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人間とは③
派手に地面にたたきつけられた男が俺に見せた顔は、何が起こったのか理解できないといったものだった。いや、実際のところ、自分でも何が起こったのかわからないでいる。
男の手首をつかみ立っている俺。地面にあおむけに倒れ、俺を見上げる男。二人の間に、時が動かない時間が数秒流れる。
我に返ったのは二人同時だった。男が激しく手を振り払う。慌ててその手を離したが、着ていたトレーナーに包丁が当たり、血が付いた。
起き上がった男と数メートルの距離でにらみ合う。怖さはない。ヒーノフと対峙したときは死を覚悟したものだが。
と、突然男が俺に背を向け走り出した。あっけにとられたが、追いかける理由はない。逃げたいのなら逃げさせておけばいい。男は、出てきた雑木林へと入っていった。
そういえば――
逃げた男に刺された男がいたはずだ。闇が迫る辺りを見回し、男が草むらの中に倒れているのを見つけた。
「大丈夫ですか」
駆け寄り、声をかけ、揺さぶろうとして、やめた。
辺りには、煙立つほどに土の匂いが充満している。これが地面のにおいではないことが、俺にはすぐに分かった。
この人はもう、死んだのだ――
と、男の体から小さな光の粒がにじみだし、靄となって宙に沸き立つ。そのまま空へと昇ろうとする光の靄に向け、俺は手を差し伸べた。
「おいで。一緒に行こう」
その声にすぐ、光の粒たちが反応した。ゆるく吹き付ける夕暮れの風にも流されることなく、俺の手のひらへと集まってくる。どんどんと集まり、やがてそのすべてが俺の手へと入っていった。
改めて男を見下ろす。街中で見かけた平安風の男性の恰好をしている。
決してみすぼらしい恰好ではないが、高貴なものでもない。一体、どういう人でなぜここにいて、どうして襲われたのだろう――
漠然と、そうとだけ思った。
目をむき、血まみれの状態で動かなくなった男を見ても、恐怖、悲哀、果ては憐憫すらも感じない。
「俺、人間の死に、こんなに鈍感だったっけな」
それが『眷属』なのか、それとも生来の俺の人格なのか。少し憂鬱になる。
とりあえず俺の目の前で起こったことは明らかな『事件』だった。でも、この世界に警察はいるのだろうか? いや、もちろんいないだろう。
どうすればいいか、途方に暮れる。かといって捨て置くのもさすがにかわいそうだ。
「困ったな」
そう独り言ちたところで、いきなり大きな声をかけられた。
「おい、お前、何してる!」
驚いて、声のした方へと振り向く。振り向いて、さらに驚いた。
少し離れた場所から男が馬の上から俺を見つめている。上下白い服装で――狩衣というのだろう――頭の上には烏帽子、背中には矢の入った矢筒、手には弓を持っていた。
馬の周りには、お付きのものだろうか、五人の男たち。鎧のようなものを着ている者もいる。
「ええっと、ですね」
何か嫌な予感がした。とりあえずどう説明しようかと考えているところに、再び男が声をかけてくる。
「人殺しか。捕まえて検非違使に突き出してやろう。かかれ!」
馬上の人物からの掛け声に、周りにいた男のうちの三人が俺へと迫ってきた。手には反りのある刀。
「いや、誤解です。俺はこの人が刺されるのを見て」
そう叫んでみたが、男たちは止まらなかった。容赦なく、次々に斬りかかってくる。やはりその動きも、スローモーションに見えた。
――死んでしまうだろ、それじゃ。
何が『捕まえて』だ、と文句を言いたくなったが、さすがにそんな暇がない。一の太刀、二の太刀とかわし、三人目の太刀が迫ったところでかわし切れなくなり、仕方なく太刀を持つ手を取る。が、止めることはできない。動きは遅く見えても、その勢いは俺の手にずっしりとのしかかった。
腕の軌道を変えるだけにし、なんとかミリでかわす。男が勢い余って、盛大に前へとこけた。
「な、こやつ、何者だ」
こけた男が、驚いて俺を見る。
「あ、いや、ただのニートです」
多分『ただの』ではなくなっただろうし、『ニート』と言っても通じないだろう――
「ただの流浪民が、そのような体術を使うわけがなかろう。妙な身なりをしておる、どこの手のものだ」
って、通じてるし。というか、そうか、通じるんだっけ。
「故上総宮の姫君より源大納言様への使いの者だ。怪しいものじゃない」
いや、まあ、たっぷり怪しいけど。
「はあ? 貴様、何を寝言を」
別の男が、刀を構えながらそう息巻いた。
「いや、寝言じゃなくて」
「この人殺しめ、覚悟しろ」
なんて面倒な!
切っ先をかわすのは簡単だろうが、足が速くなっているわけではない。これじゃ逃げることもできない――
「待て!」
トホホと困っていたところに、また声がかかった。馬上の男だ。
俺を取り囲んでいた三人が、一斉に声の主を見る。
「しかし中将殿、この者」
「いや、いい。この者に見覚えがある。それに大納言卿もそんな話をしていた。貴様、平近衛というものだな」
馬上の男が、ゆっくりと馬を進めてきた。
なぜ俺のことを知ってるんだ――そう思い、男をよく見てみる。
馬上にいて分かりにくいが、あまり背は高くない。狩衣を着ているので体は膨らんだように見えるが、実際もあまり引き締まった体ではないだろう。
「ああ、あのドタキャン男!」
大納言と一緒に綺美の屋敷の周りを歩いていた男だ。
太い眉毛にどんぐり眼。愛嬌は感じる。コメディアンになったほうがいいぞ、お前。
「な、なにを言うか、無礼な。急に訪問を取りやめることなどよくあることだ。まるで俺が悪いように言うな!」
その割には、中将はずいぶんとバツが悪い様子で言い訳を口にした。いや、無礼なのはあんたのほうだろ――とは言わない。
「えーっと、近衛の中将殿」
「そうよ。まさか貴様が、あの屋敷の使用人だったとはな」
中将は顔をしかめて俺を睨んだ。
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