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第1話 雛鳥の憂鬱な朝
夜明けは静かにやってくる。
王の寝所の守り番に就いているゐ号(いごう)は、まんじりともせずに閉じていた瞼を開いた。先ほどまで寝台の中から零れていた嬌声は止み、もうすぐ日が昇る気配がする。中王国国王の八尋(やひろ)が短い微睡みののち、執務に取り掛かる朝がこようとしていた。
眠れぬ夜が明ける毎に、ゐ号は複雑な感情を抱かざるを得ない。王の寝所へ侍る伽役たちのあの時の声を聞きながら過ごす夜は、永遠に続く責め苦のようで気が狂いそうになる。一方で、夜明けとともに勤めを終えた伽役の着衣の乱れた様子などを目の当たりにするのも、ゐ号にとっては苦行の一種であった。
(他の者は考えもしないだろう、きっと。わたしだからだ……)
紺地に銀の織糸が入った重たい軍装に身を包み、剃刀のように真っ直ぐな漆黒の髪と眸を有するゐ号は、明るい髪色の多い中王国では「異国色」と呼ばれ、とても目立った。白皙の頬に、切れ長の二重。すらりと整った鼻筋。ぽってりとした唇は、まるで稚児のようだと誰かが言うのを、何度聞いたことか。表情を変えない眸は怜悧で、ともすれば氷のようだ。その実、内側に炎を宿していることは、口を利いてみればわかると誰もが言う。
王都随一の高級娼館が立ち並ぶ花街から国王直属の親衛隊へ半強制的な入隊許可が下り、副隊長に抜擢された今でも、ゐ号は己の複製体である四十五名の伽役たちの区別がつかない。自分と同じ細胞から生み出された複製体たちは、八尋の寝所から続く南の外廊下を下った先にある「奥」に住み、「いろは歌」に「号」を付けて数えられているが、それらを完全に見分けられるのはただひとり、八尋だけだと言われていた。
「それでは陛下、これにて失礼いたします」
伽役の暇乞いの声にさえ、ゐ号は苛立ちを滲ませた。
(劣種ふぜいが、陛下の寝所で夜明かしなど……)
寝所より下がりきた伽役の何号だかが、王の寝所の守り番をしているゐ号の控え所の前の、衝立で仕切られた内廊下を退出してゆく。その衣擦れの音さえ冷たい心で見送り、ゐ号は短く嘆息した。
これでやっと、月に二度、回ってくる守り所での勤務が終わる。閨では奔放な八尋の声を一晩中聞きながら、自分と同じ「核」を持つ複製体が、同じ顔、同じ声、同じ身体で八尋に抱かれ、拓かれ、乱れてゆくのを知ることは、色々な意味で堪えた。ゐ号が必要以上に己を律するのは、自分こそが複製体の「核」で、唯一の存在であるという自負に拠るところが大きい。
毎夜、伽役を取っ替え引っ換え行為に及ぶ八尋の行状を、強いと尊敬こそすれど、嘆く者は少なくとも王城内にはいない。王は何事にもすべからく秀でているべし、という考えが底流にあるせいだ。重ねて国王である八尋の閨での振る舞いを口にする不敬を働く者などいようはずがなかった。
しかし、その沈黙が、ゐ号を余計な同族嫌悪に駆り立てているのも、また事実だった。
軍装の襟を正し、交代のために守り所から外廊下へ出ようとすると、昨夜の伽役であった何号かが、扉の前で逡巡していた。
「何だ?」
出入り口を塞いでいる伽役に、ゐ号が不機嫌な声を出す。
「あ、あの……忘れ物を……」
「忘れ物?」
蚊の鳴くような声で恐縮する伽役に、ゐ号は眉を顰めた。朝の寝所へ、八尋の眠りを妨げてまで、伽役を戻すわけにはいかない。
「も、申し訳ございません……! 抑制剤の青い小瓶を、たぶん、寝台の横の棚の上に……」
「取ってくるから、ここで待っていろ」
ゐ号は伽役の恐怖の混じった声色に再び苛立ちを覚え、踵を返した。
「陛下、お休みのところ、大変失礼いたします」
「ゐ号か、どうした?」
一晩中、あれをしていたというのに、天蓋付きの寝台をぐるりと囲む半八角形の衝立の裏で、八尋はもうすっかり目を覚ましていた。
「伽役が忘れ物をしたようで……青い抑制剤の小瓶がそちらにございますでしょうか」
「ああ。ら号のものだろう。飾り棚の上にある。持ってゆくがいい」
「は」
軍装から、ゐ号だと見分けているのかも知れないが、親しみを込めた笑顔を向けられると余計な詮索など吹き飛んでしまう。白髪と見紛う銀髪を緩く背中で編み込み、眸は透明度の高い湖の底のような深い色をしている。美しい姿だと、ゐ号は何度でも見惚れることができた。先王が引退し、二十三歳で即位した八尋が王となり足掛け四年、中王国は繁栄を極めている。
