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ディープ・クリムゾン・サフラワー⑧
姫君の容貌は、藤から聞いていたことから想像していたものとは一八〇度違っていた。
でもそんなことがすべて吹っ飛んでしまうくらいの衝撃――姫君は『彼女』ではなく、『彼』だったのだ。
そういうことか……
いろいろ合点がいくことがあった。
でも……なぜ、泣くんだ? それが分からない。
「あ、あの……」
全く事態が理解できず、部屋であれこれ考えていた俺に、藤がおそるおそる声をかけてきた。
「あ、ああ、藤。来てたのか」
「はい、お声が聞こえましたので」
悲鳴を聞きつけてやってきたのだろう。
「そうか……って、おい、『姫君』って、男じゃねーかよ。どういうことだ」
俺の詰問に、藤は小さく、しかし俺に聞かせる風に「ばれちゃいましたか」とつぶやいた。
「なぜ、お分かりになられたのですか」
「あ? いや、蜘蛛を怖がったので、取ってあげようと思って、そうしたら引っ張られて、一緒になって倒れて……」
「押し倒したのですね!」
藤は胸の前で手を組みながら、目をキラキラさせて俺を見つめている。
「ちがう! 断じて違うぞ!」
俺の全力の否定に、藤はがっかり感を全身で表現した。
なぜ? なぜなんだ? というか、お前、なに期待してんだよ。
「単に、胸に手が当たっただけだ」
しかし、俺の次の言葉に、なぜか藤の勢いが復活してしまった。
「雄っぱいですね! 雄っぱいを触ったんですね!」
なんだろ、この、びっみょーに違う『お』のイントネーション。
「触ったんじゃなくてな」
「触ったのでないなら、何ですか」
藤は俺への追及の手を緩めない。でも、なんか、責められてるポイントが違うような気がする。
多分、気のせいじゃないだろう。
「いや、それでな。姫君……じゃないな。あー、そうそう、宮様。泣いてしまったんだけど」
自分がやった行為を一つ一つ確認してみる。俺、泣かせるようなこと、何もしてない、よな……
「雄っぱいですね。触ったんですね」
こいつ、絶対面白がってるだろ。
「ああ、そうだよ。触ったよ。むにゅっじゃなくて、ぺたんを、さーわーりーまーしーたー」
ガキ相手にムキになるのも癪だが、こういう奴には一発ガツンとやらなきゃ、つけあがるに違いない。
「あ、開き直りましたね。そういうつもりなら、こちらにも考えがあります。で、宮様の胸を触って、泣かせてしまった、と」
メモメモ……藤がそんな仕草を見せる。
「ちょ、ちょっと待て。冤罪だ。そもそも、男が胸を触られたくらいで、何で泣くんだよ」
俺の弁明に、藤はうつむき気味の顔はそのままに、上目遣いで俺を見た。
「実は宮様、幼少の頃より、女性として育てられた方でして」
「そ、そうなのか?」
「ええ」
「やっぱり、胸を触られてショックだったのか」
悪いことしたな……
「いえ、多分そうじゃないと思いますが」
「違うのかよ。じゃあ、何で泣いたんだよ」
「それは……藤にも分かりません」
分からないなら言うなよ――と続けることもできたが、状況を考えるに、あまり茶化すようなものではない気がした。
「なんか、複雑な事情でもあるのか」
そう尋ねてみる。
「近衛様は宮様のこと、どう思われました?」
しかし藤は俺の問いには答えず、質問に質問で返してきた。
俺の顔をのぞき込む目は、真剣だ。
「どうと言われても」
「感じたまま、お教えいただければ」
さっきまでの雰囲気はどこへ行った……
「とても綺麗な人だった。これでいいか」
それを聞いた藤の表情といえば、まるで火星人を見るような、それだった。
「なんか、おかしいか?」
「い、いえ、そういうわけでは無いのですが、あの、宮様は、男ですよ?」
「お前が感じたまま言えって言ったんだろうが」
俺は少し苦笑いしながら答えたが、藤の表情が崩れることはない。
結局、藤が何を言いたかったのかも、『宮様の謎』も分からないまま、俺は屋敷を出るしかなかった。
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