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第14章
春になり寒さが緩んで水仙の蕾も綻ぶ頃、フラヴィオの帰る家はセシリオの住まいになった。
騎士団への推薦は丁重に断り、今はセシリオの弟子という形で仕事を手伝っている。
フラヴィオは夜明けとともに目を覚ますと、そろりと寝台から抜け出した。セシリオは隣に寝ていない。最近は地下の工房に篭りきりだ。とある令嬢の快気祝い兼婚約祝いだという。フラヴィオは見合いが破談になって正解だったと思った。
窓を開けると森の天辺が金色に照らされ、どこまでも伸びる光の帯が家の中にも入ってくる。その光を迎え入れ、ベッドの下に隠していたキャンバスをイーゼルに乗せた。顔料を油で溶いて必要な色を作っていく。
フラヴィオはまだ絵を描くことを続けている。厚かましく実家に戻り、私物はすべて引き取ってきたが生活は決して楽ではない。しかし自分のものをすべて売り払っても、パンを毎日食べられなくなっても、絵を描く道具だけは手放せなかった。
筆を取りキャンバスにつけようとした瞬間、
「何を描いているのですか?」
背後からセシリオに話しかけられ肩が跳ねた。セシリオの鼻は油と絵の具の匂いを嗅ぎ取り、キャンバスに顔を向ける。見えるはずなどないとわかっていても、フラヴィオはキャンバスを背中に隠してしまう。
「お前仕事は」
「ひと段落したので貴方に会いたくなって」
石膏の粉で白くなった指がフラヴィオの顎を持ち上げた。するとセシリオは少し眉を顰め、フラヴィオの頬を両手で軽く挟み輪郭の形を確かめる。
「少しやつれましたか?必要な物はご用意しますと言ったでしょう」
自分が食べる分の費用を、絵を描く道具に変えていることをあっさり見抜かれた。
「絵は、ただの遊びだ。お前が金を払うほどの価値はない」
「それは私が決めます。ほら、見せてください」
「見えるはずがないじゃあないか」
「わかりますよ。触れば見えます」
フラヴィオの頭に疑問符が浮かぶ。どうせ分かるはずがないと身体をキャンバスからずらした。
セシリオは布で手を拭き、キャンバスに指先を乗せた。爪で乾いた絵の具を剥がさぬよう、指の腹だけでなぞっていく。繊細な指は絵筆の跡や凹凸、塗られた絵の具の厚みをとらえ、描かれたものの像を頭に浮かび上がらせた。
「これは・・・肖像画、ですか?」
フラヴィオは驚きに言葉が出てこなかった。その通りであったからだ。
「誰かまではわかりませんが・・・。ふっ、ここは随分描き直したようだ」
「なぜわかるんだ」
「絵の具を削って均した跡があります。目の辺りでしょうか」
「お前、本当に見えていないのか?」
フラヴィオがセシリオの顔を覗き込む。ところがセシリオは、手に感覚を集中させるためか目を閉じていたのだから舌を巻く。
「いい絵です。貴方の真っ直ぐな性格が筆運びによく現れていて清々しい」
そう言い切ったセシリオに、フラヴィオは観念して溜息を吐いた。
「・・・目の色を出すのに苦労したんだ。あの鮮烈な金と緑を・・・」
セシリオは目を丸くする。そして破顔した。
「どこの色男かと思えば」
「お前は僕の彫刻を作っただろう。だから・・・」
描かれていたのはセシリオの顔であった。前髪を後頭部で結った頭から鎖骨あたりまで描かれている。もちろん傷跡が顔の大部分を覆っているが、目の色の美しさと微笑みの優しさを引き立てていた。
ささやかな返礼のつもりであったが、作品を作れば、セシリオが彫刻を作る間何を考えているのかわかるような気がしたのだ。
フラヴィオは描いている間、ずっとセシリオのことを考えていた。
肌の凹凸はどんなふうに印影を作っていたのか、どうやって口の端をあげ微笑みを作っていたのか、今は何をしてどんな表情でいるのかーーーー
セシリオも自分のことを考えながら作品を作っていたのだろうかと想いを馳せる。だが気恥ずかしくて確かめるなどできなかった。
「あの作品は、貴方への礼ですよ」
「借りを一つでも返さねば僕の気がすまないんだ」
「借りだなんて・・・では、そうですね。一つおねだりしてもよろしいでしょうか」
セシリオは、フラヴィオの肩を抱き耳元で囁く。
「私を愛していると、おっしゃっていただけますか」
何を馬鹿な、と言いかけて、フラヴィオは唐突に気づいた。フラヴィオは、セシリオに愛の言葉を一度も贈ったことがない。
言わないと何故だかセシリオが離れて行ってしまう気がして口を開く。何度も口を開いては閉じることを繰り返すが、喉が張り付いたようになって肝心の言葉が出てこなかった。焦るフラヴィオの様子が肩を抱く手から伝わって、セシリオは微笑ましさに吹き出した。
「ふふっ、少し先の楽しみに取っておきましょうか」
「いや、いい」
フラヴィオはセシリオの手を掴んで、自分の両の頬に当てた。そしてぼそりと呟く。その音はセシリオの耳に微かにしか届かなかったが、繊細な手はフラヴィオの口の動きを正確に読み取った。
身体の形も、そこからあふれる喜怒哀楽を乗せた躍動も、お互いへの愛の表し方も、その手は誰より識っている。
セシリオは満面の笑みを浮かべて、フラヴィオと同じ言葉を返した。
"全てを識る指先" end
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