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出会い 1
僕の人生が一変したこの日、一番鮮烈にこの脳と心に刻まれたのは、やっぱり彼だ。紫がかったロゼ色の美しい髪色と、上品なローズベリルを嵌め込んだ艶めく瞳が、目を閉じる度に瞼の裏に甦る。薄曇りの夕焼けが空一面に広がるように、彼の色彩が僕の頭の中を占領していく────。
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「はぁっ、はぁっ……」
ゴミだらけで灰色の臭くて汚ない道をどこまでも走る。細い通りを曲がり、足を止めないまま後ろを振り返った。僕を追っている2人の男が黄色い歯を剥き出してニタニタ笑っている。必死に逃げる僕とは対照的に、男達は謎の余裕を見せた。さっきまで僕と同じ様に全力ダッシュで追いかけてきていたのに、今はゆっくりと歩いている。僕と男達の間の距離がどんどん大きくなっていく。もう、表情さえも分からないくらいだ。
逃げ切れた……。そう思って足を止めかけた時だった。目の前にそびえる高い壁に気付いたのは。慌てて左右を確認するも、どこにも入り込めそうな道はない。身を隠せそうな隙間さえ……。
「ごくろうさぁん」
間延びした声にばっと後ろを振り返る。気だるそうに足を引き摺りながら、男達が迫ってきていた。ああそうか。ここが行き止まりと知って、あいつらは勝ちを確信していたんだ……。
「どうして追いかけてくるんですか。もう僕は何も持ってないのに……」
男達は互いの顔を見合わせて酷薄な笑みを浮かべた。
よりにもよってこんな所に迷い混んでしまうなんて……。
昨日から何も食べていなくて、物凄くお腹が空いていた。忍び込んだ馬車の荷台から降りたのは、今思うとそんな下らない理由からだ。けど、その時の僕には死活問題で、路上で地面に並んでいた萎びたリンゴがあまりに魅力的だったのだ。
地面に降り立つと、辺りに充満するゴミの臭いに混じって微かに嗅ぎ覚えのある潮のにおいがした。海が近いのだろうか。そんな事を考えながら値札のついてないリンゴの対価に金貨1枚を差し出した。露店商のおばあさんが怪訝な顔をしたので、足りないのかと思ってもう一枚追加して、リンゴを手に取った。そうしてすぐに馬車の荷台に戻ろうとしたのに、紙一重で馬車は出発してしまい、僕は置いてけぼりをくらった。こっそり乗っていた僕に文句を言う権利なんてある筈もなく、僕はゴミだらけで汚ない街にひとり取り残されてしまったという訳だ。
ちょっと発酵臭のするボケたリンゴにかじりつきながら途方に暮れていた僕に、子供がぶつかってきた。ごめんね、と言ったのを無視して、子供は足早に姿を消した。思えばあの時、財布を盗まれていたんだと思う。それに気付かないままふらふらと歩き出した僕は、気づけば柄の悪い男達に四方を囲まれていた。
「よお、お坊っちゃん、迷子かぁ?」
「え、えっと……」
「ママの所に送り届けてやろうかぁ?」
「あの……この辺に他に街は……」
「有り金全部よこせや」
「え……」
「そしたら教えてやるからよお」
本当だろうか。金貨をあげれば、ここでない街に案内してくれるのだろうか。ゴミが散乱し、ドブの様なすえた臭いが充満し、建物はどれも古びて崩れかけていて、道行く人の身なりはみんなみすぼらしくて、汚ない路上に座り込む人達のなんと覇気のないことか。ここは、話にだけは聞いたことのある、所謂スラムだ。こんな危ない所からはすぐに脱出しなければ。僕は懐を探った。男達に金を渡して、ここから出るために。けれど、そこに財布はなかった。慌てて外套をはためかせる僕に、男達はため息をついて言った。
「金がねえなら身ぐるみ全部置いていけや」
呆然とする僕から有無を言わさず服を剥ぎ取り、男達は去っていった。当然、別の街を教えてくれることもなく。文字通り身ぐるみ全部剥がされた僕は上も下もインナーだけ。公衆の面前でこんな姿を晒すのはもちろん初めてで、恥ずかしさと居たたまれなさで泣きそうになった。出来るだけ自分の身体を隠したくて屈み込んだ僕をニヤニヤしながら見下ろしてきた男達。それが、今僕を追い詰めている二人だ。僕は恥も外聞もなく逃げ出して、追い掛けられて、追い詰められて、そして今に至る。
「本当はまだなんかあんだろ?」
「見ての通り、全部盗られました……」
「指輪は?ネックレスは?」
「あ、ありません……」
「本当かぁ?」
男達が徐々に間合いを詰めてくる。僕の背中はもう壁にひっついていて、これ以上逃げ場はない。けれど渡すわけにはいかない。僕が今唯一着ているインナーの内側で控え目に存在を主張しているそれは、僕の宝物だ。
「おいそれはなんだ」
小柄な男の目敏い視線が胸元に刺さって、ぎくりと肩が震えた。どう考えても逆効果なのに、僕は無意識に胸元を両手で隠していた。何でもないって、慌てて首を振ったけど、時は既に遅かった。素早く伸びてきた男の手によって乱暴にチェーンが引っ張られ、僕は首から前につんのめった。鮮やかな海の色の石が、太陽の元に曝される。
「ほう、これは……。なかなかお目にかかれない代物と見た」
リーダー格と見える大柄な男が顎を擦って目を細めた。
「これはっ、だめ!僕の、大事な宝物だから!」
大声で叫ぶと、小柄な男が一瞬怯んだ。その隙に必死で飛び掛かり、石を取り返してぎゅっと掌の中で握り込んだ。
「このガキ、」
「まあ待て。なあ坊や。自分の身体とそのネックレスと、どっちが大事だ?」
小柄な男を制して、大柄な男が言う。
「殴るんなら、殴ればいい。これだけは絶対に渡さない」
体が震える。けど、これを奪われる訳にはいかない。どうあっても逃げ場のないこの状況で、僕は自分でも驚く程に勇敢だった。絶体絶命過ぎて、逆に覚悟が決まったのかもしれない。
「じゃあ我慢比べと行こうか」
指の骨をコキコキ鳴らしながら、小柄な男が一歩近づいた。僕はこの宝物を守りきれるだろうか……。
「いーや、その必要はねえ」
ぎゅっと瞑っていた目を薄っすら開けると、臨戦体勢だった小男の前に、大柄な男が割って入っていた。
「いいか坊や。俺たちが欲しいのは綺麗な宝石じゃあない。金だ。お前がどうしてもそれを渡さないってんなら、お前を奴隷商に引き渡して金を手に入れるだけだ。その宝石を金にするよりもよっぽどいい稼ぎになる」
「奴隷……」
その言葉を聞いた途端、スッと頭が冷めていくのを感じた。
「そりゃ名案!」
「だろう。坊やに選ばせてやるよ。どっちがいいんだ?」
男たちはニヤニヤしながら僕を見下ろしている。
そうか、奴隷というのはこうして調達されるものなのか。やっぱりそうだ。望んで奴隷になる奴なんている筈ないんだ。
「奴隷になるよりマシだろう?」
男の手が、僕の胸元へと伸ばされた。その時───。
上から何かが降ってきた。それは僕と男達の間にストンと殆ど音もなく着地した。
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