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十六夜の月に濡れて⑨

 これを何に使うんだ――と訊くのは、きっと野暮なことなのだろう。  水差しの蓋を開け、においを嗅いでみる。ほとんどにおいと呼べるようなにおいはしなかった。  と、宮様が、顔を覆った指の間から俺を覗いている。しかし視線が合うと、その指の隙間が閉じてしまった。  何というか、何となく気まずい。盛り上がったところで、「ゴ、ゴム付けてね」と言われる、あの感覚。そりゃ、必要なんだろうけど、予め準備をしておくほどの気配りもなく、いやそもそも、そんなことをするなどとは思ってもいず……  ふと、宮様の格好が気になった。毛皮のコートは着たままだが、単衣の前ははだけてしまっていて、月明かりに透き通るような白い肌が見えている。 「寒いんじゃ、ないか?」  風邪でも引いたら大変だ。生憎、部屋の中には暖房と呼べるものはなく、御簾を開けたままにしていたせいで、ひどく肌寒い。服を着たままの俺でさえそうなのだから、いわんや、宮様をやといったところだ。  俺の言葉に、宮様は少し遠慮がちに小さくうなずいた。 「だよな……」  どうしたものか。そう思って部屋の中を見回したところで、宮様が俺の左手を取った。俺の右手にはキャノーラ油が握られたままだったから。 「こちらへ」  そういうと、宮様が立ち上がる。手を引かれるままについていくと、宮様は部屋を出て、短い渡り廊下の先の部屋へと俺を案内した。  中庭は広かったが、暗い中でも、余り手入れされていない様子が分かる。御簾を押し広げ、部屋の中へ入ると、そこはほのかに暖かかった。赤く熾ったものがいれてある容器が、部屋の中に二つ。部屋の中央には、さらに蚊帳のようなものに仕切られた空間がある。 「ここならば」  そう言って宮様は、俺を蚊帳――几帳というのだろう――の中へと誘った。中には畳を重ねたようなものがある。これがベッドなのだろうか。几帳の中からでも炭の赤い光と、燈明だろうか、オレンジ色の揺れる光ががかすかに見えている。  これならば、寒くはなさそうだ。   「なるほど、炭か」  俺がそうつぶやいた瞬間、ぱさっという音が几帳の中に響いた。見ると、宮様が毛皮のコートを脱いでいる。  俺に背を向け、そして帯を取る。ぎこちない動きとともに、宮様が着ていた単衣が、全て床へと落ちた。  きっと、ふくよかな体つきをした女性の方が、色気という点でははるかに勝っているだろう。宮様の体つきは、それとはまさしく対極に位置するものだった。  背丈は俺よりも少し低い。やや広めの肩幅は彼がやはり男なのだというとこを感じさせるが、そこから腰にかけて急カーブを描きながらくびれていて、肩甲骨と肋骨が浮き出て見えている。お尻にも足にも『肉』と呼べるものはほとんどついておらず、スマートに過ぎる後ろ姿は、どこか痩せすぎたモデルを思い起こさせた。  体を合わせる――宮様と。いや、男性と。  そんな思いが頭をよぎる。越えそうになった一線。改めてそれを意識した時、再び俺の中にある種の『怯え』が鎌首をもたげたようだが……  美しい。  そんな怯えは、宮様の後ろ姿が調伏させてしまった。まるで自分の胸を隠すように、宮様が自分の体を抱えている。 「コノエも」  宮様の声は、微かに揺れていた。それが、俺が感じたのと同じような怯えから来るのか、それとも何かしらの期待から来るのか――  それは分からない。でも、宮様は『そう』されることを『渇望』しているのだ。  俺は、宮様の言葉には返事をせず、ゆっくりと、着ていた毛皮のコートを脱ぐ。ふと、ルースの顔が頭によぎった。  別に、ルースとは何の関係でもない。そう思い直して顔を上げる。  宮様が、燈明の光を瞳に反射させて、肩越しに俺を見つめていた。

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