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出会い 2
「なあちょっと聞きてえんだけど」
その塊──人間は、この状況にそぐわないのんびりとした声色で男達に対峙した。
「な、なんだてめえ!いきなり現れやがって!」
「あんたら、奴隷商にツテあんの?」
「ああ!?」
「だから、奴隷商の知り合いがいるのかって聞いてんだけど」
「黙れ!邪魔だ!どけ!」
「なあ、知ってんなら紹介してくれよ」
「アニキ、こいつぶちのめしてやっていいっすか!?」
人間──どうやら声色からして男だ。は、小柄な男の威嚇をものともしていないどころか、掴みかかろうとする男の手を軽くいなしたかと思えば目にも止まらぬ素早さでその背後を取っていた。
「ひえっ……」
小男の口から情けない声が漏れて気が付いた。その喉元に鈍く光るナイフが突き付けられている事に。
あ、危ない。この人、一番危険な人だ。
空から降ってきた男を初めて正面から見た第一印象がそれだった。目深にフードを被っているため顔ははっきりしないが、思ったより若そうだ。彼の持つもので何より危険を感じたのは、その手にしているナイフよりも寧ろ鋭い眼光で、それは体格のいい男へと真っ直ぐ向けられていた。
「教える気になった?」
「い、いや……悪いが、知らねえ」
「あ?」
「奴隷商なんか知らねえ!あいつを脅すために使ったただのハッタリだよ!」
男達は、自分の半分にも満たない体格の青年に完全に白旗を降っていた。無理もない。青年のナイフは脅しでもハッタリでも何でもないって、睨み付けられてる訳でもない僕でも分かったから。
ぴんと張り詰めていた空気がふと緩んだ。そう思ったと同時に青年が男に回していた腕を解いていた。
「悪かった。早とちりしちまって」
ばつが悪そうに鼻の下を擦る青年からは、先程まで纏っていた針の様な殺気はまるで感じない。
「あ、ああ。いいって、ことよ」
それでも、ついさっきまで鋭い殺気に射ぬかれていた男達は愛想笑いを浮かべつつ後退りをしている。
「じゃあ、俺たちはこれで……」
男達が逃げるように去っていった後に残されたのは、服を着てない僕と、フードの青年。
「わ、わあっ!」
この青年にもネックレスを狙われたらどうしよう。目を合わせないように地面を見つめていると、いきなり何かが降ってきた。ばさぁと僕の頭に被さってきたそれは、ほんのり温かかった。
「え……」
投げられたものがさっきまで彼が羽織っていた深緑色の外套だって事はすぐに分かった。僕が驚いたのは、呆気に取られたのは、それまで隠されていた彼の容姿があまりにも────。
「ここはお前みたいな坊やがいていい場所じゃないぜ」
「あ、え……ま、待って!」
くるりと踵を返した背中に叫ぶも、彼の歩みは止まらない。
「待ってよ、ねえ、ありがとう!」
彼に貰った外套を羽織りながら、足を縺れさせながら走って彼に追い付く。並んで歩いてみて気付いたが、彼は不要な足音も立てず息も乱さないのに歩くのが凄く早い。はあはあ息を乱しながら隣を歩く僕に彼はちらりと視線を寄越した。ふわりと優しい薄桃色の瞳は美しく、この掃き溜めの様な場所には似つかわしくない。
「君のおかげで助かったよ」
「別にお前を助けた訳じゃないさ」
「けど、現に僕は助けられた。上着も、ありがとう」
彼のくれた外套は僕が着ても足首のちょっと上まであって、下着一枚だった下半身もすっぽり隠してくれている。それだけで、どれだけ僕の尊厳が守られたか……。
隣を歩く彼の目線は僕とほぼ同じ。体格も同じくらいだけど、彼の方がほんの少しほっそりしている。先程見せた、その身軽さを生かした機敏な身のこなしは、今思い出しても格好良くて惚れ惚れする程だ。
「お前、金貨使ってたろ」
「え?」
「そんなもん見せびらかしたら、襲われたって文句言えねえぜ、ここでは」
