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1 桜の木の下で

 散り際の桜の木の下に、彼は立っていた。黒の学生服に身を包み、舞い散る花びらを追いかけては掌に受け止めている。後頭部で束ねた深い(あけ)色の髪、透けるような白い肌が印象的だった。   「君は……」    俺の声に、彼はふんわりと髪を揺らして振り向いた。   「おはようございます」    まるで妖精か天使のような容姿をしているのに普通に人間の言葉を発したので、俺は少々戸惑った。   「……先生? ですよね? おれの担任の先生ですか?」 「あ、ああ……そうだ。君がいつまでも職員室に来ないから、捜しに来たんだ」 「だって、中庭にこんなに綺麗な桜の木があるなんて知らなかったから。もっと近くで見てみたくて」    花吹雪に吹かれ、彼は笑う。長い前髪から翡翠色の瞳が覗く。若葉の芽吹き始めた桜は瑞々しく、生き生きと輝いていた。        彼――高月(あきら)は、今日転入してきた生徒だ。俺のクラスで受け持つことになった。学期の初めに転入してくる予定だったが、引っ越しが遅れたために転入も十日ほど遅れた。彼を伴って職員室に戻り、学校のことやクラスのことや今後の流れについて説明する。渡した資料に、彼は静かに目を通す。    それにしても、本当に日本人離れした――というか、人間離れした容姿をしている。染髪やコンタクトレンズをしているわけではなく生まれつきというのは事前に聞いていたが、想像よりも大分、いや、かなり美しい。声もまた、その容姿にふさわしく中性的で、声変わり直後の少年のような、危うげで甘やかな響きを孕んでいる。   「……先生?」    少々見つめ過ぎたようだ。翡翠色の瞳がこちらを向いた。   「やっぱり、黒染めした方がいいですか?」 「……誰かにそう言われたのか?」 「だって、先生がじっと見てくるから……」    高月は困ったように前髪を弄る。   「やっぱりおかしいですよね。週末、美容院に――」 「待て待て、誰もそんなこと言ってないだろう。俺はただ美しいと思って……」    口が滑ったと思った。初対面の教師にいきなり褒められても気味が悪いだけだろう、と思ったのだ。しかし、高月の反応は予想とは大きく異なっていた。照れたように頬を赤くして、前髪で目元を隠してしまう。   「う、美しい……ですか?」 「……綺麗だと思うが……」    つい言葉を濁したが、彼は嬉しそうな顔をする。   「そんなこと言ってくれたの、青山先生が初めてです。普通あんまり言及しないし……」 「今までに何かトラブルでも?」 「中学までは結構……最近はそうでもないけど、最初は大体みんなぎょっとしたような顔をするんです。外国人と間違われたりして……。しょうがないとは思うんですけど、やっぱり、なんだか……」    申し訳ないが、俺も君を天使か妖精かと見紛った。本人には言わないでおこう。   「だから、担任の先生が青山先生みたいな人で良かったです」 「買い被りすぎだ。俺はただ思ったことを言っただけで……。しかし、もしも今後容姿のことでトラブルがあったら――ないとは思うが、遠慮せず言いなさい」 「はい。これからよろしくお願いします、先生」    高月はにこりと微笑んだ。まるで花が綻ぶような笑顔で、俺はますます彼に釘付けになった。        人間関係は第一印象が重要だという。高月は俺をよく慕ってくれるようになった。日直でもないのに提出物を集めて持ってきてくれたり、授業で使った資料や教材を職員室まで運んでくれたり、時には弁当を持って押しかけてきて、一緒に昼食を取ろうと言い出したりする。   「この卵焼き、おれが作ったんだ。先生も味見してください」    するともしないとも言っていないのに、俺の仕出し弁当の隅に載せてくる。期待の眼差しを向けられては堪らず、一口に頬張った。   「甘いな」 「卵焼きといえば砂糖でしょ。もしかして先生、しょっぱい方が好き?」 「いや、俺も砂糖派だ」 「ほんとですか! よかったぁ」    高月の弁当は、毎朝お母さんが作って持たせてくれるらしい。昨晩の夕食の残りと、冷凍食品のおかずが入っていることが多い。   「すまないがそろそろ……」 「もう?」 「午後の準備があるんだ」 「先生、明日の昼休みは……?」    そう尋ねられて、特定の生徒とばかり親しくなるのは教師としてはあまり良くないと思いつつ、   「特に予定はない」    と答えた。昨日も似たようなやり取りをした。        授業中は、目の合う確率が尋常じゃない。板書を終えて説明のために前を向くと、柔らかな陽射しに包まれた窓際最後列の席に座る彼と、高確率で目が合う。目が合うと、それまでずっと俺の後頭部を見つめていたはずの高月は、ふいと恥ずかしそうに目を伏せる。