男女の性別の他に、優種・中種・劣種と呼ばれる種別が人には存在した。優種は能力が高く、王族や貴族などの支配層及び上級国民が大半を占め、中種は平均的な能力を持つ者が多く、被支配層及び中級とそれ以下の国民に多い。そして劣種は発情期を持ち、基本的に男女ともに子をなすが、読んで字の如く、能力が低いとされていた。ただ、稀に優種を産むことがあるため、高貴な優種の間では、一部の劣種は珍重され、保護の対象にもなっている。
中王国の王城内には王のために「奥」と呼ばれる後宮が存在し、国王の代替わりの際に、伽役として新たな劣種を「奥」に迎える伝統があった。父である当時の国王が王国随一の花街に赴いたのは、代替わりに際し、八尋に見合った劣種を見繕うためであったが、結局、目にかなう劣種がおらず、たまたま妓楼で下働きをしていたゐ号が八尋の目に止まったのは、本当に単なる偶然だった。
『父上、俺は、この者がようございます』
我が儘を言う王子を、父王は豪気に許した。元々、遺伝学の研究が盛んに行われている国柄もあり、前国王は八尋の提案を容れ、ゐ号を「核」として四十五人の伽役をつくり出し、彼らを「奥」へと迎えることにした。同時に、優種と判定されたゐ号は王城に召し抱えられ、二年の基礎教育ののちに、国王直属の親衛隊への狭き門を突破し、現在に至る。
ゐ号は「核」であり優種だが、伽役たちは八尋の相手ができるよう、遺伝子の幾つかを操作され、一代限りの子を産めない劣種が作り出された。彼らは夜毎、呼ばれた順番に八尋の寝所に忍んでくるが、子をなすことも、「奥」から出ることも、今はまだできない。
乱れた布団や枕や上掛けの類が、寝台の周囲に散っている。何が行われたかを嫌でも連想させる無秩序を、ゐ号はなるべく視界に入れぬよう、下を向いて慎重に飾り棚の上の青い小瓶を手に取った。尊敬するたったひとりの人の、くだけた内情を見るのは心苦しかった。それにより、ゐ号の心は千々に乱れ、わけのわからない苦しみに支配される。
だから、守り所にいる夜は落ち着かない。
「そなた、ら号か? この瓶で間違いないか?」
ゐ号が持ってきた青い小瓶を差し出すと、伽役はぱっと頬を赤らめ、ぺこっと頭を下げた。
「はい……! ありがとうございます……!」
ら号の羽織る薄衣の襟元に朱い痕を見つけてしまい、ゐ号はわけもわからぬまま、羞恥した。
「陛下の閨に忘れ物など、たるんでいるぞ」
「た、大変、申し訳ございません……っ」
「疾くゆくがよい。その姿を他の者に晒すな」
「はい……っ」
抜けた伽役もいたものだ、とゐ号がため息をつくと、やがて入れ替わりに白銀の髪を結い上げた、八尋にそっくりの男が寝所を訪ねた。
「妬いているのですか? ゐ号。そんな顔をしても、陛下が喜ぶだけですよ」
「八号……」
八尋の影武者の八号が、部屋から飛び出していったら号の背中を、憐れみを込めた視線で追った。八号は、八尋の「核」から生み出された、八体目の八尋の影武者だった。
「誰が劣種に嫉妬など……」
吐き捨てるように言うと同時に、ゐ号は耳が朱く染まるのを自覚した。八号は同僚だ。八尋とそっくり同じ姿だが、雰囲気がまるで違う。ゐ号が尊敬を向ける相手ではないので、多少気安かった。
「わたしはただ、風紀紊乱を憂いているだけです。劣種による」
「はは。ゐ号の劣種嫌いは徹底しているな。そんなに同じ顔が嫌か? 俺は伽役たちも、八号のことも、好きだが」
「陛下……!」
寝所より出できた八尋が揶揄すると、八号とゐ号はともに片膝を付いた。
「おはようございます、陛下。本日は終日晴れの予報でございます。方角は南南東が吉と出ました」
「ご苦労。ゐ号もご苦労であった。そなたの劣種嫌いは、なかなか治らぬな」
「複製体が陛下のお役に立てているのですから、好悪の感情など……」
畏れ多いとゐ号が頭を下げると、八尋は目尻に笑い皺を作った。
「いつかそなたと劣種について論じながら、飲み明かしてみたいものよ」
「は……」
八尋は時折、こういう冗談を言う。ゐ号は優種であるからこそ、親衛隊への入隊を許され、やがて副隊長に抜擢されたが、もしも劣種であったらば、見向きもされなかっただろうと思うと、暗澹たる気持ちになった。
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