青年は相変わらず足早にすたすた歩きながら肩を竦めた。彼が言っているのは、リンゴを買った時の事だ。彼はあの時から僕を見ていたのだろうか。それにしても、どうしてこんな立て続けに狙われるんだろうとは思っていたけれど、そういう事だったのか。金貨は確かにこの国で流通しているお金の中で一番高価なものだ。僕の生きてきた世界ではそれを使うのは当たり前だったけれど、ここではそうでないのだ。僕は何も知らなかった。
「君は、僕から何も盗ろうとしないんだね」
「財布を掏ろうと思ったが、先を越されたんでな」
にっと、片方の口の端だけを持ち上げて彼が初めて笑った。それは嘘だ。直観だけだけど、そう思った。彼は初めからずっと僕を見ていた。彼が本気なら、あの身のこなしを持ってすればどれだけライバルがいようと警戒心ゼロの僕から財布を掏るくらいお手のものだったろう。まして、子供に先を超されるなんてあり得ない。
「僕を心配してくれたんだ」
彼の視線が僕に向く。眉が上がって、一瞬驚いた様な無防備な顔を見せる。
「僕のこと、つけてたんでしょ?」
「……死なれでもしたら、寝覚めがわりいから」
やっぱり。彼は僕を心配して見守ってくれていて、助けてくれたんだ。癖なのか、また肩を竦めた彼は僕から視線を外してやれやれと首を振る。彼は空から突然降ってきたみたいに僕は感じたけど、そんな筈はないのだ。見た目は、天使だと言っても差し支えないけれど。きっと彼は僕の背後にそびえ立っていた壁から飛び降りたのだろう。どうやって登ったのかなとか、どうやって姿を隠していたんだろうかとか疑問はあるけれど、彼ならやってのけそうだし、一番現実的な解釈でもある。
「ありがとう。僕がこうしていられるのは君のおかげだ」
「さっきも聞いた」
「何度でも言わせてよ。僕は本当に君に感謝してるんだ」
「勝手にしろ」
「うん、勝手にする」
大通りに出た。彼は真っ直ぐ前を向いたまま、僕を見てくれなくなった。また、あの綺麗な瞳が見たいんだけどな。
「君、名前はなんて言うの?」
「何でもいいだろ」
「知りたいな。僕の事はルーシュと呼んで」
「…………」
「ここはなんて街なの?僕、馬車の荷台で昼寝してて、気付いたら知らない土地にいて。お腹がすいてここで降りたら、乗ってた馬車に置いてかれちゃったんだ」
「どんだけ抜けてんだ、お前」
「えへへ」
呆れた顔ではあったしチラッとだけれど、また彼の瞳を見ることが叶って僕はご満悦だ。調子に乗ってぺらぺらと取り留めのない話をしてみたけど、彼は聞いてるのか聞いていないのか、相槌すらまばらで、視線も全然向けてくれない。仕舞いには少し黙ってろ、とちょっと不機嫌そうに言われてしまった。
彼はどこに向かっているのだろう。もう結構な時間、結構な距離を歩いている。それまでずっと彼の姿ばかりを見ていた視線を外して辺りを見回すと、いつの間にやらさっきまでとは風景が変わっていた。その街並みは古く寂れてはいるけれど、通りはゴミだらけではない。道行く人々の顔付きや歩き方も、さっきまでいた通りとは全然違う。彼の隣を歩く内、危険なスラムを抜けていた様だ。
「君はこの辺に、」
きっとそうだと思った。スラムは彼には似合わない。彼はこの辺りに住んでいるんだ。それを確認しようとしていたのを遮って彼が口を開いた。
「ここまでくればいいか」
「え?」
「あとは自分でどうにかしろよ」
「ええ?」
「馬車でも拾えばいい。家まで帰れば払えるだろ」
「ちょ、ちょっと待って!」
出会った頃と同じ様に、彼は僕に背中を向けてすたすたと迷いなく元来た道へと踵を返した。
「き、君はどこに行くの?」
「帰る」
「え、帰るってどこに、」
「うるせえな。もう関係ねえだろ」
何の感情も籠っていない、酷く冷たい声だった。それが彼の口から出た事を一瞬信じられなかった。信じたくなかった。振り返った彼の切れ長で涼しい目尻が鋭く吊りあがり、これ以上踏み込むなと警告している。目に見えない境界線を、ばっさりと引かれた気がした。僕が言葉を失っている内に、彼はさっさと姿を消してしまった。相変わらず足音はなく、その歩みは風の様に颯爽としていてひとつの迷いもなかった。
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