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義理の弟

「あのー」  間延びした声が玄関ドアから聞こえてきた。  振り返ると、扉の隙間から背の高い冬真(とうま)がこちらを伺っている。彼は玄関の縁に頭をぶつけないよう、窮屈そうにかがみ込んで、玄関に足を踏み入れた。 「・・・・・・お邪魔します」 「と、冬真くんっ、大丈夫?」  那津美が息子の冬真を連れてきたのだと知る。彼とも、正月以来だった。那津美は冬真を放って自分だけ涼しい部屋に行くとは、何事かと焦った。 「紬さん」  彼に名を呼ばれると、どうしても心臓が竦む。 「どうしたの」  名を呼ばれたならば、なにか質問かも知れない。 「突然、お邪魔して申し訳ないです」  なんだ、子供心に気を利かせてくれただけか。僕は顔の前で手を振った。 「気にしなくていいのに、どうせ、兄の考えることだし」  今年成人したにしては、少々堅苦しい、いや礼儀正しい口ぶりだ。クリーニングしたであろう白いシャツは襟と袖がぱりっとして、冬真自身も乱れ一つない所作をみせた。 「それもそうですね」  意外な反応だ。冬真の顔色がすぐれない。 「すみません、失礼なことを」  冬真は自分の発言に焦った様子だ。 「いいんだよ、兄は、いつも物事を急に決めたがるから。冬真くんも大変だね」  窓から夏の日が差し込んで眩しい。冬真も目を眇めて苦笑いを浮かべていた。彼らがどんな要件で実家に顔を出したのかは知らない。近くに用があった流れで来たのだろう。これ以上詮索はしたくない。 「・・・・・・いえ」  チラリと冬真の視線が背後を見やる。 「兄は寝てると思うよ。ほら、冬真くんも休みなよ、東京から遠かったでしょ」 「すこし、疲れました」  どこか顔色の悪い冬真を一階の客間に通して、冷房のスイッチを入れた。ペットボトルの冷えた緑茶と焼き菓子を冬真に差し出したら、勢いよく頬張っていた。 「親はまだ帰ってこないから待たせると思うよ、汗かいたでしょう、シャワー浴びたかったら、好きに入ってよ」  冬真を前にすると、僕はいらぬお節介を焼いてしまう。  冬真は大学では陸上をしていて、すらりと伸びた長い足は快活そうな筋肉が付いている。那津美と比べたら頭一つ背が高い。それでも時折、この家に来ると貧血だと客間で横になっていることが多い。 「有り難うございます・・・・・・。あの、今日は大丈夫みたいです」  恐縮そうに冬真は言う。 「そうなんだ、分かった」  座布団に座る冬真は、ごくごくと喉を鳴らして緑茶を飲み干した。プラスチックのきしむ音がする。  タンスから客用の布団を出していたら、冬真が近づいてくる。 「俺、汗臭いですか?」  年相応の悩みだ。冬真の真剣な問いに、僕は頬をほころばせる。 「ははっ、そんな心配してたんだ。臭くないよ、僕はただ、親が心配すると冬真くんも気疲れするだろうと」 「・・・・・・そうですか」  僕の横を通り抜けて布団一式を冬真が持ち上げ、慣れた動作で畳の上にひいた。 「それならいいんです」  冬真が座布団に戻る。 「布団、干してこようか」  まだ午後だ、日が落ちていない。客用の布団が用意されていても、この家で客間を使うのは冬真しかいない。前もって彼らが帰省する旨を伝えていれば、母が干していてくれただろうに。 「あっ、お気になさらず。俺は大丈夫です」 「そ、そう」  ここは両親に任せた方がいい、と僕は余計なお節介を続けようとする口を閉じた。  冷房が効き始めたのを確認して、僕は部屋から出ようとした。 「僕はリビングにいるね」  言いながら引き戸に手を掛けると、冬真に呼び止められた。 「あの」 「なんだい」 「紬さん・・・・・・。あの人は、いつも、あんなに紬さんに冷たいんですか」  あの人。冬真は、義父の那津美を、そう呼ぶ。決まって、僕と二人だけの時だ。  どうやら、先程のやりとりを玄関先から聞いていたみたいだ。 「まぁ、兄弟だから」  仲が悪いことなんて明白なのに、僕は濁した。なんとか平静な顔を保てているだろうか。 「東京の家で俺が紬さんの話をすると、あの人はいつも機嫌が悪くなるんです」  お願いだから、自分の話題は避けてくれと懇願したい。  しかし、そんなおそろしい真似はできなかった。 「それは、まぁ、そういうもんだよ。僕の話題って楽しいものじゃないし。兄だって、」  冬真が遮った。 「いいえ、違うんです」  真顔で言われた。 「あの人、こう言うんですよ。『お前があいつの名を呼ぶな』って・・・・・・まるで」  相当嫌われている。食いしばった歯の間から緊張の息が漏れる。 「いつも母親と俺に優しいのに、そのときは知らない人みたいで」  憐憫の情だろうか。冬真の眼差しが、まっすぐ僕にだけ注がれる。どうやら、那津美は彼らの前で完璧な聖人を演じているようだ。 「紬さんを独り占めしたいみたいだ」  予期せぬ言葉に、一瞬だけ呼吸が止まる。わざと声を高くして笑い返した。 「えー、それはないよ。寧ろ、視界にも入れたくないって」  言い過ぎた。子供相手に何を喋っているのだ、と僕は自分の幼稚さに口をつぐんだ。 「紬さん、さすがに卑下しすぎですよ・・・・・・年下の俺が言っても失礼でしょうが」 「そうだね、ごめん」 「紬さん、お変わりないようで良かったです」  母親の京子から躾けられてきたにせよ、二十歳にしては丁寧な言葉遣いは嘘くさくて居心地が悪い。好青年であろう冬真に対して始めて抱く不信感の原因は直ぐに分かる。どこか距離を保つ為に使う敬語だ。  自分たちとは血の繋がりがない冬真も、那津美と同じ目で僕を見下ろしてくる。幼い頃から那津美が『お前は失敗作だ』と僕を呼ぶときみたいに、冬真は満足そうに微笑む。  別段、品定めをされているわけでもないのに、冬真の視線は鋭利な刃物みたいだ。三秒以上見つめられると、胸を縦に切られるような痛みを錯覚する。  那津美と冬真、二人とも悠然と笑みを湛える瞬間、どんな感情が渦を巻いているのだろうか。

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