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ピュア・ホワイト・ナイチンゲール⑦
ドアをくぐると、そこは……
周りを見ようとして、直ぐに異変に気が付いた。踏みしめるべき地面の感触がない。なのに、慌てて足を動かすと、その方向へと体が急に動き出す。
「うわっ!」
あらぬ方向へ行こうとした俺の手をルースが引っ張る。俺の体がふわりと引き戻され、そのままルースの腕の中に、後ろから包むように抱えられた。
「危ないよ」
「お、おう」
まるで固い液体の中にいるような感覚だ。
「大丈夫?」
ルースが耳元でささやく。ぞくっとした感覚を覚え、慌ててルースから体を離そうとしたが、彼に抱かれていてはそれもままならない。
「だ、大丈夫だけど、ちょっと、その、近いんじゃ」
「今離すと、キミはふわふわと浮いてしまって、じっとしているのもままならないと思うけど」
そう言ってルースが、さらに強い力で俺を抱きしめる。
ほとんど筋肉というものがついていなさそうな、華奢な体。骨格をダイレクトに感じる平べったい胸。背中にあたるルースの感触が、彼が正真正銘の男であることを物語っていた。
ふと、ルースの匂い――木と土の香りが鼻をかすめる。
するとなぜかまた、鼓動が速くなるのだ。
「こ、ここは、どこなんだ?」
どうにか意識を他へと向けようとして、今度はゆっくりと辺りを見回す。
真っ黒、ではない。濃紺というべきか。四方八方、その色がどこまでも続いている。その中に、金平糖をばらまいたように、白く光る点がいくつも浮かんでいた。
「ここは、ボクの城。世界と世界を結ぶ回廊、ともいえるかな」
ルースの吐息が耳にかかる。
ほんと、まじ、やめて欲しい。
「すまん、イミフだ」
「でも、人間がここに足を踏み入れると、魂が体から離れてしまうから、気を付けてね」
「そもそも人間がどうやってこんなところに」
来るんだよ……って、ちょっと待て。
「お、俺は大丈夫なのか? 俺は人間だぞ」
まだ肉体とおさらばしたくはない。ドアの方へ戻ろうと手足をばたつかせてみるが、ルースの腕から逃れることはできそうになかった。
放せ、俺はまだ死にたくない!
「落ち着いて、コノエ。大丈夫だよ。さっき、『準備』をしておいたからね」
「準備?」
「うん。キミに、その、飲んでもらっただろう?」
耳にかかるルースの吐息が、なぜか湿っぽさを帯びる。
何を、とは聞かなかった。アレ、か。
なんとなく、これまでのルースの行動の意味が分かったような気がして、体の中の熱が引いていくのを感じた。
いや、こんな状況を理解するのも納得するのも不可能なんだろうが……なんだろう、諦めとも違う不思議な感覚だ。
俺が落ち着いたのを見たからだろうか、ルースがようやく俺を抱擁から解放する。体が、漂うようにゆっくりと回転し、ルースの方へと向いた。
ルースの顔には、ほのかな赤みがさしている。
事ここに来て、ルースが人間ではないことを俺は受け入れていたが、顔が赤くなるのは血が通ってるからに違いなく、ルースは『神』を自称していたわけで、神も人間と同じく血が通った存在ということなのだろうか。
「そ、そんなに見つめないでくれよ。一応ボクにも、恥じらいというものがあってね」
俺に見られるのが、なぜそんなに恥ずかしいのか、よく分からない。
世の中分からないことだらけだ。
「結局あの『お茶』はなんだったんだ?」
「あ、ああ、あれ? だからあれはボクの、おしっこだよ」
そう言ってルースは、見ている方が恥ずかしくなるくらいに顔を赤らめた。
いや、ルース、俺が聞きたかったのはお茶の効能であって、成分じゃないんだよ……
というか、蒸し返すなよ……
「それは冗談だって、お前さっき言っただろ。いい加減、そう言う冗談は」
「え? あ、ああ、うん。『入ってる』っていうのがね。あれ、実は全部」
「もういい、言うな!!」
俺は急いでルースの口を手で押さえる。その手を、ルースの手がゆっくりと握り、口から離した。
「気持ち悪い、かな」
紅い瞳が、俺を見つめる。背中に、凍えた電気が走った。
また、だ……
「べ、別に、気持ち悪くはないけど」
俺がそう返事をすると、ルースは、しかし今度は少し不満げな表情を見せた。
なぜ、と聞く気にはなれない。というか、考えてはいけない。
これは……地雷だ。
「ふぅん、そう。じゃあ、行こうか」
「どこへ」
「あそこ、だよ」
そう言うとルースは、近くにあった光る点の一つを指さした。
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