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第1章
バルダサッーレ男爵家の三男、フラヴィオ・デ・アンジェリス・バルダッサーレは奔放であった。
屋敷の離れにある塔の最上階に住み、自分好みにしつらえた部屋で寛いだり油絵を描いたり時折庭に出て花の世話をしたりしていた。
そして夜は、従者もつけず繁華街に出向いては酒場で引っ掛けた男や女と一夜を共にする。相手を見つけるのは容易であった。彼は透き通るようなブロンドの髪、白い肌、勿忘草色の形良い目を輪郭の中に完璧に納めた、天使の如き美貌を携えている。
家人は気紛れでカンの強い末の息子を持て余し、眉を顰めるばかりであった。
フラヴィオが18になった年の秋、塔の上から庭のイチジクの木を写生していると、杖をついた男がさ迷っているのを目撃した。黒い杖は、この国では盲の証だ。黒く波打つ髪の下の顔はよく見えず、しかしゆったりとした服の上からでも分かるような逞しい体つきの男だった。フラヴィオは猛禽のように狙いを定め、階下に降りていった。
「やあ、どちら様?」
塔の入り口の戸を開け、気さくに声をかける。
「セシリオ・グリエルモと申します。バルダサッーレ男爵の御子息にお会いしたいのですが」
毛量の多い髪にウールのローブが陰鬱な印象を与えるが、その声はからりとした心地よいバリトンだった。
そして、眉間の下まで垂れ下がる黒い前髪の下からは、しわくちゃにした紙を灰紫に染めたような傷痕ケロイドが覗いている。
フラヴィオは一瞬ギョッとしたものの、欲を満たせればそれでいい、とセシリオを塔に招き入れる。彼が盲者であるのをいいことに、蔑んだ目を隠そうともしなかった。
塔の上のフラヴィオの部屋は、子どもの玩具箱のようだった。ふかふかのウォームグレーの絨毯、今までに描いた絵、街の古道具屋で買ったガラスランプ、北国のサモワール湯沸かし器、白い革張りのソファ、庭で育てた秋咲きの薔薇など玉石混合の調度品が彼の奔放さを表している。
部屋に入るなりセシリオは高い鼻梁をひくつかせた。
「絵をお描きになられるのですか」
セシリオは描きかけのイチジクの木が茂るキャンバスに顔を向けた。油絵具やシッカチーフの臭いを嗅ぎつけたのだろう。フラヴィオはキャンバスに布をかける。
「まあね、ただのお遊びさ。アンタは何しにここに来たの?」
「貴方の彫刻を彫らせていただきたいのです、フラヴィオ様」
名を言い当てられドキリとした。自分はまだ名乗っていなかったためだ。酒場で引っ掛けたことがあっただろうかと記憶を辿るもの見覚えが無かったし、街では"ロレンツォ"と仮の名を名乗っていたためだ。
「お前は何者だ?」
「それを識りに来たのは私の方ですよ。
ーーーさあ、服を脱いで」
フラヴィオは鼻を鳴らした。結局はそれが目的だったのだろうと。手早くシャツとズボンを脱ぎ捨て裸になる。
白いソファに薄紅色の敷物をかけ肘掛けに凭れた。
「それで、どうやって僕を暴くんだ?」
セシリオは「ふふっ」と笑いを漏らした。子どもの戯れを微笑ましく見守るような声音に、フラヴィオの眉間に皺が寄る。
「無体な事はいたしませんよ。私はこの通り何も見えませんので、対象に触れて確かめながら彫るのです」
「嘘をつけ。お前は何も持ってきていないじゃあないか」
「アトリエに置いてありますよ。今日は貴方の形を識りに来ただけです。触れる事を許してくださいますか」
「まあいい。好きにしろ」
セシリオは「ありがとうございます」とほっと息を吐いた。そして「お見苦しいかもしれませんが」と前髪を後ろへ流して括る。隠れていた顔が露わになる。
フラヴィオは息を呑んだ。最初は眉間から額までを覆い尽くす傷跡ケロイドに、次に彫りの深い、それこそギリシア彫刻のような顔の造りに、最後に、見開いた眼の金色と緑色に。
爛れた皮膚の中から現れた金と緑のオッドアイは、岩からのぞく金とエメラルドのようにキラキラと鮮烈な光を放っている。
見惚れているうちに、「失礼します」と節くれだったセシリオの指がフラヴィオの顔に触れた。頬を両の掌に包まれる。ほのかに温かく乾いた手だった。
セシリオは掌を沿わせたまま親指で唇や鼻や目蓋の位置を探り、指の腹で触れていく。羽根で撫でられているようでくすぐったくなり、裸の体が少し寒くなる。
「やはり美しいお方だ」
