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3 失恋

 四月、無事三年に進級した。クラス替えはあったものの、担任は青山先生のままだった。これで卒業の日まで一緒にいられる、とおれは喜んだ。今年度もよろしくお願いします、と挨拶に行くと、先生も笑ってくれた。    六月の文化祭は、まだ学校に慣れていなかった昨年よりもずっと楽しめた。連日遅くまで残って作業をし、コーヒーカップを作り上げた。内装は不思議の国のアリスをイメージしてカラフルに飾り付けた。みんなの努力の甲斐あって大賞を受賞できたし、先生も喜んでくれたので、一生忘れられない思い出になった。    夏休みは塾の夏期講習に通った。普段は通っていないのだが、夏休みは時間があるし、自力でやるにも限界がある。なかなか新鮮な気分で勉強が捗った。強化合宿にも参加しちゃって、成績はかなり安定してきたと思う。    九月の体育祭は、高校生活最後のイベントということもあって派手に盛り上がった。全力で体を動かして、汗を掻いて、ちょうどいい気分転換にもなった。リレーに出場した時、先生がおれに手を振ってくれて、それだけで十分思い出になった。    秋が終わると本格的に受験ムードに入る。教科書の内容は粗方終わり、授業は受験対策が中心になる。ひたすら練習問題を解き、マークシートを塗り、自己採点をする。青山先生は放課後、二次試験対策の特別講義を開いてくれ、志望校別に問題を配布して解かせ、その場で採点と解説まで行なってくれた。    年が明けると共通テストがあり、その後は自由登校となった。勉強を見てもらいたい生徒がたくさんいて青山先生はいつも忙しそうで、おれは学校の自習室や図書館を使って勉強した。志望校に合格して先生を安心させたくて、よくやったなって褒めてほしくて、その一心で頑張った。        そしてまた、桜の蕾が膨らみ始める。先生と初めて出会った桜の木とも今日でお別れ。おれは今日、高校を卒業した。式の後最後のホームルームをして、みんなで先生に花束を渡して、記念撮影をしてアルバムに寄せ書きをして、その後。本当は真っ先に先生に会いに行くつもりだった。最後の挨拶をするつもりだった。別れの挨拶だ。    なのに、結局会いに行けていない。別れの挨拶なんて、考えただけで辛くて堪らなくて、胸が張り裂けそうになる。でも、今を逃したら先生とは一生会えないかもしれない。でも顔を見たら泣いてしまいそうで。どうしたらいいか分からなくて、中庭の桜の木の下で予定を先送りにしているのだった。    こうしていると色々なことを思い出す。先生と初めて会った時の抜けるような青空、美しい桜吹雪。社会科準備室から見える夕焼け。一緒に食べた卵焼きの味。修学旅行ではうっかり大浴場で鉢合わせちゃって、帰りにアイスを奢ってもらったっけ。甘くてほろ苦いチョコチップの味が、今でも鮮明に思い出される。どうしよう、泣いちゃだめなのに……   「高月?」    先生の声? まさか、幻聴かな。今のおれって、そんなに混乱してるのかな。   「高月。何してるんだ、こんなところで」    やっぱり青山先生の声だ。海に潜ったみたいに視界が滲んでぼやけてよく見えない。   「な、なんでもない……なんでもないから……」    みっともない姿を見られたくない。最後くらい笑ってお別れしたくて、顔を背けた。   「何でもないって顔じゃないだろう」    でも先生は、おれの涙を優しく拭ってくれた。柔らかいハンカチが瞼を撫でる。だんだん視界が晴れていって、先生の顔がはっきり見える。思ったよりも距離が近くて頬が熱くなるが、視線を外せない。   「っ……先生……あの、おれ……」 「こら、力任せに擦るな」 「ん……」    その優しさが嬉しいやら切ないやらで、余計に泣けた。    涙が止まるのを待って、ベンチに移動した。いつもならここで弁当を食べる生徒も多いが、今日は誰もいない。おれと先生の貸し切り状態だ。   「泣くほど名残惜しかったか」 「……」 「せっかくのめでたい日なんだ。涙なんて似合わないぞ」 「……めでたくなんか……」    めでたいわけがない。おれは今日でここを卒業する。明日からはもう来ない。青山先生にももう会えない。毎日顔を合わせて、言葉を交わして、同じ時間をいっぱい過ごしてきたのに、明日からはただの他人になってしまう。おれはまだ、先生と一緒にいたいのに。先生は、おれの知らないところで知らない人と勝手に幸せになってしまうんだ。   「……先生は、おれがいなくなっても平気なの」    こんなこと言うつもりなかったのに、つい口にしてしまった。ほら、先生も困っている。おれは気まずくなって俯いた。   「ごめんなさい、今のは……」 「今のは?」 「その、つまり……」    言い淀むおれの肩を、先生は優しく抱く。先生の温度がひしひしと伝わってくる。   「せ、先生?」 「つまり君は、俺と離れることを惜しんで泣いていたというわけか? 