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突然の帰省
僕には兄がひとりいる。僕とは年が二つほど離れた兄の那津美 は、ことあるごとに僕を『失敗作』と鼻で笑う。そうやって僕を見下すと決まって、那津美は嬉しそうに笑う。
そんな兄は名を体で表すように美しい。完璧な両親の才能と容姿を全て受け継ぎ、『完成品』として家族の寵愛を一身に受けていた。高校では生徒会長を任され、社会人でも向かうところ敵なしを地で行っていた。
二十五を迎えた那津美は、名のある資産家の娘、京子と結婚した。四十を超えた京子には、前夫との子供がひとりいた。名を冬真と呼ぶ。
京子と結婚してからの那津美は、両親の期待を徐々に裏切り始めた。結婚を機に実家から足が遠のき、最近では正月かゴールデンウィークくらいしか顔を見せなくなった。
当初、両親は那津美が年の離れた女性と結婚することに反対していた。母はことさら失望しているようだ。本来ならば口を酸っぱくして京子にもの申したいようだが、京子の親族側が圧倒的に主導権を握っていた。京子が上手だと分かるや、母はすぐに媚びへつらう。父も同じく、上に立つものに頭の上がらない内弁慶だった。
誰よりも那津美を猫可愛がりしていた母と父は、那津美という自慢の息子が年に数回しか顔を見せなくても、「那津美が幸せなら」と口を閉ざすだけだった。
那津美が家を出ると同時に、僕も東京にアパートを借りて、悠々自適な一人暮らしを満喫していた。
ある夏の昼、久しぶりに家に帰ったら、
「那津美が今年も帰ってこないのに、なんでは紬 帰ってくるんだろうね。あんたが那津美になにか悪いことを言ったんじゃないの?」
と、母は僕に愚痴をぶつけてきた。両親の様子を見に来た息子に向かって言う台詞ではないだろう。ご近所付き合いの鬱憤を晴らしたいのか、自らの手から離れて行く那津美を憂う気持ちかも知れない。僕が兄の那津美と比べて不出来だという罵りは、幸いなことに家という狭い世界だけで済んでいた。母は一歩外に出たら、美人で上品な奥さんを完璧に演じていたからだ。
「きっとそうよ、那津美が家に帰らなくなったのはあんたのせいよ」
母の目からしても、僕はぶつけても返してこない格好の的なようだ。それを黙って受け入れる自分が一番嫌いだった。
母はせいせいしたのか、言い返さない僕に背中を向けて、父を連れ立って買い物に出かけた。僕は留守番を言い与えられたので、実家のリビングで寛いでいた。
玄関から声がした。両親が買い出しから帰ってきたのかと悠長に構えていた。
「おかえりなさい」
玄関に向かうと、那津美が靴を脱ごうとしている。
「なんだ、紬か」
「兄さん・・・・・・どうしたの」
今年の正月以来、音沙汰のない那津美が現れて、僕は心底驚いた。
「帰ってきて悪いか」
久しぶりに見る兄は相変わらず不遜な物言いをして、じろりと挑発的な眼差しで僕を見やる。
「・・・・・・お前しかいないのか」
「父さんたちはスーパーに行ってる」
僕は顔を出しに寄っただけだと返す。
「これ、冷蔵庫で冷やせ。お前にじゃなくて、母さんたちにだからな」
那津美は東京に住んでいる。そこから車で実家に帰るには二時間ほど掛かるだろうに。那津美はわざわざ道中のサービスエリアで、このエッグタルトを購入したのだと説明した。
「ほらよ」
那津美は手提げ袋ごと、グイッと僕に差し出す。
「うん、分かった」
お互いに三十も超えたというのに、いつまで仲違いをし続けるつもりなのか。那津美にとって、そんなに僕は忌まわしい存在なのだろうか。そう、考えるだけで兄弟という関係が息苦しい。
「暑いな」
那津美はワイシャツの胸元を扇ぎながら足を進める。すると、那津美の愛用するサンダルウッドの香水が、僕の鼻をかすめる。
「お前、相変わらずだな」
Tシャツと短パン姿の野暮ったい僕とは違い、那津美はチノパンにブランドのポロシャツを着ている。僕よりも背丈があり、体格のある那津美がシンプルな服装を着こなせば、いつ見ても様になっている。
「その調子だと恋人もいないし、どうせ童貞だろ、可哀想に」
言葉とは裏腹に那津美の顔は半笑いだ。どこも哀れんでいない。そんな顔で言われても、ちっとも嬉しくない。
那津美が思っているよりも僕は年相応に付き合いがあり、大学で初体験をして、今も恋人だっている。そう、那津美に教えても「見栄を張るな」と、鼻で笑われるに決まっている。
わざわざ反応するのが癪に障るので、童貞小僧を演じ、恋人を家族に紹介せずに沈黙を貫いていた。事実を伝えても、それが那津美にどう作用するのか考えただけでも面倒だったからだ。那津美と競争する真似なんかしたら、それを上回る攻撃によって僕は滅多打ちにされる。いつだって、那津美の下位にいなければ、自尊心の高い那津美は納得しない。
学校の試験で那津美よりも好成績を出した時なんか、テスト用紙をビリビリに破かれた。互いに実家を出る前、朝帰りをしただけで「調子に乗るな」と胸ぐらを掴まれた。部屋で同僚の恋人と電話をしていたら、「うるさい」と扉を蹴られたりもした。
よほどストレスに苛まれているのか心配した頃もあったが、那津美の奔放な私生活を知れば、それが当てつけではないと分かる。夜に家を抜け出していることを、両親に感づかれていないと踏んでいるようだ。僕が知る限り、那津美は交際相手をころころと変えていた。それが京子と籍を入れてからは、夜遊びもなりを潜めた。
それならば、両親の期待を一身に背負っている過度な重圧感からだろう。結婚を機に、両親と距離を置く那津美の姿を見れば、やはり僕たちが原因なのだと落ち着く。
それが、僕にとって悲しい事実だとしても、自分を変える勇気すら持てないでいた。那津美に望まれるのならば嫌われ者で良い。自分は『失敗作』でもいい。そうすれば那津美が輝くのであれば、それで良かった。
「・・・・・・・・・・・・」
そんな僕が面白いのか、那津美がくすりと笑う。
「俺は二階に行ってる。母さんたちが戻ったら報せろ」
そのまま、那津美は階段を上っていこうとする。
ここで僕が黙っていると、那津美の機嫌は下がる一方だ。一応、形だけでも声を掛けたほうが得策だ。
「・・・・・・なぁ、急にどうしたの」
僕の呼びかけに、待っていましたとばかりに口角を上げた。那津美はいつも通りご満悦な表情だ。間怠っこい動作で足を止めて、那津美は大きくため息をつく。
「それをお前に言って何かなるものなのか」
その返しを予想できていたからこそ、打撃は少なかった。
「なるなら、いいんだけれど」
考え込んだふりをして僕はしらを切る。
「はっ、いつも口だけだな」
珍しく、那津美の声が弱々しく感じた。それは僕の心に後を引く。
「せいぜい、馬鹿のままでいろ」
こちらを一瞥してから、那津美は二階に消えていった。
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