板書を書き写すわけでもなく、教科書で顔を隠したり、窓の外を眺めたりなんかして。    体育の授業中もそうだ。俺が他のクラスで授業をしていた時、ふと窓の外へ目をやると、校庭でキャッチボールをしていた高月と目が合ったことがあった。少し笑ったように見え、手を振られたように感じた。高月は投げられたボールを取り零して、わたわたとグラウンドを走っていた。白の体操服が、他の生徒のものよりも一層白く、眩しく見えた。   「授業中ぼんやりするのはやめなさい」    ある時注意すると、高月は悪びれずに言った。   「ぼんやりなんてしてないです」 「してるだろう。一番後ろの席でも、教卓からは丸見えなんだぞ。もっと集中しなさい」 「だって……」    何が不服なのか、つんと唇を尖らせる。   「先生のせいだ。先生を見るのに忙しくて集中できない」 「君なぁ……無茶苦茶な屁理屈を言うな」 「だって先生が……」    何か言いかけたがそれ以上聞くのはまずい気がして、彼の頭をぽんと撫でた。初めて触れた髪の毛は、綿菓子のようにふわふわしていた。       「青山先生、最近ぼんやりしてること多いですよね」    同僚の女性の先生に言われて初めて気が付いた。   「そう見えますか」 「ええ、まぁ。お疲れですか?」 「転校生のことで少し……」 「ああ、高月くん。いい子ですよね。青山先生に随分懐いていて」    やはり、周囲の目からしてもそんな風に見えるのか。   「懐いてるっていうと語弊がありますかね。でもあの子がすぐに学校に馴染めたのは担任の青山先生のおかげでしょうから、慕われるのも当然ですよ」 「それにしても限度ってものがありませんか。最近は放課後まで勉強を教えろと言ってうるさくて……」 「勉強しないよりずっといいじゃありませんか。二年のこの時期から受験を意識してるなんて、かなり期待できますよ。むしろもっと褒めてあげては?」    そうだろうか。勉強を教えてほしいと理由を付けて社会科準備室に押し掛けてくるが、実際にしていることといえばただの自主学習だ。そもそも高月の成績は申し分なく、俺がわざわざ見てやる必要もない。自習室へ行った方がいいんじゃないかと何度か言ったが、   「先生といる方が集中できるんだ」    などと、以前言っていたことと矛盾するようなことを言う。ただ、俺にも責任はあるのだ。高月が傍にいると、普段よりも仕事が捗る。彼のシャープペンを滑らせる音、本のページを捲る音がどうにも心地よく、強く言って追い出すことなど到底できるはずもない。   「うちのクラスの子達にも見習ってほしいくらいですよ。修学旅行が終わったら、ぼちぼち受験対策を始めてくれると嬉しいんですけどね」 「修学旅行か。もうすぐですね」 「来年は旅行なんて行ってる余裕ないですから、仕事とはいえ楽しみですよ」        昨今は修学旅行の行き先に海外を選ぶ高校も多いそうだが、うちの高校は毎年沖縄へ行くことになっている。歴史や文化、自然環境について学べ、さらには海水浴まで楽しめる、実に理想的な旅行先である。しかし旅行とはいえ仕事だ。テンション爆上がりの生徒達が羽目を外して事件事故を起こさないよう、常に気を張っていなくてはならない。    朝は早く、夜は遅く、移動のバスで睡眠時間を確保して、三日目には大分疲れが溜まっていた。その日は午後からマリンスポーツ体験の予定が入っていたが、生徒にはインストラクターが付いてくれるため、教師陣にとっては束の間の休息時間であった。ホテルの一室でのんびりコーヒーなんか飲んで、気ままに浜辺を歩いてみたりして。   「青山先生!」    浅瀬で遊んでいた高月が駆け寄ってくる。   「先生も泳ぎに来たんですか?」 「俺は泳がない。そろそろ点呼の時間だから見に来たんだ」 「えー? 泳げばいいのに」    そう言って、俺の座るビーチチェアの隣に腰掛ける。   「先生の泳ぐところ、見てみたかった」 「こんなところで油を売ってないで、みんなと遊んできたらどうだ。自由時間もそろそろ終わりだぞ」 「いいんです。もう十分遊んだから」    膝丈の水着からすらりとした白い脚が覗く。上は薄手のパーカーのようなものを羽織っている。肌の露出は控えめなのに、濡れた衣服が肌にぺったり張り付いて透けている様が、いやに艶めかしく見えた。結った髪もしっとり濡れて、白蜜のような汗が項を伝い、太陽を浴びて煌めいている。   「先生?」    高月は困ったように笑い、前髪を弄る。   「どうしたの? おれの顔、なんかついてますか?」 「いや、何も。暑いな」 「そりゃ暑いですよ。東京は秋だけど、こっちはまだ真夏だもん」    疲れているせいだろうか。妙なことを考えたものだ。俺は立ち上がって、少し早いが集合の号令を掛けた。        