黙っているのなら、俺の都合のいいように解釈するぞ」 「えっ、え、えと、その、おれ……」    どうしよう。今日の先生、いつもと雰囲気が違う気がする。さっきまでめそめそ泣いていたことも忘れて、おれは嘗てないほどどぎまぎしていた。   「そ、その、おれ、先生のことが……」    言いかけたところで、前髪をそっと分けられた。露わになった額に、何か柔らかいものがそっと触れた。驚いて、ばっと顔を上げる。顔が近い。先生は、悪戯成功とばかりに笑みを浮かべていた。先生のこういう表情は初めて見るかも。そう意識した途端に、心臓が早鐘を打ち始める。気付かれたくなくて目を逸らそうとすると、さっきよりも強く抱き寄せられた。   「こら、逃げるな」 「だ、だって……先生、近い……」 「嫌だったか?」 「ちが……は、恥ずかしくて……」 「すまない。少し焦りすぎたかな」    顔が燃えるように熱い。お尻に汗を掻く。それに、さっきおでこに触れたのって、もしかして……もしかしなくても、先生の唇……? あの形良く引き締まった唇が、おれのおでこに触れたのか……?   「!? た、高月!? 大丈夫か!?」    いきなり、先生の手が顎の下に差し出された。かと思うと、ぼたぼたっ、と赤いものが滴った。   「へぁ……? は、鼻血……?」 「待て、動くな。じっとしていろ」    さっき涙を拭いてくれたハンカチで、今度は鼻を押さえてくれる。高級そうなハンカチを、涙だけでなく血で汚してしまって申し訳ない。   「せんせぇ」 「どうした。あまり喋るな」    先生が優しい。優しくされて純粋に嬉しい。素直に喜べる。   「ありがと、せんせ」 「どういたしまして。これくらい当然のことだ」    ある程度血が止まってから、念のため保健室へ向かった。保健の先生は不在だったが、ティッシュとガーゼを拝借して血を拭かせてもらった。青山先生は、血の着いた手やハンカチを洗っている。   「ハンカチ、おれが洗うよ」 「気にしなくていい。そこでじっとしていなさい」 「……先生。なんでおれにあんなことしたの」 「口で言わなきゃ分からないか? 君を愛しているからだ」 「っ、でも……」    すごく嬉しい。狂おしいほど待ち焦がれていた言葉だ。舞い上がりそうになる。でも、ダメだ。ちゃんとしないと。   「で、でも、浮気はいけないと思います……」 「……浮気?」    先生は素っ頓狂な声を上げ、振り向いた。つかつかとこちらへ歩いてきて、濡れた手でおれの肩を掴んで揺さぶる。   「浮気ってどういう意味だ? 君、まさか恋人がいるのか?」 「い、いや、なんでおれ……?」 「君じゃなかったら誰が浮気してると言うんだ。俺は浮気なんてしていないしするつもりも――」 「だって先生、婚約者がいるんでしょ!?」    おれが叫ぶと、先生の動きはぴたりと止まる。   「去年のバレンタイン……斉藤さんの告白を断ってた。婚約者がいるからって」 「待て待て。婚約者がいるなんて一言も言ってないぞ」 「言ってた! 既に心に決めた人がいるって……。だからおれ、先生のことは諦めようって……」    先生は大きな溜め息を吐き、頭を掻いた。よっこいしょ、とおれの隣に腰掛ける。   「それは……何というか、誤解だ。言葉の綾だ。彼女を傷付けないよう嘘をついた。いや、厳密には嘘ではないんだが……」 「どういう意味? 嘘じゃないなら……」 「違うんだ。つまりな、心に決めた相手というのは、君のことだ」    おれは息を呑んだ。時を刻む秒針の音がうるさい。   「もしも君が、卒業の日まで俺を好いていてくれたなら――まぁ、自分で言っていて自惚れが過ぎるとも思うが、そうしたら君を奪うつもりでいた。四月までは一応高校生ということにはなるが、それでももう十八歳だし、教師と生徒というしがらみもなくなって、お互い晴れて自由の身だろう? ここまで待って、俺はようやく君に触れることができたんだ」    先生が長々と喋っているが、右耳から左耳へと抜けていく気がする。   「……って、ことは、先生はおれのことが……?」 「愛してる。さっきも言っただろう」    先生はおれの手を取り、ちゅっと口づける。顔から火を噴いたかと思った。嬉しいやら恥ずかしいやら、感情の処理が追い付かない。どうしよう、おれ。これからどうなるんだろう。こんなに幸せでいいのかな。もしもドッキリでしたとか言われたら、先生を殺しておれも死ぬぞ。   「あら、何してるんですか」    ガラ、と扉が開き、保健の先生が帰ってきた。青山先生は何もなかったような顔ですっくと立ち上がる。   「勝手に使ってすみません。彼が鼻血を出したもので」 「あらあら、大丈夫ですか?」 「ええ、もう血は止まって――って高月!?」 「あらあらあら、止血が足りなかったみたいね」    後は保健の先生の指示に従い、鼻を摘まんで前屈みの姿勢でじっと座っていた。血はすぐに止まった。

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