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2 初恋

 初めてあの人に出会ったのは、桜の散り始めた新緑の季節だった。転入初日のその日、おれは人生で一番緊張していた。引っ越しが大幅に遅れ、そのせいで転入の時期もずれてしまったのだ。進級と同時にならまだしも、こんな微妙な時期に転入だなんて。クラスの雰囲気も既に出来上がっているだろうし、馴染めるかどうか不安だった。    特に気掛かりなのは、一風変わったこの容姿。赤い髪に緑の目は、海外では悪魔の象徴らしい。同じ色を持っていたという祖母がどんな扱いを受けていたのかは知らないが、そんな迷信とは関係なく、ここ日本ではとにかく悪目立ちする。血色の悪すぎる青白い肌も、悪印象を抱かせるのに一役買っている。    けれど、出会ったばかりのあの人――青山(すぐる)先生は、こんなおれのことを美しいと言ってくれた。それまでの迷いも憂いも全てが一瞬で吹き飛んで、この上なく晴れやかで誇らしい気持ちになった。未来がきらきら輝いて見えた。    そして始まった学園生活は、毎日が希望に満ち溢れていた。学校が楽しくて仕方ないなんて、いつぶりの感覚だろうか。朝のホームルームが待ち遠しい。先生に名前を呼んでもらえるだけで心が弾む。休憩時間に言葉を交わせるだけで嬉しくて、用事もないのについ話しかけてしまう。    昼ごはんを一緒に食べたいとお願いすると、困ったような顔をしつつも何だかんだ付き合ってくれる。先生に食べてほしくて、母さんに教わって初めて卵焼きを作った。お世辞かもしれないけど、甘くて美味しいと言ってくれた。卵焼き記念日と名付けたいくらい嬉しかった。    授業中は先生の姿ばかり追いかけている。ネクタイをきちんと締めたスーツ姿が格好よくて目が離せない。でも、目が合うとなぜかどきどきして顔が熱くなって、先生のことをまともに見ていられなくなる。ぼんやりするなと注意されたけど、体が勝手に反応するのだからどうしようもない。    一時期成績が酷くなって、放課後社会科準備室で勉強を見てもらっていた。成績が回復してからも先生のところへ通い続けたが、先生は決しておれを追い出さない。お互いの息遣いさえも感じる放課後の教室に二人きり。オレンジ色の夕焼けが眩しい。この時間は、他の何物にも代え難い。        冬休みが明けて一か月ほど過ぎた。三年生が自由登校期間に入ったため一二年生しかいない学校はここ最近ずっと静かだったが、今日は何やらみんなそわそわしていた。特に女子が、女子同士でお菓子を交換してはしゃいでいるらしかった。   「はい、高月くんにも義理チョコ」    一人の女子が、個包装された小粒のチョコレートをおれの机に置く。   「チョコ?」 「うん。今日、バレンタインだからさ。お徳用パックで買ってきたから、みんなに配ってるの」 「バレンタインか、今日」 「そーだよ。まさか、忘れてたの? 男子ってみんなバレンタインに期待してるもんだと思ってた」 「特に意識したことなかった。貰ったこともなかったし」 「そーなんだ。今年は貰えるといいね、本命チョコ」    彼女――斉藤さんは、他の男子にもお徳用チョコレートを配り歩く。彼女のことはよく知らないし、貰ったのもただの義理チョコだが、何となく胸が温かくなった。もしおれが青山先生にチョコをあげたら、先生も同じ気持ちになってくれるのかな。今日の帰りに買って、明日渡してみてもいいかもな。なんて、この時は軽く考えていた。    放課後、職員会議も進路指導の予定も入っていないと聞いていたから、おれはいつものように社会科準備室へ向かった。先生も今日は誰かにチョコレートを貰ったのかな。いっぱいあって余っていたら、おれにも分けてくれるかな。なんて考えながらドアをノックしようとすると、教室の中から声が響いた。   「好きなんです!」    女子の声だ。好きです、ってことは、愛の告白ってこと? 誰が、誰に? 青山先生にか? 軽いパニックで頭が回らない。足はその場に釘付けになり、ドアの前から一歩も動けない。   「好きです、先生。ずっと前から……」    おれは固唾を呑んで耳をそばだてた。先生の返事はこうだ。   「……すまないが、君の気持ちには応えられない。教師と生徒は恋人になれない」 「卒業してからなら、いいってことですか……?」    彼女は必死に食い下がるが、先生は落ち着いた声で冷たく突き放す。   「悪いが……既に心に決めた人がいるんだ」 「っ……!」    時が止まったように感じた。無限の時間をかけて先生の言葉を反芻するも、意味が全く理解できない。理解しようとしても本能が拒むみたいだ。どうしてだろう。こんな感覚、初めて。底の見えない暗い穴へと落ちていくような、不吉な浮遊感。    突然、ガタン、と大きな物音が響き、扉が勢いよく開いた。飛び出してきたのは同じクラスの――昼間おれにチョコレートをくれた斉藤さん。ぶつかりそうになり、咄嗟に避けた。彼女の瞳から大粒の涙が零れて散った。おれが聞耳を立てていたことに気付いたかどうか分からないが、彼女は何も言わず、足を縺れさせて廊下を駆けていった。    嵐が去った後みたいだ。ふわふわした感覚がまだ抜けない。いや、違う。足が震えているのだ。力が入らない。立っているのもやっと。どうしてこんなことになっているんだろう。   「盗み聞きとは趣味が悪いな」    すぐ傍で青山先生の声がする。いつの間に近くまで来ていたのだろう。   「あっ……こ、これは、その……」 「冗談だ。偶然居合わせただけだろう? 寒い中待たせて悪かったな。こっちは日が当たって暖かいから」    明るい部屋におれを招き入れる。