?」  郁が帰宅し玄関に入るなり食事担当が問いかける。食事は用意されてるが食べるかは郁の気分次第。夜11時を回っても帰宅し有無を確認するまでは仕事は終わらない。  「今日はいい。すぐシャワーにする」  「かしこまりました。すぐご用意します」  部屋同様バスルームはもちろん郁専用があり誰も立ち入らないプライベートゾーンにある。 使用人が多くいる家だが特に人と会うのを嫌う郁。それも全員把握しているため清掃も準備も郁がいない時間に行い。終わるとすぐに退散する。  相当な事がない限り家主と使用人とも接さない、それが暗黙のルールだ。  数分後、バスルームにはキッチリ決められたアロマの香りとお湯加減が完璧に準備されていた。 天然大理石のバスタブは一人では有り余るほどで、郁はド真ん中にもたれながら手を広げ両膝をつき疲れを癒す。 至福の瞬間だが今日はいつもより外の気温が高く、あまり長く入らずお湯から出た郁。  部屋に戻って快適な温度の中でも身体は火照ってまま。パソコンを見るとバスルームにいた40分の間に業務メールが次々に届いていて、郁は疲れた表情でモニターを切った。  「ふぅ、少し外出て気分転換するか」  時間はちょうど日付を超えた頃。もちろん寝静まった神崎邸の庭には使用人の姿はなく小さな明かりと防犯カメラの赤いランプだけが光る。  犬小屋と表現するには立派過ぎる小屋に愛犬達の吠える声が静かな庭に響いく。郁は何だ?と気になって近づいていく。 緩く開いた扉から動く灯りが見えて、郁はドアを持って思い切り勢いよく開けた。  「おいっ!そこにいるの誰だ!?」  『わっっ!!、、ッ痛ってぇ!』  突然の大声に中腰で何かを探していた初人が尻もちをついてた。    「お前何してる!?すぐ警備呼ぶから動くなよ」  『違うっ!使用人ですよ!清掃係!』  「清掃係?、、にしても見ない顔だな」  『あのー…今日から働かせてもらってます』  「そうか。それなら教えといてやる。そうゆうだらしない格好で彷徨(うろつ)くな。教わらなかったか?」  急いで準備したせいか誤って父親のスエットを持って来てしまった。小柄は初人は上下グレーのスエットは裾も袖もブカブカでサンダルを履いた靴から引きずって歩いている。  『あっ、、すいません』  「それより深夜にここで何してる?」  『えっとー…制服の蝶ネクタイを落として探していました』  「それで見つかったのか?」  手にした赤い蝶ネクタイを郁に見せる。犬達のおもちゃになってボロボロになった蝶ネクタイに、腕を組んで冷ややかな視線を向ける。まだ何か言われるだろうと覚悟するようにじっと郁から発せられる言葉を待つ。  「こいつらに吠えられるようじゃこの家での仕事も不安だな」  『だってまだ初日ですし、あっでも清掃の仕事は慣れて、、』  「"だって"と"でも"は俺の前では口にするな。言い訳する奴は嫌いなんだよ」  神崎邸をスエットで歩く者はまずいない。訓練を受けた3匹は見慣れない格好と怪しい行動の初人に不審者だと警戒したようだ。  「犬を盗みに来た奴が侵入したかと思った」  『いや盗みって……こんな怖い犬盗みにくる奴いないと思いますけど』  「アホか。そこら辺の犬と一緒にするな!三匹とも血統書のショーで何度も優勝している特別訓練受けた犬だ。値段にすると100万はする」  『はぁ、、そうですか』  金持ち自慢にうんざりな顔で顔を背けてそう言った初人に近づき顎を持ってクイっと顔の距離を縮めて目線を合わせた郁。    「つまりお前より賢くて値打ちがあるって事だ」  その言葉に初人は目つきを変えて睨むように郁を見る。金持ちの貧乏人を見下すような発言は散々聞いてきた。その都度腹がたって仕方がなかったが、今の状況だって言い返せば計画が台無しになる。とにかく我慢するしかない。  「何だ?文句でもあるか?」  『……いえ、、ありません』  数秒間お互い見つめたまま郁から目を逸らし手を顎から外す。初人は蝶ネクタイをギュッ握って軽くペコッと頭を下げてその場から立ち去ろうとした。    「おいっ待てよ。お前名前は?」  『……新見慧です』  「覚えておいてやる」  『いえ!俺なんか犬以下で覚えてもらうほどの人間じゃないので大丈夫です。それじゃ失礼します』  走ってその場から逃げるように出て行った初人の背中を見つめながら郁は何か思いついたようにニヤリと口角を上げた。足元に集まってお座りでご主人様に従順な愛犬達を、だいぶ身体の火照りもなくなった大きな手を撫でた郁。  静かな夜のひと騒動はこれからの二人のほんの短いプロローグだった。  

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