金と緑の双眸と、厚みのある唇が弧を描く。フラヴィオの顔に熱が集まりそうになるが、悟られぬよう早口で喋りかける。
「触っただけで分かるものなのか?」
「ええ、目で見るよりよく見えますよ。お試しになってみますか」
セシリオはフラヴィオの肩から腕に手を滑らせ、繊細な指を持つ手を取った。そして自身の首に導く。フラヴィオは目を閉じ、おずおずとセシリオに掌を当てる。少しペタペタとした感触で、皮膚の下で動脈が脈打つ。筋張って太い首筋は息をするたびに喉仏が動き、力強い生を感じた。
これほど深く手に意識を集中したことはない。そう、見知らぬ相手と交わるときでさえ。五感のうちたった一つを遮断するだけで、指先の神経が目を覚まし、鼻は匂いの在り方を探り、耳は細やかに音を拾う。
それでもあの金と緑の色が恋しくなり、フラヴィオは目を開ける。気づけば接吻せんばかりに顔が近づいていた。セシリオの手は背中に回され、それでも配慮されているのか身体が接触することはない。セシリオの逞しい身体に埋まりたくとも、集中できなくなるからと拒まれた。
今までの男達は、いくら気取っていてもフラヴィオが甘えれば表情は溶け崩れ、ひとたび触れれば燃え盛った。拒まれたことなどなかった。悔しさが滲み出す。男が相手の時は受け入れる側だったが、翻弄してきたのはフラヴィオの方であった。
背骨の上の薄い皮膚に指先が乗れば、神経に近い場所のせいかふるりと肩が震えた。
これも知らなかった刺激だ。
薄皮を剥くように少しずつ暴かれていく。
「失礼」
セシリオはフラヴィオをそっとソファに寝かせる。フラヴィオの白い脚を肩に掛け、臀部にも手を這わせた。正常位の姿勢だ。しかし、使い慣れたフラヴィオの花蕾に手は伸びるもののひと撫でしただけで終わる。睾丸をやわやわと握る感触にも、陰茎を下から上へと撫であげる手つきにも嫌らしさを感じられない。ただ形を確かめるだけの動きだ。セシリオの金と緑は鉱物のように冷たく、ただ鏡のようにフラヴィオを映している。
フラヴィオは背筋が薄ら寒くなった。子どもが無心に弄くり回す玩具になった気分だ。本能のまま腰を振る男の方がまだ分かりやすくていい。しかし怖くなったのでやめてくれなどと言うのはフラヴィオの矜恃が許さなかった。
13の秋の夜が蘇る。彼がまだ何も知らぬ天使だった時のことーーー夜更けにフラヴィオの部屋に入ってきた使用人に、ずっと想いを寄せていたと告白されたこと、何がなにやら分からず断れば手篭めにされたことがーーー
使用人は有無を言わさず解雇されたが、負けん気の強かったフラヴィオはいいように辱められたことに耐えられなかった。自分が惨めな立場に立たされるより、「自分から誘ってやった」と悪辣に振る舞う方がまだましであった。
絵具が乾かぬうちに色を重ね新しい色を作るように、"それらしい"振る舞いは重ねていくうちにフラヴィオの身体に馴染んでいく。
天使はいなくなり、淫魔に取り憑かれた少年が残された。
ーーー「お疲れ様でした」
セシリオの言葉で我に返る。セシリオの指先は白く滑らかな肌を舐めるだけではおさまらず、金の髪を潜って頭蓋の形までなぞっていった。こんなに触れられたのは初めてのことで、生娘のように身体を硬くしていたので肩や背中が痛む。
覆い被さっていたセシリオが退けば冷気に肌が粟立った。開けっぱなしの窓の外はオレンジ色に染まり、もう夕刻に差し掛かっている。
セシリオは深々と頭を下げ、丁重に礼を述べた。フラヴィオはすっかり不貞腐れ、芸術家というものは変わり者が多いな、などと思いながら服を着る。
「今度は、もっと深くまで触れてもよろしいですか?」
「へえ、例えばどこに?」
フラヴィオは挑発的に返す。自分がようやく優位に立てたように思えて、セシリオの手を取って自身の素肌に当てる。セシリオの手は首筋を伝い、フラヴィオの下唇を指で掬った。
前髪を下ろしたセシリオの口元が三日月の形を描く。
「構いませんか?」
節くれだった指で、フラヴィオの唇に紅を引くようなぞる。接吻する前のような甘い空気が流れた。
「もちろん」
フラヴィオは妖艶に微笑み、セシリオはよかった、と一言だけ。
次こそは淫蕩の渦に引き込んでやろうとフラヴィオはほくそ笑むが、すでにセシリオの手の内にいることにはまだ気付いていなかった。
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