夕食後、生徒達を入浴させた後、教員も順番に風呂に入る。束の間の休息時間その二である。大浴場へ行くと、運良く貸切状態だった。部屋にユニットバスが付いているので、他の先生方はそっちで簡単に済ませるのだろう。    一日の疲れを癒やすべく広い風呂で足を伸ばしていると、不意にドアが開いた。てっきり、誰か他の先生がやってきたのだと思った。   「っ……先生!?」    しかし、浴場に響いた声は成人男性のものとは程遠い。少し掠れて上擦っていて、あどけなさを残した響き。   「高月!? な、なんでここに……?」    彼も驚いていたが、俺の方こそ驚いた。まさか風呂で鉢合わせになるなんて。生徒の入浴は済んだはずではないのか。   「ご、ごめんなさいっ。一応許可はもらったんだけど……」 「それなら構わないが……」    しかし生徒と風呂で二人きりというのは気まずい。さっさと上がろうとすると、待ってくださいと高月が言った。   「すぐ洗ってそっち行くんで! 待っててください」    仕方なく、浮かした腰を湯に沈めた。  普段ポニーテールにしている髪が、ふんわりと肩に流れている。頭からシャワーを被って髪を濡らし、多めにシャンプーを取って洗っていく。もこもこの泡が緋の髪を包み、細い背中を伝って流れて、排水溝に吸い込まれていく。   「先生! 隣、いい?」    体を洗い終えた高月が、遠慮もせず湯船に入ってくる。肩まで浸かって、気持ちよさそうに溜め息を吐く。   「ふぅ……あったかくて気持ちいい」 「……そういえば、具合はもういいのか」 「はい。薬も効いてきて、もうすっかり元気です」    風呂で鉢合わせた衝撃で忘れていたが、高月は夕方から体調を崩し、養護の先生に付き添われてずっと休んでいたのだ。だから通常の時間に風呂にも入れなかった。   「昔から、強い陽射しが得意じゃなくて。全然駄目ってわけじゃないけど、長時間外にいると頭が痛くなるんです」 「だから体育の授業でも帽子を被っているのか」 「はい。たぶん眩しいのが駄目なんで、帽子被ったり日陰にいれば大丈夫なんです。でも今日はちょっとはしゃいじゃった。楽しくって」 「まぁ、今日は特別だからな。高校の修学旅行は一生に一度きりだ」 「うん。だから後悔はしてないんだ。でも次はもっと気を付ける」    熱くなったのか、体を半分ほどお湯から出した。大きなクリップで大雑把に纏め上げた髪の、柔らかそうな後れ毛から雫が滴る。長湯のせいか日焼けのせいか、白い肌はほんのりと上気して――それから、見てはいけないと思いつつ目が行ってしまった薄い胸の尖端も、淡く色付いて濡れている。   「先生」    高月の声に我に返った。幸い、彼は俺の視線に気付いていない。ただ、知らぬ間にじわじわと距離を詰められ、今にも小指が触れそうであった。   「先生、おれ……」    熱っぽい目で見つめられると勘違いしそうになるからやめてほしい。勘違いも何も、そんなことあるはずがないのだが、今日は妙なことばかり考えてしまう。きっと疲れているせいだ。それとも逆上せているのだろうか。湯中りでも起こしたか。   「おい、そんなに……」    近付くな、と言おうとした。が、子犬の鳴き声のような音に掻き消された。高月は腹を押さえて恥ずかしそうに笑っている。   「お腹空いちゃった」 「……随分と可愛らしい虫を飼ってるな」 「夕ご飯、ちゃんと食べられなかったから」    一人でどきどきしていたのが馬鹿みたいで、つい笑みが零れた。高月はきょとんと首を傾げる。   「そんなに変な音でしたか?」 「いや、ううん。子犬がミルクをねだっているみたいで、微笑ましかった」 「えっ、どういうこと、それ」 「何でもない」    愛らしいのは彼自身だ。無邪気で無垢で純粋で、幼気な子供のよう。熱っぽい視線だなんてとんでもない。そう見えたのは、俺がそう感じただけのこと。彼はきっと、まだ何も知らないのだろう。    大浴場を出て部屋とは反対方向に曲がると、アイスクリームの自動販売機が置いてある。二本買い、ソファに並んで食べた。彼にはチョコチップバニラ、俺はチョコミント味。高月は、チョコミントは歯磨き粉みたいな味がするので苦手だと言った。俺も子供の頃はそうだったが、今食べるとさっぱりとして美味かった。   「それじゃあ、そろそろ」 「先生、もう行っちゃうの」 「明日の打ち合わせがあるんだ。君も早めに部屋に戻るように」 「……アイス、ありがとうございました」 「クラスのみんなには内緒だぞ」    気分は実に爽快だ。もしもこの先、彼が少しばかり成長して、その上で心変わりを起こさなかったとしたら、その時こそ全てを手に入れることが許されるに違いない。

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