いつもと同じ。何も変わらない。……なのに、何だろう。この違和感は。胸が詰まるような感じがして苦しい。息もできないくらい。胸が締め付けられる。   「ごめん。ちょっと用事、思い出しちゃった」 「帰るのか?」 「うん。ごめんなさい」 「こら待て、慌てるんじゃない」    そう言って、解けかけていたマフラーを結び直してくれる。優しい手。先生の匂い。   「ちゃんとしないと寒いぞ。風邪なんて引いたら困るだろう」 「うん……ありがとう」    でも、先生の顔を見られない。お礼だってまともに言えない。優しくしてもらって嬉しいのに、素直に喜べない。どうしちゃったんだろう。おれ、変だ。    とぼとぼと帰路に就き、電車に乗って家に帰る。勉強も手に付かず、リビングでぼーっとしていたら夕食の時間になった。唐揚げは大好物のはずなのに、今日は全然味がしない。箸が進まない。食べられない。   「暁、学校で何かあったの?」    母さんが心配そうにおれの顔を見る。   「……何も?」 「本当に? だって、帰ってきてからずっと変よ。電気もつけないでぼんやりして、話しかけても上の空で。そもそも帰りが早すぎるもの。いつもならもっと学校で……」 「……そういう日もある……」    おれはそっと胸を押さえた。奥の方に棘が刺さったみたいにしくしく痛む。   「……今日、バレンタインだったでしょ。おれ、知らなかったんだ。チョコ渡して、本気の告白をする人がいるなんて」 「それで、どうして落ち込むことになるの?」 「……どうしてだろう」    自分でも分からないことを説明するのは難しい。   「好きな子が、違う人にチョコをあげていたの?」 「ううん、むしろ逆。好きな人がチョコ貰って告白されてて……」    あっ、と声が出そうになった。そうか、おれ、青山先生のことが好きで……でも教師と生徒は恋人になれなくて、先生には既に心に決めた人がいて……   「失恋したのね」 「……そうかも」    目の前が真っ暗になる。胸が苦しい。おれは先生が好きなのに、先生にとっておれは大勢いる生徒のうちの一人に過ぎないのか。こんな気持ちになるのなら、気付かないままでいればよかった。こんな気持ち、知りたくなかった。        翌日学校へ行っても、気分は相変わらずぱっとしない。出欠確認で先生に名前を呼んでもらっても感情が動かない。授業中、先生の顔を見たくないので急いで板書を取って、後はずっと教科書を読んでいた。弁当は一人で食べたが、砂を噛んでいるみたいで美味しくなくて、半分も食べられなかった。   「ね、ねぇ、高月くん」    昼休みも終わる頃、斉藤さんがおれの席に来た。   「あ、あのね、昨日のことなんだけど……」    彼女こそ、おれなんかより傷付いているはずだ。実際表情は暗い。バレーボール部のエースで普段は快活な印象だが、失恋するとこうも変わるのか。   「昨日……まさか高月くんがいるなんて思わなくて……」 「心配しなくても、誰にも言わないよ」 「本当?」 「うん。だからまぁ……元気出して」    おれ自身が今一番欲しい言葉を言う。彼女はほんの少し微笑み、自分の席に戻っていった。   「何お前、斉藤さんと何かあったの?」    後ろの席の友人が面白がって話しかけてくる。   「何もないよ」 「ふーん。なーんか怪しいな。昨日っていやバレンタインだろ? もしかして告白された?」 「何も怪しくない。下衆な勘繰りはよせ。彼女に悪いだろ」 「ちぇー、つまんねぇの」    怪しいも怪しくないも、始まる前に全部終わっていたのだ。本当につまらない。    放課後、先生に会いに行けるわけもなく、帰りが早すぎても母さんに心配かけるから帰れず、何となく教室でぼんやりしていた。窓際の席で、沈みゆく夕陽を眺めていた。溶けたガラス玉のような太陽はみるみるうちに地平線へと吸い込まれ、街は宵闇が迫りくる。   「電気もつけないで、何してるんだ」    いきなり眩しい光に包まれて、目を瞑った。   「下校時刻は過ぎてるぞ」 「……先生」    青山先生の姿をちゃんと見るのは今日初めてかもしれない。今日は臙脂色のネクタイを着けていたのか。とっても似合ってる。   「一応待ってたんだが、今日も急な用事があったのか?」 「違います、けど……」    先生は窓の鍵が掛かっているかどうか確認しながら、一歩ずつおれの席まで近付いてくる。逃げ出したいけど、逃げてしまうのは惜しいような気もして、動けない。   「……先生」 「どうした?」    どうもしない。呼んだだけ。先生の声が聞きたくて。   「先生は……」    心に決めた人って誰ですか。頭が良くて美人で大人の女の人ですか。その人と比べておれはどんな風に見えますか。先生の目におれはどんな風に映っていますか。……なんて、訊けるわけもなく。ただ黙って先生を見ていた。   「本当にどうしたんだ。今日はやけに静かだな」 「先生、おれ……」    僅かに首を傾けて、先生が微笑む。いつの間にか、すぐ目の前に先生の姿があった。安っぽい蛍光灯に照らされていても、先生はやっぱり格好いい。笑顔も、仕草も、全てが。爽やかで、凛々しくて、大人の色気があって、それでいて燃えるような雄々しさがある。おれ、やっぱり先生のことが……   「明日から、また会いに行ってもいいですか」    やっぱり好きだ。たとえ叶わない恋だとしても、先生以外考えられない。先生は絶対におれのことを好きにならないけど、それでも傍にいたい。せめて、卒業する日まで。

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