2 / 14

第2章

フラヴィオの部屋に、真昼から粘性を含んだ水音が響く。フラヴィオは服を着ていたが、ソファに寝かされセシリオに覆い被さられている。 セシリオは前と同じシャツとベスト姿で、節くれたった指はフラヴィオの口の中にいた。 口の中を触らせて欲しいとセシリオから言われた時は目を剥いた。自分が想像していたことと違っており、どう自分が主導権を握ればいいか分からなかった。 しかし前に是としたものを今になって覆すのは臆病風に吹かれたと思われそうで、肯定の返事をした。 それにしても、口の中がこれほど鋭敏で複雑な機関だったとは。歯列をゆっくりなぞりつつ、歯茎に爪を立てないよう触れる柔らかな感触は心地よかった。上顎のひだの一つ一つを撫でられれば背中に微弱な電流が走り、セシリオに分からないよう身体を震わせた。 だが機能していないはずのセシリオの金と緑の目は、フラヴィオの全てを見逃すまいとずっと注視してくる。フラヴィオは目を閉じるも、かえって口の中の感触に意識が向いてしまう。早く終われと思いながらも、与えられる刺激に身悶えソファに爪を立てるのであった。 指が抜かれれば、口の端から唾液が溢れた。セシリオは慣れた様子で「どうぞ」とハンカチを差し出す。口を閉じれば、頬の内側も吐息も熱くなっており、身体の中にも熱が灯る。口の中を触られただけで火をつけられたことが信じられなかった。しかし、フラヴィオの内に宿る淫魔も同時に顔を出す。 「ねえ、今日はこれで終わり?」 ハンカチで指先を拭くセシリオに問いかける。 「僕はまだすべてを見せていないよ。お前はそれでいいの」 「また後日伺います。お身体に障るといけませんから」 「僕は平気さ。まだ時間はあるの?」 セシリオの腕に手を掛け、自ら身体を寄せる。 セシリオは笑みを浮かべた。しかし、欲望ではなく慈愛に満ちている。 そして 「困ったお方ですね。 ーーー悪い子だ」 甘いバリトンが耳元で響いた。フラヴィオはたった一声で腰が砕けそうになる。それを支えるように、セシリオの大きな手が腰に回される。 「いい子にしていたら、ご褒美をあげましょう」 セシリオの手はゆっくりと腰を伝い、臀部の上で止まった。金と緑の目が現れ、蠱惑的に瞬きながらフラヴィオを見つめる。 「いいですね?」 厚い唇が甘い約束を届けた。 息を呑むような色気に当てられたフラヴィオは分かった、と掠れた声で返すのが精一杯であった。そしてセシリオの目が見えないことに感謝してしまった。フラヴィオの顔にはほんのりと赤みが差していたのだから。 「それでは失礼します。次の仕事が入っていますので」 セシリオは手早く身なりを整えると、あっという間に去ってしまった。 身体中から熱が引いていく。 別の顧客のところに出向くのだろうか、自分以外の人間にもあのようなことをするのだろうか、などと考え始めれば、別の感情がちりちりと身を焼いた。他の人間に触れる姿を想像するだけで面白くない。 しかし、自分も同じようなものだと苦虫を噛み潰す。会ったばかりの人間と身体を重ねたことは数知れない。それに、自分は欲望を満たす為だけの行為だが、セシリオのそれは崇高な芸術に昇華する為の儀式に近い。 劣情に溺れそうになり、絵を描こうとキャンバスに向かう。静物画を描こうと絵具やパレットを引っ張りだした。アクセサリーや果物の籠を並べて、絵の対象物を選び始める。 静物画の対象には意味がある。 果物は食の喜び、楽器は音楽の喜び、カードやサイコロは幸運を暗示する。庭で採れたイチジクの実をなんとなしに手に取った。 それが象徴するのは羞恥、そして禁断の実ーーー セシリオの甘い声と手の感触が蘇る。 乱暴に籠に戻し、何もかも忘れる為に酒場へと向かった。 御者に馬車を出させ街へ向かい、貴族の集まるサロンの前で止まらせる。フラヴィオはそこで着替え、こっそり抜け出すのが常であった。 街で買った安物のジャガー織の上着を羽織り、金の髪をくたびれた帽子に押し込んで酒場へ入る。料理や酒を注文する声や酔っ払いが騒ぐ声、流しの音楽家が弦楽器で奏でる陽気なリズムが交錯する。この騒がしさや雑然とした雰囲気が心地よかった。 空いた椅子に座りワインとオリーブの塩漬けを注文する。酒が来るのを待つ間、店内にいる客を吟味した。禿頭の中年男性となんども目が合うが、ビールで膨らませたような身体はフラヴィオの好みではない。逞しい体つきの男性がいい。それでいて、繊細で巧みな手を持つーーー セシリオの傷跡だらけの顔と金と緑の双眸がよぎるが、ウエイトレスが運んできたワインを煽って打ち消した。 気づけば黒い髪の男ばかり目で追っている。酔いもだいぶ回り、今日は外れかと席を立つ。 「フラヴィオ様?」 今日聞いたばかりの声が鼓膜を打った。背後から肩に手が置かれる。節くれだった指を持つ大きな手。 「やはり・・・。いけません、貴方のような身分の方が」 「人違いだ」と自分にも言い聞かせながら足早に店を出た。 なおも足音は付き纏い、ついに文句を言ってやろうと振り返る。 しかし、いたのはセシリオではなかった。酒場にいた禿頭の男や、屈強な腕や脚を持つ男たちであった。

ともだちにシェアしよう!