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第1話 入り口
大学に向かうために、少し軋むドアを開けて木造アパートの廊下に出る。
クーラーをつけるため閉め切った部屋に居ると気にならないが田舎でもないのに周りが緑だらけのこの近辺は、一歩外に出ると朝からセミの大合唱が降り注ぐ。
八月──夏休みにはまだ一週間ほどあり、その喚 き声だけで体感温度が上がる気がしてうんざりした。
鍵を閉めていると背後のドアの内側からゴトンと何かにけつまづく音がした。
お向かいの須藤公央 がまた慌てて出て来ようとしている。
──なんでいつも焦ってるんだろう。
同じ大学の一つ上の先輩を思い浮かべて頬が緩む。蒸し暑い鬱陶しさなど吹き飛んだ。きっと今朝も同じように──。
ガチャリとドアが開いて背中を丸めた須藤が顔を覗かせる。そして咳払いを一つして妙にかしこまった声で言った。
「おはよう、新太 君」
「──ぷっ、あははは。おはようございます須藤さん」
「おは、よう……今日も楽しそうで……なによりだ」
やっぱり同じだった。自分から挨拶しておいて、もう一度繰り返している。それから楽しそう、で済ませているが僕が何を笑っているのか分かってないはずだ。別に僕はバカにして笑っているわけではない。強 いて言えば愛おしさから溢 れてしまう類のものだ。
須藤は年上にも関わらず人擦れしていない妙な初々しさで、僕と話す時には大抵、緊張している。かと思うと完全な理系オタクで、物理や宇宙の話を始めると口調まで変わって延々と語り始めたりする。僕は丸っきりの文系人間で、話す内容は半分も理解できない。そんな事はお構いなしに熱弁を奮う須藤が、いつものオドオドした態度と同一人物とは思えず、気付けば熱心に聞いている。そんな須藤の意外性が、わけもなく可笑しい時がある。例えば今も。余裕などないのがバレバレなのに澄ましてみせる所なんかが。
彼との初対面時のインパクトは強烈だった。きっと忘れることはできない。
今年の三月、大学に受かった僕はこの築五十年という超年代物の木造アパートに上京してきた。建物には月光荘という古風な名前が付いている。このボロアパートは全四戸しかない。少し変わった造りで、上下垂直に並んだ二戸の家が向かい合って建っている。その二階の片方に入居した僕は、数少ない住人へ挨拶に出向いた。まずはドアを開けて真向かいの表札を眺めると、かなり手の込んだ几帳面な手書きで須藤とレタリングされていた。入居前に二階には先輩が居ると聞いていた。ならこれは、その先輩が書いたということだ。本人が書いたという確証はないが、少し意外な思いで手書き表札をまじまじと見た。
──この字のように気難しい人だったらどうしよう。
僕は少し気後れしながらインターホンを鳴らす。
中で人の動く気配がした。
……出て来る。
緊張して肩に力を入れて待っていると玄関でゴツンと鈍い音がした。あまりの大きな音にビクリと体が震える。
それからゆっくりドアが開くと、額を押さえた大男が目の前にぬうっと立っていた。
アタマ、打ったんだ。
その仕草ですぐに分かった。造りの古い昔の扉は見上げる大男の長身では、ぶつけても仕方のないサイズではある。今はぶつからないようにか、かなり猫背気味に立っている。それにしても、一年近くは住んでいるはずなのに。
それからもう一つ、僕を驚かせたのはその風体だった。ハッキリ言って異様だ。
髪はもじゃもじゃの伸び放題。前髪がすっかり目を覆ってしまっている。そのうえ有り得ないほど太い黒縁フレームのメガネが顔の半分もある。さらに言えば不精髭まで生えていて、もう全く人相が分からない。服装は襟の伸びたTシャツにジーンズ。景観も相まって昭和、それも初期時代にタイムスリップしたのかと思ったくらいだ。
失礼にも僕が唖然としてしまって声も出せずにいると、これもまた風貌に似合わない小さな声が降ってきた。
「あ、あの……どちら様……でしょう──」
困惑した声に僕は悪いことをしているような気分になって、無駄に明るいセールスマンのように捲 し立てた。
「済みません。僕、向かいに越してきた久下宮新太 です。同じ大学で須藤さんの後輩に当たります。よろしくお願いします。あ、これつまらない物ですがどうぞ!」
「あ──はい」
手土産のタオルを押し付けるように渡すと、勢いに圧 されたように須藤は短く答える。渡された包みに視線を落とし、それ以上何も言わない。役目は果たしたので僕も満足だった。
「それじゃあ僕はこれで──」
「……あの……」
背を向ける僕へ須藤が声をかけた。
「はい?」
「久下宮さんって大家さんの……」
須藤が言わんとすることは分かる。
実は月光荘 は婆ちゃんの経営するアパートだ。ちょうど空きの出たこの部屋が大学からほど近かったので、融通を利かせてもらった。けれど僕自身になんの力もない。変に気を使われたくなくて言った。
「はい。僕は孫です。でも他の店子さんと同じですから」
「そう……ですか」
須藤がタオルの包みを握った。僕が持っていた時よりやけに小さく見えるそれを握り締めて、小声で答える須藤が人見知りする子供のように見えて妙に安心させたくなった。
「だから敬語なんて使わないで下さい。ただの後輩なんだから下の名前、呼び捨てでいいです」
部活、特に運動部の経験がないのかなと思う。その体躯からは考えられないが。けれど中学、高校とテニス部だったが敬語を使う先輩なんて考えられなかった。
「呼び捨ては、ちょっと……それじゃあ、新太君って呼びま……呼ぶよ」
「はい。それでお願いします」
「……あ、新太君、ありがとう……」
「はい」
答えて微笑むと須藤は小さくお辞儀をしてドアを閉めた。
閉まった扉の前で自然に口元が綻んだ。あんな人の良さそうな人種がこの時代に生きてるなんて。天然記念物みたいだ。大袈裟ではなく僕はそう思っていた。
それもたいがい失礼だけれど。
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